「悔い改めのバプテスマ」 ルカ福音書三章一ー

 四つの福音書とも、イエスが宣教を開始する前に、ヨハネという人が悔い改めのバプテスマをヨルダン川で授けていたことを記しています。そして、人々がこのヨハネこそ、メシア、救い主かも知れないと思い始めた時に、ヨハネはみずからそれを否定して、「自分はメシアではない」といいます。「わたしは水でバプテスマを授けているだけだが、わたしよりも力あるかたがこれからおいでになって、そのかたは聖霊と火とによってバプテスマをお授けになる。自分はそのかたの前に立ったならば、そのかたのくつのひもを解く値打ちもない者である」というのであります。

三章の一節二節にルカによる福音書の特徴が出ております。それはヨハネの登場の時代について具体的にくわしく記していることであります。「皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき」と丁寧に記すのであります。これはルカによる福音書の特徴で、イエスの誕生の記事でも、皇帝アフグストの名前が記され、「クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査」と、具体的に書かれているのであります。ルカはこの福音書を異邦人に向けて書かれたと言われていわます。そのためにイエスの福音はただユダヤ人だけにもたらされた福音ではなく、全世界に向けて述べ伝えられた福音であることを述べようとしいるので、イエスの活躍、ヨハネの活躍をきちんと世界の歴史の中に位置づけようとしているようであります。

それではヨハネはなんのために登場するのでしょうか。本当のメシアでるイエス・キリストを指し示すためにその道ぞなえをしたわけですが、しかしイエス・キリストはそのような証人を必要とするのでしょうか。第一、ヨハネはそのような意味でイエスをメシアとして証し、人々はそれを受けてイエスをメシアとして信じるようになったかと言えば、どうもそんなことはないのです。ただヨハネによる福音書だけは、バプテスマのヨハネの弟子のうちから、イエスの弟子になった人々がいることを示しているだけであります。

イエスは後にこのヨハネついてこう述べているのです。「このヨハネは預言者以上のものだ。『見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのはこの人のことである」と言った後、「女の産んだ者の中で、ヨハネよりも大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」というのであります。ヨハネのことを「女の産んだ者の中でヨハネよりは大きい人物はいない」と、最大の言葉をほめておきながら、すぐその後で、「神の国で最も小さい者も彼よりは大きい」と、ヨハネの限界を述べるのであります。つまりヨハネは人間の一番の良質を代表する預言者であり、証人であった。しかしそれでは人間を真に悔い改めに導くことも、救いに導くこともできなかったのだということを示す事によって、イエス・キリストこそ真のメシアだということを証しているということなのであります。
 
これはちょうど、落語の高座に、前座と真打ちの関係に似ているかも知れません。落語の高座では、その世界で一番うまい落語家が最後に登場てして落語を演じるわけです。その前に前座が出て、お客を笑わせる、そうして最後に真打ちが登場するわけです。前座というのは、真打ちに比べれば新米だし、その芸は未熟であります。下手なのです。しかしその前座の未熟さ、下手さ加減というものは、真打ちが登場して始めてわかるのであります。うっかりしたら、真打ちよりも前座の落語のほうが面白いということだってあるわけです。ですから、前座が出て、最後にその後に真打ちが登場して落語を語るということは、ある意味では大変なことだと思います。真打ちは自分の芸のすばらしさで、それまで出ていた前座たちの芸の未熟さをお客に示さなくてはならないわけです。前座の芸の未熟さは、前座だけの話しを聞いていてはわからないのです。真打ちの落語を聞いて始めて明らかにされる、ですから、真打ちの芸がよほど本物でないとそれは明らかにされないわけです。
 
バプテスマのヨハネとイエスとの関係もそれに似ているかもしれません。イエスが登場して、イエスが十字架で死んで、そして父なる神がそのイエスをよみがえらせて、始めてヨハネは偉大な預言者だったけれど、やはりそれは人間として最高の預言者であったということにすぎない、神の国ではもっとも小さい存在にすぎないということがわかるのであります。

それではヨハネの悔い改めのバプテスマ、宣教は、イエスの悔い改めとどのように違うのか。どのような限界があったのかということであります。
 
 ヨハネはヨルダン川のほとりで罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。この表現は面白いです。悔い改めのバプテスマを施していたとはいわないで、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていたというのです。バプテスマというのは実際には、水でバプテスマを施すものであります、しかしそれはただバプテスマを受ければいい、つまりヨルダン川に身を浸せばそれでいいというのではなく、バプテスマを受けるということは、バプテスマのもつその意義を悟らなければバプテスマを受けたことにはならないということをこのことはあらわしているのであります。大事なことは、悔い改めのバプテスマを施すのではなく、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えることなのであります。
 
ヨハネからバプテスマを受けようとして多くの人が来たのです。その人々に向かってヨハネは「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、逃れられると、お前達にだれが教えたのか。」というのです。折角バプテスマを受けに来た人々に対して、「まむしの子らよ」といって、一喝するのです。悔い改めのバプテスマを受けに来た人々ですから、大変真面目な人々です。ある意味では、もう悔い改めようとしている人々、悔い改めた人々であります。その人々に向かって「まむしの子らよ」と言って叱るのです。

ある人がこのところを説明して、「われわれは自分は罪を犯した、だから悔い改め、出直せばいいと思うのだ。しかし、自分の罪が神の怒りを引き起こしたとまでは考えない。自分が罪を犯したのだから、自分でやり直せばいいと思っている。罪を犯したことが神の怒りに対してどう影響を及ぼしたか、などということは考えてみようともしない。彼らはみな悔い改めたいと思ってヨハネのとろに来た。だから、みな自分に悪いとこがあるとは思っていたに違いない。しかしそれだからといって、自分たちがまむしの子らと呼ばれなければならないほどに、悪い人間であるとは考えていない。ヨハネが人々に『まむしの子らよ』といって迫ったのは、自分には悪いところがあると思うことだけでなく、自分は悪者である、まむしの子らである、そのことを自覚せよ、というのがヨハネのこの言葉だ」というのです。

悔い改めるということは、ただ悪い事を自分はしたということを悔い改めるのではなく、自分そのものが悪い人間であることを知るということ、そして悔い改めることであるというのです。ヨハネは「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられるお前達にだれが教えたのか」といいます。ヨハネは神の怒りをもって人々に悔い改めを迫りました。それに対してイエス・キリストはどうだったか。
ルカによる福音書には、「放蕩息子」のたとえがあります。そこでは自分勝手に父親から離れ放蕩に持ち崩して、食べるものがなくなって、食物にありつくために帰ってこようとした息子を、父親のほうから歩みより、何もいわず彼を抱きしめて迎えた父親の姿が示されて、「このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」というのです。そして「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが天にあるであろう」と、悔い改めた人間のことよりも、悔い改めて自分のところに帰ってきた天にいる神の喜びについてイエスは語るのであります。イエス・キリストは神の怒りを迫って悔い改めを語るのではなく、天の父なる神がどんなにわれわれが神のもとに帰ることを待ち望み、それを喜ばれるかという、神の愛から、神の赦しから、悔い改めを迫っているのであります。
 
神の怒りから悔い改めを迫られると、われわれはどうしても自分の行いのほうばかりに思いがいきます。バプテスマのヨハネから厳しいことをいわれますと、なるほど人々はそれによって悔い改めますが、その時の彼らの反応は「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」という問いになっていくのであります。つまり、あくまで自分の行為が問題になる、自分の生き方の姿勢が問題になる。

それに対して、イエス・キリストが悔い改めを述べる時は、何よりも大事なことは、われわれが神のもとに帰るということ、悔い改めとは何よりも自分のほうに向かっている思いを神に向けるという方向転換なのだと語るわけです。ですから、放蕩息子がまだ完全に自分の思いを訂正できなくても、あいかわらず、自分の飢えをしのぐために、もう息子の資格はないかから、やといの一人としてでいいから、食べ物をください、という思いで帰ってくるわけですが、それでもそういうある意味では御利益的な、よこしまな思いのままでもいいから、ともかく父親のもとに帰ってきた、それを喜び、それが悔い改めだというのであります。つまり悔い改めとはわれわれが自分の生き方の姿勢を正す、自分の行いを改めるということではなく、神のもとに帰るということなのであります。そのためには、神の怒りが前面に出ては、われわれは自分の行いを改めようとは思うかもしれませんが、神のもとに帰ろうとはなかなか思えないのではないかと思います。

もちろん、悔い改めるということは、われわれのわざはどうでもいいのだ、われわれの行いはどうでもいいのだというのではないのです。とうぜん神のもとにわれわれが帰るならば、われわれが自分の事ばかり考えて生きるという生き方が変えられるわけですから、とうぜんわれわれの生きる姿勢は変わってくるはずであります。自分中心の生き方から、神中心の生き方にかえられる、そうしたら当然自分中心の生き方から、他者に対する思いやりもでてくる、そうした生き方に変えられるのであります。

ルカによる福音書だけにある記事ですが、取税人ザアカイは、イエスから声をかけられ、イエスを迎え入れた時に、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もし誰かから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」というのであります。彼はイエスからそうしなさい、と言われて、そうするのではないのです。イエスを自分の家に迎え入れた時に、自らすすんでそうするというのであります。ですから、悔い改めた人間は全然変わらないままでいいのかといえば、そんなことはないのです。変わるのです。神のもとに帰ってから、次第次第に変わっていくのです。ザアカイも自分の財産を全部施しますとはいわないのです。半分を施します、というのです。
 
ルカによる福音書は、物事を具体的に語る特徴があります。たとえば、マタイが「心の貧しい者はさいわいである」というところを、ルカは具体的に「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ」と、語り、「あなたがた今満腹している人たちはわざわいだ」とまで語って、大変具体的であります。

あるいは主の祈りでもマタイが「わたしたちの日毎の食物を、きょうもお与えください」となっているところは、ルカでは「わたしたちの日毎の食物を、日々お与えください」となっております。今日だけでなく、今日も明日もください、と祈りなさいという、そうでなければ、われわれは安心ではないのであります。
 
今日のところでも、ヨハネが悔い改めを迫った時に、群衆が「それではわたしたちは何をすればよいのですか」と、尋ねた時に、ヨハネはきわめて具体的、現実的な答えをするのです。「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい。」といい、取税人に対しても「きまっている以上に取り立ててはいけない。」といい、兵士に対しても「人をおどしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足しなさい」と、きわめて当たり前、現実的なことを勧めるのであります。悔い改めるということはこういうことであります。

何か悔い改めるといいますと、今までの生活をがらりと変えることだ、全財産を投げ出して
、出家することだとはいわないのです。そういう悔い改めをして、全国に講演旅行することが悔い改めではないのです。そんな悔い改めをしたら、自分はこんなに劇的な悔い改めをしたのだと悔い改めた自分を見つめてばかりいて、そうしてやがて悔い改めた自分を誇りだしかねないのであります。それはどんなに神の力を受けて、聖霊によって悔い改めたのだとその人が言っても、始めはそうであったかもしれませんが、やがて悔い改めさせたくれた神よりも、悔い改めた自分を宣伝するようになるのではないかと思います。

人々はこのヨハネがもしかしたら、救い主ではないかと思い始めていた時に、ヨハネははっきりと、「わたしは水でお前達にバプテスマを授けているが、わたしよりも力のあるかたがおいでになる。わたしはそのかたのくつのひもを解く値打ちもない。かのかたは聖霊と火とによってお前達にバプテスマをお授けになる」といいます。「火」というのは、審判の火であります。

そしてヨハネは後に領主ヘロデによって捕らえられることになることをここであらかじめ述べております。「領主ヘロデは兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、彼を獄に閉じこめ、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた」。

ここには記されておりませんが、マルコによる福音書、マタイによる福音書では、このヘロデによって無惨にも殺されたことが記されております。それはイエスの十字架を暗示する出来事で、そういう意味でも、ヨハネはイエスを証するのであります。しかしここでもヨハネの死とイエスの死が決定的に違うところは、ヨハネの死は殉教の死ですが、イエスの死は確かに殉教の死の形はとりますが、それはむしろ人間による迫害の死ではなく、何よりも神のご計画による死、人間の罪を赦し、あがなうための死で、それは単なる殉教の死ではないのであります。