「内側を清めよ」 ルカ福音書一一章三七ー五四節

 ある時、主イエスがパリサイ人に食事を招かれた時であります。その時主イエスは食事の前に手を洗わなかった。食事の前に手を洗うということは、衛生的な意味もあったかもしれませんが、当時はもっと宗教的な意味があったようであります。それでパリサイ人は不思議に思った。ルカによる福音書には、しばしばイエスはパリサイ人に食事を招かれたという記事が書いてあります。七章のところでも、町の評判の罪ある女がきて泣きながらイエスの足下に座り、イエスの足に涙をこぼし、それを髪の毛でぬぐい、香油を塗ったという出来事が起こったのも、イエスがパリサイ人に食事を招かれている時のことであります。イエスを招いたパリサイ人はそれを見て、そうされるままにいるイエスを非難する目で見ていた。するとイエスは「わたしがあなたの家にはいったきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところがこの女は涙でわたしの足をぬらしてくれたのだ」といわれたというのです。イエスをわざわざ食事に招くのですから、初めからイエスに敵対する気持ちでイエスを招いたわけではないだろうと思います。やはり敬意を覚えてイエスを招いているのです。ですから、イエスの不快な行 動をみても、このパリサイ人は、あからさまに口に出してイエスを非難してはいないのです。この二つの記事とも、彼らが「心の中で思った」「不思議に思った」となっておりますので、あからさまにイエスを非難してはいないのです。しかし心の中で非難しようとした。それをイエスのほうが察知して、パリサイ人を叱ったということになっております。
 ちなみに、食事の前に手を洗わないということで、パリサイ人と争論があったという記事は、マルコによる福音書、マタイによる福音書では、イエスの弟子たちが食事の前に「手を洗わないのを見て」となっております。マルコとマタイの記事では、イエスがパリサイ人に食事に招かれてということではないようであります。
イエスは「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものになる」といわれます。このところの「内側にあるものをきよめなさい」というところは、新共同訳聖書では「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」となっております。これは最近でましたどの訳も、英語の聖書もそうなっております。リビングバイブルは「゜内側のきよさは行いに表れます。たとえば、どれだけ親切に、貧しい人たちを助けてやるかによって、はっきりするのです。」と苦心して訳しております。どうして口語訳聖書は、「内側にあるものをきよめなさい」という訳になったかといいますと、これはひとつには、「器の中にある物を人に施せ」ということでは、前後関係からいいますと、意味がわからないということと、マタイによる福音書では、「あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちてい る。まず、杯の内側をきれいにしなさい。そうすれば、外側もきれいになる」となっていて、この影響を受けて口語訳のルカによる福音書もここを「内側にあるものをきよめよ」という訳になったのではないかと思われます。そしてある人が説明しておりますが、主イエスの語られた言葉はへブル語なのですが、もう少し厳密にいいますと、アラム語であります。そのアラム語では、「施す」という言葉と「清める」という言葉とは、綴りの上でほんのわずかな違いだけなのだそうです。それで本当は「清める」というところを「施す」という字に間違って伝えられたのではないかと説明する学者もいるということであります。イエスは本当はここでは「きよめなさい」と言われたのだろうという説明がなされております。

確かにマタイによる福音書にあるように、「内側をきれいにしなさい。そうすれば、外側もきれいになる」とありますので、口語訳の訳のほうが意味がすっきりすると思いますが、しかしそれでは「内側を清くする」ということは、具体的にはどういうことなのでしょうか。これはこの世的な意味でならよくわかることであります。たとえば、お化粧ばかりして、外側をどんなにきれいにしても、その人の心のなか、その人の品性というものは、どうしたって顔に表れてしまうものであります。ですから、内面性が大事だ、教養をみにつけるとか、やさしい心をもつほうがお化粧するよりもその人をきれいにする、ということはいえるわけです。そんな常識的なことを聖書もいうのでしょうか。
 パリサイ人というのは、本当は一番自分の内面を清くしようと真剣に生きた人々であります。彼らは祭司階級の人々ととは違って、非常に宗教的に真面目でした。それだけにまた清貧に甘んじるという人々が多かったようであります。ともかく真面目に律法を守ろうとした。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めようとしていた。彼らは立派な人間になろうとしていたのです。ですから、人から尊敬されることを望んでいたのです。ただその中身が問題だった。イエスは「あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている」というのです。それはパリサイ人が根っからの貪欲と邪悪で満ちているというのではなく、彼らがいつでも目指しているものが自分の立派さ、自分の正しさ、自分がいかに宗教的な人間になろうとしているか、ということなのです。つまり彼らはなるほど人に施しをするかもしれない。自分のもっているものの十分の一を神に捧げるかもしれない。しかしそれらの行動のすべては、ただ自分の正しさを求めてのものなのです。自分の立派さを求めているのです。後のパウロがそういうパリサイ人のことを「彼らは神 の義をしらないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」といっております。つまりパリサイ人は物質的な意味で「貪欲であり、放縦である」というのではなく、精神的な意味で、自分の立派さ、自分の義を主張するという意味で、「貪欲であり、放縦である」ということなのであります。彼らの内側は、肉的な意味で貪欲とか放縦であるというのではなく、霊的な意味で、悪い意味での霊的な意味で、貪欲であり、放縦なのです。ですから、彼らは物質的な意味で金持ちになるよりは、精神的な意味で人々から尊敬されるほうを望んだのであります。だから「会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる」のです。これは精神的な紳士に対する人々の扱いであります。お金持ちに対しては人は敬礼などしないのです。
 ですから、パリサイ人というのは、一番自分の心の内面性に関心をもって生きた人であります。そういう意味では自分の心を「清くしよう」と躍起になっていた人々であります。しかしそれが主イエスからみれば、「あなたがたは杯の外側を清くして、内側は貪欲と邪悪で満ちている」ということになるのであります。 ですから、自分の「内側を清くする」ということは難しいことであります。「内側にあるものをきよめなさい」ということはどういうことなのか。そう考えたならば、むしろ、原文に即して、新共同訳聖書の訳のように「器の中にある物を人に施せ」とあるように、もう自分の心の内面性をきよめるとか、精神を高めるとかもうそんなことはしないで、行動にでなさい、もう心の中のことをああでもないこうでもないと、反省ばかりするよりは、行動が大事なのだ、人に施しなさい、ということが、「自分の内側を清めることになる」ということなのかもしれないと思います。
つまり、もう自分の義、自分の正しさ、自分の立派さなんか求めるな、ということ、そういう内向的な生き方をもう断念して、外に向かって行動しなさい、人に施しなさい、自分の中にあるものを人に施しなさい、それが清くなるということなのだという意味にとることができると思います。ルカによる福音書というものが、具体的で、隣人を愛しなさいということをいつも具体的に勧めるという特徴がありますので、そのことからいっても、ここは「人に施しなさい、そうすればすべては清くなる」ということなのかもしれないと思います。

自分の心の中身を清くしよう、清くしようとすれば、するほど、本人は大真面目でも、実際は醜くくなっていくかもしれません。醜いというといいすぎかもしれませんが、むなしい努力に終わるのではないか。われわれは確かに外側だけをきれいにしても、内側が貪欲と放縦とで満ちていたら、なんにもならないと思います。しかしだからといって、開き直って、もうお化粧をいっさいしない、外にあらわれるみだしなみはいっさいしないということでいいかどうかであります。創世記では、最初に罪を犯したアダムとエバは、自分たちの裸が醜いことに気がついて、いちじくの葉でおおったというのです。しかしそれは自分たちの裸を隠しきれなかったであります。それで神様は哀れに思って、皮の着物を造ってそれを彼らに着せたのであります。やはりわれわれの裸は醜いのです。そしてそれを開き直って、醜いままでいいなどと、裸のままでいたら、なおさら醜くなるのであります。だから、ある意味では、外側をきれいにするということは大切なことだし、神様もまたわれわれの恥を覆ってくださるのですから、われわれも自分の外側をきれいにする、そうしたことは大事であります。ただその場合い つも、自分の内側には、貪欲と放縦で満ちているという自覚をもつことです。外側だけを清めても決してこの内側を清くするなんてことはできないということを思いながら、つつましくお化粧するということであります。厚化粧する必要はないでしょうが、慎ましい化粧は必要であります。
 神によって皮の着物を着せられている自分を自覚すること、神によって赦されていることを知って生きるということ、それがなによりも自分の内側を清くするということではないかと思います。
 パウロも言っております。「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜るそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜ったのである。だから、わたしたちは心強い」というのであります。
「脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからである」というのです。自分の醜いものを脱ぎ捨てようとしても、むなしい努力であります。それよりは、その上に神に皮の着物を着せてもらうと切に願うことが大事なのであります。それがまたわれわれにとって、「自分の内側を清くする」ということになるのではないかと思います。