「恐るべき者はだれか」   ルカ福音書一二章一ー一二節

 一二章の四節からみますと、「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」と主イエスは言われております。ここのところはマタイによる福音書によれば、イエスが十二人の弟子たちを選び、その弟子たちを伝道に派遣するに際して、「お前たちは伝道するうちに、わたしの名の故に人々に捕らえられ、会堂でむち打たれ、人々に憎まれ、迫害されることになるだろう。しかしその時には恐れることはない、彼らはお前たちのからだは殺すことはできても、魂までも殺すことはできないのだから、それよりはからだも魂も地獄で滅ぼす力のある者を恐れよ」と言っているところで、弟子たちが迫害にあることを予想して、その弟子たちを励ますための言葉になっております。
 ところがルカによる福音書では、その前後関係が明確になっておりません。一節からみますと、イエスは弟子たちに対して「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい」という言葉で始まっております。これは十一章で学んだところで、パリサイ人律法学者たちの偽善的な行為を主イエスが激しく糾弾したことを受けて、そのつながりから出た言葉のようであります。そしてそのあとに、二節から「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」と続きます。この二節からの言葉は、マタイによる福音書では、迫害にあっても、それは福音を証するいい機会になるのだから、必ず真理は最後には明らかになるのだから、堂々と真理である福音を恐れることなく宣べ伝え伝えなさい、という文脈の中で言われている言葉であります。マタイによる福音書のほうでは「耳にささやかれたことを屋根の上で言い広めよ」と、そうしなさいという勧告、命令になっているのに対して、ルカでは「言い広められる 」と、事実としてそうなるということになっております。
この違いは、ルカによる福音書が、十一章にあるパリサイ人、律法学者の偽善とつながらせようとしたのでこうなったのではないかと思います。
 新共同訳聖書では、一節から三節からをひとつのまとまりとして考えて、そこに「偽善に気をつけさせる」という表題をつけ、四節からは別のまとまりにして、「恐るべき者」という表題をつけて、この二つをわけております。

 そういう事情はありますが、この四節からのところは、マタイによる福音書と同じように、やはり弟子たちが迫害に会うことを予想しての主イエスの弟子たちに対する励ましの言葉でありますから、一節二節三節の言葉もその関連のなかで考えてもいいとこではないかと思います。イエスの弟子たちが迫害を受けるのは、やはりパリサイ人、律法学者たちの偽善的な生き方から起こっていることであります。彼らはなぜイエスを迫害し、その弟子たちを迫害するかと言えば、自分たちは正しいという思い、そしてその彼らの正しさをイエスが批判するからであります。彼らは自分たちの正しさを、正しさそのもののもつ力に委ねようとしない。つまり真理というのはほっておいても、真理そのもののもつ力というものでその正しさがあきらかにされていく、覆われているものであらわれてこないものはないという真理のもつそのものの力に委ねようとしないで、自分たちの正しさを批判するものに対しては、過剰な防御反応を起こして他人の正しさを攻撃することで、自分の正しさを主張しようとするのであります。その過剰反応が偽善を生み出していくのではないかと思います。そしてそれが迫害を生むので あります。
 もし自分の正しさというものがもっと開かれたものとして、他者からの批判を
受け入れる姿勢をもった正しさであるならば、われわれは偽善的になる必要はなくなると思います。自分の正しさをいつも防御的に自分で守ろうとするから偽善的になるのではないかと思います。正しさというものは、どんなに隠そうとしても最後には、その正しさそのものの力によって、明らかになっていくものであります。自分で自分の正しさを守る必要はない筈であります。「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない」のであります。だから、主イエス・キリストの宣べ伝え伝えた福音はどんなに迫害を受けても全世界に拡がっていったのであります。

 主イエス・キリストは、そのようにして迫害を受ける弟子たちに対して「そこでわたしの友であるあなたがたに言う。からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにも出来ない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい、そうだ、そのかたを恐れなさい」というのであります。マタイによる福音書では、「からだを殺しても、魂を殺すことの出来ない者を恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」とあります。人間はお前たちのからだを殺すことはできるかも知れない。しかし魂までも殺すことはできないだろうというのです。だから何も恐れる必要はないではないかと言われるのです。
 今日われわれはそういわれて、だから恐れから解放されるかということであります。迫害が恐ろしいのは、われわれの身体が、肉体が殺されことなのではないか。われわれは自分の身体が抹殺されてまえばもうそれでなにもかも終わりだと思ってしまっていないか。ここで問われるのは、われわれは魂の存在を信じているかということであります。ルカによる福音書には不思議なことに「魂」という言葉は使っていなくて、「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない」という表現、あるいは、「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む」と表現されておりますが、言っていることは肉体の死のあとの魂の存在をさしていると思います。われわれは魂の存在というものを信じられるか。魂の存在というものを信じられなかったならば、到底迫害には耐えられないと思います。
 しかし今日においても、多くの迫害に耐えて殺されていった人はたくさんいると思います。現代の人々が果たして昔の人のようにみんながみんな魂の存在を信じていたかどうかわからないと思います。それなのにその迫害に耐えて、殉教の死を遂げた人々はたくさんいたと思います。その人々はどうしてその迫害に耐え、自分の正しさを曲げないで、殉教できたのだろうか。その理由は、主イエス・キリストが言われたように、「隠れているもので、知られて来ないものはない」ということ、つまり、何が正しいか、何が真実かは必ず歴史が明らかにしてくれる、そういう希望があったから、自分は死んでも、自分が死を賭して明らかにしようとした真理、正しさは現れる、そういう希望があったからこそ、殉教できたのではないかと思います。
しかしわれわれはそれだけで迫害にたえられるだろうか。真理は必ず明らかにされる、正しさは必ず歴史のうちに明らかにされるという希望だけで殉教の死をわれわれはとげられるだろうか。あの弱い弟子たちにそれができるだろうか。ただ真理は必ず明らかにされるという望みだけで殉教の死を遂げられるのはよほどの偉い人たちだけなのではないか。
 主イエス・キリストもそのことは十分知っておられるのであります。それで主イエスは弟子たちに対しては、ただ真理は必ず明らかにされるから、だから堂々と福音を宣べ伝え伝えよ、と言われただけでなく、お前たちを迫害する者たちはお前たちの身体は殺すことはできるかもしれないが、それ以上何もできない、お前たちの魂までも抹殺することはできないではないか。神がお前たちの魂を守ってくださる、迫害を受けて殺されたあとも、お前たちの魂を守ってくださるかたがおられるのだから恐れることはないというのであります。
真理のために自分の死を賭けてまで、戦うなんてことはあの弟子たちにも、そしてわれわれにも到底できないと思います。主イエスもそのことはよくご存じだった。だから、「殺したあとで、それ以上なにもできなものを恐れるな」と、語り、さらに主イエスは「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。そのうえ、あなたがたの頭の毛までもみな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」と言って弟子たちを励ますのであります。マタイによる福音書には、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」となっております。アサリオンというのは、一番小さい価格であります。ですから、雀というのは鳥のなかでも一番安く売られている鳥だというのです。ある人がうがったことをいって、マタイでは二羽のすずめは一アサリオンといわれ、ルカでは五羽の雀が二アサリオンと言われている、つまり、ルカのほうが一羽余分だ、本当は四羽の雀は二アサリオンといわなくてはならないところを、 ルカは五羽のすずめはといっている、これは一羽おまけがついているということだ、そのおまけとしてつけられている一羽のすずめですら、神はお忘れにならないということなのだ、と説明しております。それはすこし面白すぎる説明ですけれど、ここでいっている趣旨はその通りであります。どんなに価値のない雀ですら、おまけにつくような雀ですら、神はお忘れにならない。
 マタイ福音書では、神の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはないといわれておりす。神様はわれわれの頭の髪の毛一本一本までもすべて数えつくして、ご存じである、われわれの良いところも悪い所もすべて知っておられる、その上であの雀よりもまさったものとして受け入れてくださっている、そういうかたがおまえたちひとりひとりの死にかかわってくださっておられる、決してお前たちの死は無駄で終わらないのだ、だから恐れることはない、というのであります。どんな人の死にも神がかかわっておられる、父なる神のゆるしがなければ、一羽の雀ですら、地に落ちることはないというのであります。どんなに絶望して自らの命を絶って、自殺したとしても、その人は自分で自分の命に決着をつけたと思っているかもしれないが、その背後には神の御手があって、神が関わっていなければ死ぬこともできないということであります。どんな死にかんしても、たとえ自殺者の死に関しても、神が関わらない死はないというのであります。それはなんと大きな慰めではないでしょうか。
そのかたは、「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかた」だというのです。われわれを愛してくれる人がいるということはありがたいことであります。それはどんなに力のない母親でも、この世にひとりでも自分を心から愛してくれる人がいたら、その人がどんなに力のない人でも、そういう人がひとりでもいてくれたらどんなに慰めになるかわからないと思います。しかもここでは、力のない母親というものではなく、われわれを地獄で滅ぼす権威をもったかただというのです。とてつもない権威をもったかた、力をもったかた、そういうかたによってわれわれの生と死が守られているのだというのです。だから恐れることはないではないかというのです。「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」というのです。ここでは、われわれを殺したあとで、地獄に投げ込むぞ、だからそのかたを恐れなさい、というのではないのです。そのかたは、われわれのからだと魂を地獄で殺す権威と力をもちながら、その権威と力を行使しないというのです。使わないというのです。
 この聖書の言葉をこのように注意深く読んでいたなら、わたしはキリスト教に対する誤解から早くから解放されていたのにとつくづく思います。わたしは中学生の時に聖書を学んだのですが、聖書のこういう箇所を読む度に神様というかたは恐ろしいかただとい印象をもったのです。いや単なる印象ではなく、そういう信仰をもってしまったのです。つまり、イエス・キリストの父なる神はまるで閻魔大王のような存在でしかなかったのです。悪いことをしたら、わたしを地獄におとすかたという誤解であります。マタイによる福音書にある「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられないほうがあなたにとって益でる」という言葉が、父なる神を閻魔大王にしてしまったのであります。
 しかしここでは、そうはしないと主イエス・キリストはいわれるのです。「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のある」かたが、その権威と力を行使しないで、あの価値のない雀よりもまさった者として、われわれの命をまもってくださるというのです。
主イエス・キリストは、「恐るべき者はだれであるか、教えてあげよう」といわれます。「殺したあとで、さらに地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」といわれます。しかしそのあとでは、「恐れることはない」というのです。「恐れなさい」といいながら、最後には「恐れることはない」といわれるのです。この事は大切だと思います。われわれが本当の恐れ、恐怖から解放されるのは、恐るべきかた、ただわれわれが甘えることの出来る人ではなく、そのかたの前に立つならば、畏れれおののかなくてはならないようなかた、そのかたを真に恐れることによって、そしてそのかたから「恐れることはない」といわれて、はじめてわれわれは一切の恐怖から解放されるのでなはいかということなのです。ただ母親のような甘い愛にどんなに守られても、われわれはわれわれを脅かす死の恐怖、迫害の恐怖、あるいはそこから起こる拷問の恐怖からは、解放されないのです。われわれを地獄で滅ぼす権威と力をもったかた、そのかたを真に恐れる時に、恐れから解放されるのであります。主イエス・キリストがわれわれに教えてくださった父なる神は、ただ人間の親のように甘えられるかたではない、 真に恐れなくてはならないかたなのです。われわれが真に恐れなくてはならないかた、そのかたの前に立ったならば、一切のわれわれの偽善的な行為も思いも暴露されてしまうようなかた、そのかたがわれわれのすべてのことを知り尽くし、われわれの頭の毛一本一本までも数え尽くして、われわれのすべてを知り尽くして、その上でわれわれを受け入れてくださる、そういう愛のかたを信じる時に、われわれは恐れから解放されるのであります。われわれが本当に恐れなくてはならないのは、閻魔大王なんかではないのです。われわれが本当に恐れなくてはならないかたは、このようにしてわれわれを愛してくれるかたなのであります。