「目を覚まして待つ」   ルカ福音書十二章三五ー四八節

 主イエスは群衆に対して、自分の財産を多く蓄えて、そして「さあ、これで安心だ。わが魂よ、おまえには長年分の食糧が沢山蓄えてある。食え、飲め、楽しめ」と自分の魂に言い聞かせている人々に対して、「愚かな者よ、お前の魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」と、警告を発しております。自分にあぐらをかいている者に対して、自分の持ち物に自分の安心の根拠をおくのではなく、神に安心の根拠を置かなくてはならない、つまり神に信頼しなくてはならないということを警告します。

そして、弟子達に対しては、「だから思い煩うな。神に信頼して、もう自分の思い煩いを捨てなさい。大きな神に自分の命をあずけたら、こんな大きな安心はない」と言われるのであります。「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな」といわれます。われわれはここだけを聞きましたら、信仰生活というものは、ずいぶん気楽な生活だと思うかもしれません。ある意味ではたるんだ生活だと思われるかもしれません。

しかしそのあと、主イエスはそういうわれわれの思いをみすかすようにして、すぐ続けて「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。目を覚ましていなさい」というのであります。ここでは一転して、われわれの信仰生活というのは、決して怠惰なのんびりとした生活ではなく、緊張感をもった生活、どんな時にも目を覚ましていなくてはならない生活だと告げるのであります。思い煩いを捨てる生活というのは、決してあぐらをかいてしまうという安楽な生活ではなく、それはいつも目を覚ましていなくてはならない生活だというのであります。

 三五節から今日学ぶところであります。「腰に帯びをしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは、さいわいだ」いうのであります。
 ここでたとえられていることは、われわれの世界には終末というのがある、そのときには、主イエスは再び天から来られるのだということであります。ここで言われている主人とは、主イエスのことであります。前の前の週の聖書の箇所では、「お前の魂は今夜のうちにも取り去られるかもしれない。そしたら、お前の用意した物はだれのものになるのか」と、いわばわれわれの個人個人の死について、その死はいつくるかわからないものとしての死について、語っておりますが、ここでは、そうした個人個人の死だけでなく、この世界全体の、この世の終末というのがあること、しかもその終末はいつくるかわからない、ちょうど個人の死というものがかならずしも、人が七十になり、八十になってからぼつぼつやってくるとは限らないで、ある日ある時、突然やってくるように、終末というものも、いつくるかわからないが、それはかならずある時やってくるというのであります。
 
 聖書の思想、聖書の考えには、この終末の思想というものがあります。仏教的な考えでは、この世というものは、輪廻であって、繰り返し繰り返し同じことがまわってくるのだという思想のようであります、ちょうどそれは丸い円のようなものだということで、円環の思想ともいわれております。
それに対して、聖書の思想は、神がこの天地を造られのだから、神がこの天地を終わらせる時がくるという思想であります。神が初められたのだから、神が終わらせるという思想であります。それが終末ということであります。

 ですから、聖書は、われわれにとって、自分の終わりは、二つあるということを語っているということになります。一つは個人個人の死であり、もうひとつは、この世界全体の死であります。そしてこの二つの死は、いつくるかわからないという点では共通しているわけです。またこの個人の死もこの世界全体の死も神がそれをなさるという点でも共通であります。われわれ実際問題としては、この終末という考えはなかなか現実のものとして実感できないのではないかと思います。特にわれわれ日本人にはあまりなじみのない考えではないかと思います。ですからこの終末というものが実感出来ないときは、自分の個人の死を考えて、終末のというものを想像してもよいと思います。自分の個人の死は、結局は自分にとっては世界が終わってしまうということだからであります。ただ聖書は、自分個人の死だけでなく、この世界の終わりの時があることを語っているのだということは知っておかなくてはならないことであります。

 聖書は、この世の終わりの時があるというのです。聖書以外にもこの世の終わりの時について言う思想は沢山あると思いますが、われわれの信じている聖書の終末思想の一番大事なところは、その終末はただこの世が滅亡する、ただこの世が破壊され、終わるというのでなはく、その終わりの執行者は神なのだということであります。従ってその終わりの時というのは、神がよりいっそう神としての姿をわれわれに明らかにされる時だということであります。

それは人間の文明が発展して、爛熟して、腐敗して、オゾン層が破壊されたり、核爆発が起こったりして、そうしてこの自然が滅亡するという、そういう自然そのものの内部的な進展でこの世が破壊されるというのではないということであります。聖書にはそのようにして人間の罪をはらんだ人間の文明というものが、頂点に達して、この世が破壊、滅亡していくということが、確かに書かれております。この世の終わりの時にはいままでにないほどの混乱が起こり、国と国が争い、愛が冷え切り、人間不信が増大し、と人間の罪の爛熟が腐敗を招くようにして書かれておりますが、しかし主イエスはそのことを指摘しながら、それはまだ終わりではない、と明言し、それは終わりの始まりにすぎない、というのであります。そしてそうしたことが起こっても、まだこの世は終わらない、この世の終わりは人間の罪が終わらせるのではないというのです。

この世を終わらせるのは、人間の罪が終わらせたり、人間の罪がこの世を破壊させるのではないというのです。この世を終わらせるのは、神だというのであります。ですから、聖書の終末思想の大事なことは、自然の発展から、あるいは、人間の罪が発展して終わるのでなく、終わらせるかたがおられるのだということであります。
 
 そのことが今日の聖書の箇所で、語られるていることであります。終末の時というのは、「主人が帰ってくる時だ」ということであります。終末というのは、この世の破壊とか滅亡の時ではなく、主人が、本当の主人が帰ってくる時だというのであります。ここでは、この主人とは誰のことかとははっきりとは記されてはおりません、この主人は神ご自身ともいえますし、主イエスという救い主の再臨、つまり再び主イエスが来られるともとれます。

ともかく、この終末をわれわれが考える時に、一番大事なことは、この世が破滅する時ではなく、「主人が帰ってこられる時」なのだ、つまり神が神として全世界にその栄光が現れる時なのだということを知っておくということであります。だからこの時が来たときには、ルカによる福音書では、「これらの事が起り始めたなら、身を起こし、頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」と主イエスが言われているのであります。ですから終末を考える時、われわれはただちょうど大震災が起こるのではないかと戦々恐々になるのではなく、その時にこそ本当の救いの時がきたのだと、頭をあげなくてはならないということであります。
 
 それではわれわれがこの終末に備えるにはどのような生き方をしなくてはならないのか。それを今日のテキストで主イエスが教えておられるところであります。それはただひとつのことだと今日の聖書の箇所で、主イエスは教えておられます。それは「主人が婚宴から帰ってきて、戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人」になれということであります。終末に備えて、それまで善行をつんでおきなさいとかということは、ここではいっさいいわれていないのです。ただ「主人が帰ってきた時に、戸をすぐあけることができるように目を覚まして待っていなさい」ということであります。ご馳走を用意してまっていなさいとも言われていないのです。ただひとつ、いつ来てもいいように、目を覚まして待っていなさいということだけであります。もちろん、この主人はわれわれが戸をあけなくてもずかずかと家の中に入ってこられる力をもったかたであります。それは四五節からのところで言われております。
 
しかしわれわれとして終末に備える心構えは、この主人が来た時にすぐ戸をあけることだというのであります。ここではそのことを少し奇妙ないいかたでいわれております。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは、さいわいである。主人が夜中ごろ、あるいは、夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。」といいます。

「見られる」という表現に、われわれはなにか抵抗があるのではないか。われわれは人に見られるために何かいいことをするということは、大変いやしい、偽善的なことだと考えるからであります。それはわれわれだけでなく、実は主イエスご自身がマタイによる福音書では、「自分の義を見られるために人の前で行わないように注意しなさい」と言われていて、偽善者たちは人に見られ、人に誉められようとして施しをしたり、お祈りをしたり、断食をする、そんなことはするなと主イエスは言われているのであります。そうしますと、ここで主イエスはなぜそんなことを言われるのでしょうか。
 
しかし考えてみれば、この主人はいつ帰ってくるか全くわからないのです。突然帰ってくるのです。不意に帰ってくる。もし帰って来る時間がわかっていたら、その前後からその主人に見られるようにして目を覚まして、ご馳走でもつくることができるかもしれません。しかしいつ帰ってくるかわからないのですから、そういう時に、いつ帰ってきてもよいように、目をさまし、いつ見られてもいいように振る舞うということは、逆にいいますと、もう主人に見られることを全然意識しないで生活をするということではないかと思います。

いつ主人に見られてもいいように生きるということは、逆にいいますと、もう、人に見られるということを忘れて行動しなくてはできないことであります。いつ人に見られても恥ずかしくない生活を普段からしているということであります。つまりそれはもう人に見られることを意識しないで生活するということであります。ですから、ここには「自分の義を人にみられるために、人の前で行う」という偽善的な生き方がみじんも入る余地はないのであります。
 
マタイによる福音書には、終末を備えての生き方について主イエスが教えておられるところに、こういうたとえ話があります。終末の最後の審判で神が羊と山羊に分けられるというたとえであります。山羊のほうに分けられた人、つまり永遠の地獄に行けといわれた人たちは、主イエスから「あなたがたはわたしが空腹のときに食べさせず、かわいている時に飲ませず、裸であったときに着せてくれなかった」といわれた時、彼らは、「えっ、いつあなたが空腹の時、のどがかわき、裸の時があったのですか。もしそういう時があったら、いつでもすぐ世話をした筈ですのに」というのであります。つまり、彼らはいざというときに、主イエスに見られようとして待ちかまえていた、主人が帰ってくるということが予想される時間を見計らって、その時に主人からいい僕であるように振る舞おうとしていた、彼らは主人に「見られる」ことを意識していた人たちであります。
 
それに対して羊の方にわけられた人々は、それがイエスだなどと全然意識しないで、自分の目の前で空腹である人にパンを与え、のどがかわいている人に水を与えた人たちであります。その人たちに主イエスが「わたしが空腹のときに食べさせてくれた」と言われたのです。それを聞いた時に、彼らは「えっ、いつそんなことをわたしがしましたか」と、驚くのであります。そうしますと、イエスは「わたしの兄弟であるこられのもっとも小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」と主イエスはいわれるのであります。彼らはそれが主イエスだなどと全然意識しないで、つまり主人に見られるなどということを全然意識しないで、自分目の前に困っている人がいた時に助けてあげているのであります。それは彼らにとって、日常茶飯事のことだった。普段通りのことだったのであります。それでそれが主イエスだったということを知って驚くのであります。彼らは主イエスに見られるために行動などひとつもしていないのであります。それが主イエスに見られていたのであります。
 
ですらか、主人が思いがけない時に帰ってきても、忠実に僕としての生活をしている、主人が帰ってきた時にすぐ戸をあけられるように生活している、それが普段の生活になっている、それが「そうしているのを見られる人はさいわいである」と言われる人々なのであります。
 宗教改革者のマルチン・ルターが、終末がくると言われたときに、どうしますか、と聞かれたときに、「わたしは昨日と同じように、今日も明日もリンゴの苗を植えます」と、答えたという話があります。終末に備えて生きるというのは、終末の時はいつ頃かなどとその徴を知ろうとしたり、あるいは人間の浅はかな、インチキな計算でその年を予測したりすることではなく、終末の時がいつ来てもよいように、目を覚ましているというこが普段の生活になっているということであります。目を覚ましているということが普段の生活になっているということは、当然われわれは夜がくれば寝なくてならないということであります。睡眠不足では、主人が帰ってきたときに戸をあけることはできないのです。いつ来てもいいように充分睡眠をとって置かなくてはならない、夜になったら眠るという普段通りの生活をしておかなくてはならないのであります。ただ同じ眠るにしても、あのマタイの福音書の二五章にの「賢い乙女と愚かな乙女」のたとえのように、「油を用意して」寝るかどうかの違いであります。

 目を覚まして終末の時を待つということは、われわれが日常の生活をいとなみながら、われわれの人生には終わりの時というのがあるのだ、しかもその終わりの時というのは、ずっと後の時にくるとは限らない、「今夜自分の魂はとられかもしれない」という時なのであります。その自覚をもって生きるということであります。そしてその終末の時とは、主人が、われわれの本当の主人が、帰ってくる時だということを自覚することであります。終末の時とは、ただこの世界が破滅する時ではなく、神が神として本当に明らかにされる時だという期待と望みをもって、その日を待つということであります。それが目を覚まして生きるということであります。

 終末の時は、この世界の破滅の時ではないのです。それはよく映画で描かれるような無味乾燥な荒涼とした世界が来るのではないのです。神が神として、神がわれわれの本当の主人として帰ってきてくださる時なのであります。確かにその終末の時は最後の裁きの時ですから、ちょうど大地震のあとのように荒涼とした世界に見えるかもしれません。太陽も、月も星も落ちてしまう世界かもしれません。しかし、そのすべてが破壊された荒涼とした世界に神が神としての栄光が現れる時なのであります。もはや「都は太陽や、月がそれを照らす必要はない、神の栄光が都を照らすのだ」とヨハネ黙示録でいわれている世界であります。そうであるならば、神の本当の憐れみを知っているわれわれは、恐れることなく、喜んですぐ主人を迎えるために戸をあけにいくことができるのであります。