「火を投じるために」 ルカ福音書一二章四一ー五九節

  主イエスが、終末に備えて「腰に帯びをしめ、あかりをともしていなさい、いつも目を覚ましていなさい」と言われますと、ペテロが「主よ、この譬えを話しておられるのは、わたしたちのためですか、それとも、みんなの者のためなのですか」と、主イエスに問うのであります。ペテロが何のたとえを指してそういったのかよくわかりません。
 ある聖書の学者は、主イエスが「主人が帰ってきた時に、目を覚ましているのを見られる僕たちはさいわいだ。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進みよって給仕をしてくれるであろう」といわれたことを受けて、ペテロはそう質問したのだろうと解釈します。つまり主イエスからそのような破格の扱いをされるのは、自分たちだけのことか、それとも自分たちだけでなく、自分たち以外にも、「終末の時目を覚ましていれば、みんなそのように主イエスから接待を受けるのですか」という意味にとるのであります。つまりこれはペテロの自分たち、弟子たちだけの特権意識の現れなのだということであります。
 しかしどうもそうではないのではないかと思います。それよりは、そのように終末に備えて常に目をさましていなくてはならない、そのように緊張して生活していなくてはならないのは、大変なことだ、それは特別に自分たちだけがしなくてはならないことなのですか、という思い、自分たちだけが、特別に緊張をしいられる、いわば不利な立場におかれる、そのことに対する責任回避の言葉なのではないかと思います。ほかの人にはそれほど厳しいことは要求されないが、自分たちにはそのように厳しいことが要求されるのですか、という思いからでた言葉ではないかと思われます。
 
 それに対してイエスは直接ペテロの質問に答えることはしないで、さらに譬えを続けます。前と同じような譬えなのですが、「主人が召使いたちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令はいったいだれか」というのであります。そしてもうひとつの家令の姿として、主人の帰りが遅いと心の中で思い、男女の召使いを打ちたたき、飲んだり食べたりして酔っぱらっているならば、主人が気がつかないうちに帰ってきて、そうしたところを見られる、そしてその家令は、主人から厳罰に処せられるだろうというのであります。
 そして主イエスは、「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず、勤めもしなかった僕は多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるような事をした者は、打たれかたが少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである」と言われのであります。ここに来て、主イエスの譬えの真意がはっきりするのであります。つまりペテロの質問、「これは自分たちに対してされたたとえなのか、それともみんなの人にも当てはまるたとえなのか」という質問に対する答えは、これは何よりも弟子たち、お前たちに対して与えられたものだということであります。弟子たち、お前たちこそ、みんなに率先して終末的な緊張感をもって毎日を過ごさなければならないということを言われるのであります。
 
 弟子たちだけは特別だというのです。それをペテロは自分たちだけは特別に何か損するような気持ちで、それは自分たちだけに特別に厳しいことが要求されることなのですか、という思いから質問したのに対して、主イエスは弟子たちに対して「お前たちは多く与えられた者だ」というのです。だから「多く求められるのだ」というのであります。「お前たちは多く任せられた者だ、だから多く要求されるのだ」というのであります。つまり弟子たちは多くの恵みを与えられた者だと、イエスはペテロとは全く別の視点から弟子たちを見ておられるのです。お前たちはみんなよりも特別に恵また者ではないか、だから多くのことが要求されるのは当然だろうのというのであります。ペテロは自分たち弟子は何か特別に責任を課せられ損するような気分でいるのに対して、イエスはそうではない、お前たちは特別に恵まれた存在だ、といのうのであります。
 
 これはただ弟子たちだけ、あるいは今日でいえば、牧師とかいわゆる教職者たちだけというのではなく、われわれクリスチャンすべての人にいえることであります。クリスチャンになりますと、あるいはいろん制約が起こるかもしれません。それこ「主人の帰りが遅いから男女の召使いをうちたたき、食べたり飲んだりして、酔っぱらう」というようなめちゃめちゃな生活はできなくなるかもしれません。クリスチャンになって損したと思うことはたくさんあると思います。しかしそれに対して主イエスは「そうではない、あなたがたは多く与えられた者だ、多くのものを任せられている者だ」と言われるのであります。だからいつも目を覚ましていなさいというのであります。
 
 そして目を覚まして生きるということ、つまり終末がいつくるかわからないという緊張して生活するということは、なにか特別な生活をすることではなく、いつもの通り、「時に応じて定めの食事を備える忠実な僕」として生きるということなのであります。ここは新共同訳聖書のほうがよくわかります。「主人が召使いたちの上に立て、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人」となっていて、それは普段と同じように忠実に自分の職務を果たす者ということであります。つまり普段と変わらないで忠実に一日一日を神を信頼して生きる生活であります。終末がいつくるかわからないから、日常の生活をもう放り投げてしまって、どこかの山にでも引きこもって終末を待つとか、そんな特殊な異常な生活をすることではないということなのです。普段どおり、「時に応じて定めの食事を備える忠実な僕」としての生活をするのであります。それは自分だけがうまいものを食べるという生活ではなく、時に応じて人々に食事をさせる、そういう奉仕する仕事を忠実に淡々としつづける僕であります。

  そして忠実でない僕とはどういう僕なのかといいますと、「主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使いたちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば」という僕のことであります。つまりこの僕たちは僕でありながら、「主人の帰りがおそい」つまり、主人が不在であるということをいいことにして、自分が主人のごとくに振る舞っている人々のことであります。ただめちゃめちゃな生活をする、酒に酔っぱらうということではなく、僕でありながら、主人のごとく振る舞うということが厳しくしかられているのであります。

 そしてすぐ続いて、主イエスは言われます。「わたしは火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けなくてはならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。」
 ここで言われている「火」とは何か。火というのは焼き尽くす火ですから、聖書ではいつも裁きを表す言葉であります。しかしここでは主イエスは「火がすでに燃えていたならな」と言われておりますから、単なる裁きではないようであります。つまり主イエスが「火がすでに燃えていること」がこの地上に実現されていることを願っているわけですから、それは裁きではなく、救いであります。人々が救われることを主イエスがなによりも願って、そのためにこの世にこられたからであります。
 しかしその救いはただ人々が喜んで諸手をあげて受け入れるような救いではないのです。それは裁きを含んだ、あるいは、裁きを通しての救いなのであります。どういう裁きなのか。その後主イエスは「あなたがたはわたしが平和をもたらすためにこの地上に来たのではない」と言われるのです。マタイによる福音書では、「平和ではなく、剣だ」と言うのであります。そして「平和でなく、分裂だ」といわれるのです。
 平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすために来たのだというのです。「今から後は、一家の内で五人が相分かれ、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対立する」というのであります。まず家族関係が崩壊する、分裂するというのであります。ここでは驚くべきことに、主イエスがこの世に来たのは、この世が分裂状態だからこの地上に平和をもたらすために来たのだというのではないのです。この世があまりにも平和だから、剣を投げ込むために来た、そして分裂を引き起こすためにイエスは来たのだというのです。
 
 ルカによる福音書は特にイエスの誕生の時に天の軍勢が御使たちと一緒になって、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、みこころにかなう人々に平和があるように」という賛美の声があった事が記されております。つまりイエスがこの地上に来られることによって、平和が訪れるというのです。しかしここでは平和ではなく、分裂だというのです。それはイエスの誕生の記事のところでも、「み心にかなう人々に平和が」といっておりますから、手放しの平和ではないのだということであります。みこころにかなう者に与えられる平和だということであります。
 
 家族関係の平和というのは、しばしば誰かの犠牲、犠牲というと大げさかもしれませんが、誰かの我慢といったらいいかもしれません、そういう誰かの我慢によってその家族の平和が保たれている場合が多いのではないか。夫の横暴に対して他の家族のものが我慢して、平和が保たれているのかもしれない。妻のヒステリーをみんなが我慢して平和が維持されているのかもしれません。しかしそれが崩壊する。そして分裂が起こる。
 分裂というのは、いつも自己が激しく主張される時に起こるものであります。主イエスが来たことによってなぜ分裂が起こるのか。それはイエスが正しいことを述べるからであります。イエスは律法学者やパリサイ人に対して正しいことを述べる、そうすると彼らはそれに反発してイエスを殺そうとするのであります。彼らがイエスのいわれたことに本当にそうですと、その正しさを受け入れれば、分裂は起こらないのです。しかしそれができない。正しさが明らかにされるということは、人間の罪が明らかにされるということであります。われわれは自分の罪が明らかにされるときは、前以上に自分のことを主張し始めるのであります。自分を弁護するために、自分の罪を隠すためにますます自分を主張し始めるのであります。前以上にであります。イエスが現れる前よりも、イエスがいらして、正しいことを述べると、それに反発して、もっと自己主張が激しくなるのであります。家族の場合、たとえば、夫であり、父親が横暴である時に、それに対して妻や子供があなたは横暴ですと言い出しますと、夫は、父親は前以上に横暴になるのではないでしょうか。それまでは言葉による横暴だった者が、今度 は暴力をふるうようになるのではないか。
 
 罪人はその罪が指摘されれば、罪を悔いるのでなはく、ますます前以上に罪を増し加えていって、ますます罪人になっていくのではないか。
 家族の間の平和が本当に相手を受け入れ、許しあうということに成り立っている平和ならば、問題はないのです。しかし家族の間の平和はしばしば誰かの我慢によって辛うじて成り立っている場合が多いのではないか。

主イエスは「わたしは火を地上に投げ込むためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そしてそれを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。「火がすでに燃えていたなら」というのは、イエスはそれを弟子たちに委託しようとしていたことであったかもしれません。しかし弟子たちはそれをしなかった。できなかった。それでイエスは「火を地上に投げ込むために、バプテスマを受けねばならない」というのであります。これはいうまでもなく、ご自分が十字架で死ぬということを指しております。イエスはすでにヨハネからバプテスマを受けているわけです。それなのにここでは「わたしが受けねばならないバプテスマ」といっているのです。
 
 イエスはあの水によるバプテスマは、ただそれを受ければそれで事足れるものとしては考えてはいなかった、それだったならば、単なる形式的な儀式に終わってしまうと考えおられたということであります。後にパウロがバプテスマのことを「死にあずかるバプテスマ」といいますが、バプテスマをイエスの十字架の死とにあずかるバプテスマとしてうけとめないならば、単なる形式的な儀式に終わってしまうということであります。
 
 イエスは、「火を投げ込むためにこの地上にきた」というのです。そしてその「火」が本当の火になるためには、自分が十字架で死ななくてはならないのだというのです。単なる火だけでは、それは裁きに終わってしまう。そして人間の罪を指摘し、それを裁くというだけの裁きだけでは、裁かれた人は、律法学者やパリサイ人、祭司長たちのように、ますます自分の罪を隠すために、弁護するためにいきりたち、ますます自己を前以上に主張し始め、ただ分裂だけで終わってしまうことになるのであります。それで主イエスは、ご自分は最後には自分が死ぬことによって、その罪を自分が引き受け、その罪を自分があがない、その罪を赦す、そうでなければ、罪の問題は本当には解決しないことを知っておられたのであります。
 家族の問題でも、父親の横暴でも、母親のヒステリーでもそれを指摘するだけでは真の解決にはいたらないで、そうした上でやはりその罪を赦し、その人を受け入れるという覚悟がなければ真の平和は訪れないのではないかと思います。

 そして五四節からみますと、今度は群衆に対してイエスはいうのであります。「あなたがたは雲が西に起こるのをみるとすぐ、にわか雨がやってくるという、果たしてその通りになる。」そう言って、「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか」というのであります。今の時代を見分ける」ということは、今という時代というものを神の終末の裁きが切迫している時として、受け止めようとしないのかということであります。
 ここでイエスはいきなり「偽善者よ」というのはどうしてなのでしょうか。どうして天地の模様を見分けることを知りながら、今の時代を見分けられないことが偽善者になるのでしょうか。われわれが天地の模様、つまりここでは天気の模様ということですが、雲を見てにわか雨がくると予想する、それは今の話ならば、そのためにあわてて洗濯物を取り込むということであります。われわれが天気の模様を知ってそれに備えるのは、みな自分の生活の利益のためであります。しかし今の時代を見分けるということは、つまり神の裁きとしての終末の時が近いことを見分ける、それに心構えをするということは、単に自分の利益のためにそうするということでは、もうおいつかないのです。何でも自分の生活上利益のために行動を起こすということでは、終末の裁きには備えられないのです。あるいは、自分の目先の利益のことばかりに目をいっているからもっと大事な神の終末の裁きに対してわれわれは鈍感になってしまっているということであります。それを主イエスは「偽善者よ」という言葉でいわれていることではないかと思います。」
 
 更に主イエスは「また、あなたがたはなぜ正しいことを自分で判断しないのか」といいます。終末に備えるためには、「自分で正しいことを判断しなくはならない」というのであります。そしてその「正しい判断」とは何かということを言うのであります。「たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへゆくときには、途中でその人と和解するように努めなさい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう」というのであります。ここでは自分を訴える者と何よりも和解することが大事なことで、それが「正しい判断」だというのであります。ここは何か割り切れないものが残るかもしれません。つまりここではもう何が正しいのかという真理問題は問われていない、なによりも早く仲直りしなさい、和解しなさいということが勧められているのであります。真理問題ならば、裁判官のところに行って、堂々と争えばいいのにと思います。それが正しい判断のように思えます。しかしここではもう真理問題よりは和解のほうが大事だというのです。
 
 ここには主イエスのわれわれ人間に対するするどい洞察があるのではないかと思います。われわれの真理問題というものも、結局は自分がいかに正しいかということを主張することにすぎない、またいかに自分にとって利益をもたらすかという問題にすぎないのではないか。自分を訴えるものがいるということは、やはり自分の側になんらかの理由で訴えられるものがあるということであります。それならば、その自分の非を早く認めて、もう自分を主張しないで、和解をしたほうがいいということではないかと思います。ここで言われている「和解」とはただ妥協とか調停するということではないのです。自分の非を認めるということであります。謝るということであります。
 終末に備えてわれわれが目を覚まして、それに備えるということは、自分の罪を認め、自分の非を認めて、それに備えるということであります。