「神に宝を積む」     ルカ福音書一二章一三ー二一節

 一三節をみますと、「群衆の中のひとりがイエスに云った、『先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください』」とあります。兄弟というのは、おそらく兄のことであります。当時は遺産は長男のものだったようであります。あるいは、長男の取り分が多かったのです。それで自分にも遺産をわけてくれるように兄に云ってくれとイエスに頼んだわけです。この状況が一二節からの状況の中でいわれたのか、それともそれは全く別の機会なのかははっきりいたしません。

 一二章の一節をみますと、「おびただしい群衆が」とありますので、そのなかの一人の人だったのかもしれません。その人がイエスの力強い話を聞いていて、このかたなら兄を説得してくれると思ったのかもしれません。それでイエスは「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人まは分配人に立てたのか」と一括します。もしこの場面が一二節からの場面とつながっているとすれば、イエスは今弟子達に対して迫害あることを述べて、しかし、心配する必要はない、聖霊が助けてくれると話をしておられる時ということになります。イエスは今真理の問題、神様の問題から起こる真理問題について話しておられるのです。それなのにそれを聞いている群衆の一人は、いきなり自分の損得の問題にイエスを引っ張り込もうとしているのであります。
 
それでイエスは「だれがわたしをあなたがたの裁判人、または分配人に立てたのか」といわれるのです。この言葉はイエスの激しい憤りのことばなのか、嘆きの言葉なのか、「やれやれ」という皮肉の言葉なのかはよくわかりませんが、そのあとイエスは人間の貪欲についての話になりますので、われわれの真理問題、いわば高尚な精神的な問題は常にわれわれのこの世的な問題と深く関わっているのだということがここで示されていると思います。

 真理を述べて迫害に会い、命を危うくされるという問題は、いつも人間の貪欲の問題と深く結びついているのであります。この貪欲の問題は、「わたしの兄に遺産を分けてくれるようにいってくれ」というこの男だけの問題ではなく、迫害にあうかも知れないイエスの弟子達の心の中にも深く根ざしている問題なのだということであります。迫害に耐える問題、迫害に会っても福音の真理を曲げない、イエスを人前で拒まないという問題は、われわれが神を本当に信じて、神に宝を積むという生き方をしているか、それともこの世の富とかこの世の人間関係に自分の安心立命を求めようとしているかにやはり関わっている問題なのであります。つまり、われわれが本当に神に信頼してないで、この世の富とかこの世の人間関係を第一にしているのであるならば、到底迫害に耐えるなんてことはできないのです。

 「遺産を分けてくれ」という問題は、この男ひとりの問題ではなく、弟子を含めたすべての人の問題なのであります。だから、このあと、イエスはもうこの男に向かってではなく、一五節をみますと、「それから人々にむかって云われた」と、群衆に向かって「貪欲」についての話をなさるのであります。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物をもっていても、人の命は、持ち物にはよらない」といわれます。
 
 「貪欲」とはどういうことでしょうか。辞書をひきましたら、これはもともとは仏教用語で、「とんよく」という読み方で仏教では十悪の一つ、また三毒のひとつで、「飽きずにむさぼること」と説明されております。「むさぼる」ということであります。十戒の最後に「むさぼるなかれ」というのがありますが、その「むさぼり」であります。十戒の最後は「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべての隣人の持ち物をむさぼってはならない」とあります。「むさぼる」というのは、ただ他人のものを盗むというのとは違うのです。せっぱ詰まって盗むのとは違うのです。自分はものをもっているのです。しかし他人のものが欲しいというのです。自分だけのもので満足しないでもっと欲しいもっと欲しいという思い、それがむさぼりであり、貪欲であります。
 
 旧約聖書にイスラエルのダビデ王が自分の部下の奥さんを自分のものにしてしまい、その夫を殺してしまって、知らん顔しているということが神に糾弾されるところがありますが、その時に預言者のナタンがダビデのところにいって、こういう話をしてダビデの罪を糾弾するのです。ある富んでいる人のところにひとりの旅人がきた。ところがその富んでいる人は自分の持っている羊をとって旅人にもてなすのを惜しみ、その町に住んでいる貧しい人が大事に大事にして飼っている子羊を取って、それで調理して旅人にもてなしたという話をするのであります。それを聞いて、ダビデは怒り、そんなことをする者は死刑だと叫び出す。するとすかさず預言者ナタンは、「あなたがその人です」というのです。「神はあなたをイスラエルの王として選び、家を与え、財産を与え、あなたには妻もいる。それなのにどうして自分の部下の奥さんをとるのか」と、糾弾するのであります。

「むさぼる」ということはそういうことです。自分には余るほどの羊がいる。それなのにそれを調理することを惜しんで、隣の貧しい人が大事にしている、たった一頭の子羊を欲しいと思う気持ちであります。
 
 パウロが律法の問題、律法主義の問題をとりあげて、われわれの心の中に潜んでいる「むさぼり」の心があるために、せっかく神様からいただいた律法を神の義に従う律法としてではなく、自分の義、自分の正しさ、自分の立派さを主張するための律法に変えてしまうと論じているところがあります。われわれの心の中に潜んでいる「むさぼり」という罪が、律法をだめにしてしまったのだと述べるのであります。

 「むさぼり」とは、もっと欲しいもっと欲しいという欲望であります。それは仏教のほうでも、十悪、いやそれは毒だというのであります。三毒、三つの毒の一つだということであります。イエスに「わたしの兄に遺産を分けてくれるように云ってくれ」と訴えた人は、決して生活に困っていたわけではないのです。もっとお金が欲しい、ということで遺産を、遺産の中の取り分をもっと欲しいとい思ったのです。それはこの男の人だけでなく、まさにわれわれの心のなかに根強くある思いであります。

 そうしてイエスはその貪欲について警戒しなさいといいます。イエスは貪欲について「警戒しなさい」といいます。貪欲を取り去れとは云っていないのです。新共同訳聖書では「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」となっております。貪欲そのものをわれわれの心の中から全くなくしてしまうことはできないかもしれません。しかし警戒することはできる、その貪欲にわれわれの生活がわれわれの人生が振り回されてしまわないように警戒することはできる、用心することはできるのだというのです。この貪欲というものに振り回されてしまって人生そのものを台無しにしてしまった人の話はいくらでもあるからであります。どうしたら、この貪欲にふりまわされないように警戒することができるのか。

 それは「たとい沢山の物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらない」ということをしっかりと知っておくことだということだとイエスは云われるのであります。われわれの命を根本的に支えるのは、物ではない、お金ではない、神様だということをしっかりと知っておくことだというのであります。そのことを知っていなければ、どんなにわれわれが自分の心に向かって富みのむなしさをいってみても、だから貪欲はいけないといってみても、貪欲な心を抑制したり、捨てることはできないのであります。富のむなしさを知っている人は、富をもっている人だけかもしれません。ありあまるお金をもちながら、それでも安心できなくて、もっと欲しいもっと欲しい、もっとお金がなくては安心できないと思っているお金持ち、あるいはお金があればあるほどそれが取られるのではないかと厳重に管理したり、防御をしなくては安心して夜も眠れないという金持ちが一番富のむなしさを知っているのではないかと思います。

お金をもっていない人が「富なんかむなしい」といってみても、それは犬の遠吠えのようものであまり説得力をもたないと思います。われわれが富のむなしさを知るのは、お金よりももっと力のあるものを知る以外にないのであります。「たとい沢山の物をもっていても、人のいのちはもちものによらない」ということを知ることが、つまり富よりももっと頼りなるものがあることを知ることが、われわれが貪欲から解放される道だということであります。つまり、富のむなしさを知ってから、神を信じる豊かな生活をしるという方向ではなく、今貧しい生活をしながら、神を信じる豊かな生活をすることによって、お金を追求していくという貪欲な生き方をやめるということであります。

 イエスはこういうたとえ話をいたします。「ある金持ちの畑が豊作であった。それで彼は今まであった倉を取り壊して、もっと大きい倉を建てて、そこにその年に取れた穀物や食料を全部しまいこんで、自分の魂に対してこう云ったというのです。『魂よ、お前には長年分の食料がたくさん蓄えて有る。さあ、安心せよ。食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に云われた。『愚かな者よ。お前の魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、お前が用意した物は、誰のものになるのか』。」

  われわれはこのイエスのたとえ話を聞いて、どうしてこの男が愚かなのかわからないのではないかと思うのです。なぜなら、これはわれわれが今日みんながやっていることだし、われわれが責任をもってこの世で生きようとするときに、むしろこれは当然なことだし、愚かな生き方ではなく、賢い生き方、いや責任ある生き方、当然そうすべき生き方だと思うからであります。われわれは貯金をある程度していると思いますし、もっとお金を運用する方策をとっているかもしれないと思います。また保険に入っていると思います。それが責任ある生き方というものであります。そうでなければ、われわれはいざというときに、一文無しであるならば、自分が生きられないし、従って他人に迷惑をかけることになるわけで、他人に迷惑にならないように生きるためには、ある程度の貯蓄とか保険に入っているのは当然であります。

 だからこの男が「魂よ、お前には長年分の食料が蓄えてある。さあ、安心せよ」と自分の心に言い聞かせるのは、少しも愚かであるとは思えないのであります。そうしますと、問題はそのあとだ、この男はそのあと「食え、飲め、楽しめ」というところが問題なのだ、愚かなのだ、ということなのでしょうか。しかしこれだってわれわれがやっていることであります。むしろそうしないで、貯めたお金を一銭も使わないで、何も楽しまないで後生大事にしていくほうが愚かな生活ではないかと思います。

 そういう生活をしている者に対してイエスは「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」といわれるのであります。つまり、われわれはある程度貯蓄したり、保険に入るわけですけれど、その時に、こうしたことをしても今夜自分の命は取り去られるかも知れないという覚悟をもってそうしているか、そしてそうしたら、今まで貯めてきたお金は他の誰かのものになってしまう、それでもいいのだという覚悟をもってそうしているかということではないかと思います。

  われわれとこの金持ちの男との違いは、われわれは昔の聖書の訳でいいますと「今宵汝の魂とらるべし」というイエスの言葉を聞いて、その覚悟のなかでそうしているかどうかということではないかと思います。いつ死ぬかわからない、自分の命は自分でどんなに用心しても守れるものではないということをわれわれは知っている、死の恐怖というものをよく知っている、だからわれわれは自分が死んだ時のための葬儀の費用のためにある程度の貯蓄をするのかもしれないし、すぐ死ぬということでなくても病気のことを考えてそうする必要があると思ってそうしているのであります。保険制度というのも、むしろ「今宵汝の魂とらるべし」というイエスの言葉を聞いているからこそ、できた制度ではないかと思うのです。どんなに貯蓄しても、どんに保険に入っていても、自分の命はそれによって確保できるわけではない、「人のいのちは、持ち物にはよらないのだ」ということをよく知っていてそうするのであります。それは大きな安心を得るためではなく、ごくごく限られたこの世的な小さな安心を得るために、われわれは貯蓄したり保険に入ったりしているのだということであります。

 イエスはこのたとえ話をするときに、はじめに「ある金持ちの畑が豊作であった」と話はじめるのであります。つまりこの人はその年に豊作になって金持ちになったのではなく、もともと「ある金持ちが」というところから話をはじめているのであります。もし貧しい人がその年に豊作になって、ということなら、イエスは「愚かな者よ」とは非難しなかったかも知れないと思います。この金持ちは「人のいのちは、結局のところ、なんといっても持ち物だ、お金なんだ」と思っている、そこが一番の問題なのであります。そういう考えかた生き方をしているから、われわれは貪欲になっていくのであります。「人の命は持ち物による」という思いがあるから、われわれはもっと貯めなくては、もっともっと、貪欲になっていくのではないかと思います。

 仏教では、「貪欲」は十悪の一つで、しかも三毒のひとつだといっているということであります。「貪欲、むさぼる」という思いは、もう単なる道徳上の「悪」ではなく、毒だ、つまり中毒という毒、つまり、もう病気だということであります。アルコール中毒と同じようにもう病気だというのでりあます。病気になった人をいやすのは、もう単なる道徳的な勧告ではどうにもならないのです。それこそ魂の医者が必要であります。イエス・キリストは単なる道徳、「貪欲はいけない」という道徳を教えにいらしたのではなく、われわれの命は誰が支配し、誰が守っておられるのか、人のいのちは持ち物によらないのだということを身をもって示す魂の医者としてこの世にいらしたのであります。それが二二節から始まる「何を食べようか、命のことで思い煩うな」という教えになるのであります。
「自分のために宝を積まないで、神に対して宝を積む」ということは、自分の財産を教会に献金して、天国に貯金しなさいというようなことではないのです。そういういわば功徳を積むということではないのです。自分をどんどん太らせることによって、安心を得ようとするのではなく、むしろ逆にどんどん自分をスリムにしていって、いらないものはどんどん捨てていって、スリムになって神に信頼していきなさい、それが天に宝を積むということ、神に富むということなのであります。