「悔い改めなければ滅びる」 ルカ福音書一三章一ー九節

 主イエスが終末の裁きについて話をしていたとき、ちょうどその時、ある人々がきて、ビラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血にまぜたことをイエスに知らせたのであります。ビラトというのは、イエスを十字架の処刑にした責任者であります。ローマから派遣されている総督であります。その時にはビラトは、妻が夢を見て、イエスを十字架にかけることを恐れて夫のビラトに彼を釈放するように妻から進言されるということもあって、ビラト自身もイエスが無罪だということは見抜いていたので、イエスをなんとかして釈放しようとしましたが、ついにユダヤ人たちの執拗な要求に負けてイエスを十字架刑に決定してしまいました。そこの記事だけをみますと、ビラトというのは、なにか正しい人間、あるいは人情味ある総督のように思われますが、本当はそうではなく、悪名高い残忍な男だったようであります。あの時にはただイエスという存在そのものが不気味でなんとなく処刑したくなかったにすぎないのであります。
 そのビラトの残忍性をかいま見せる記事がここであります。ここではガリラヤからエルサレム神殿に巡礼にきた人々を殺し、その血を彼らの捧げる動物の血に混ぜたということをしたというのです。

 ガリラヤというのは、イエスが育ったところであります。エルサレムから遠く離れておりますが、そこは反ローマ帝国の政治運動の盛んなところだったようです。それでこのビラトに殺された人々もあるいはそういうグループだったかもしれないと言われております。その人々が殺された。その上彼らの捧げる神への供え物である動物の血に混ぜられるという屈辱的な目に会ったというのです。

 それを聞いてイエスは「それらのガリラヤ人がそのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか」といわれたのであります。
 イエスがなぜそんな事をいわれたかといいますと、それをイエスに知らせた人の口調の中に、そういう残酷な目にあったのは、きっと彼らがよほど悪いことをしていたからではないかという思い込めて、イエスに報告したと思われます。人々の心の中にある因果応報の思いであります。なにか普通以上の理不尽な災難にあった人をみますと、その原因がわからない時には、われわれはなにか理屈をつけてその理由を探そうする、そうしないと安心がいかないのであります。そういう理由付けをして、彼らがそのような悲惨な目にあったのは、彼らの罪に原因があったのだ、しかしわれわれはそれほどの罪を犯しているわけではないから、そのような悲惨な目にあわないだろうと安心したいのであります。

それに対して主イエスはそういう人々の思いを見抜かれ「それらのガリラヤ人がそのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われるのであります。
 そうして更にこう付け加えます。「またシロアムの塔が倒れたために押し殺されたあの十八人は、エルサレムの他の住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたにいうが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われるのであります。
 
このイエスの「そうではない」という言葉が、因果応報という考え、あるいは祟りという考えを否定した言葉なのかどうかということなのであります。
 因果応報とか祟りという思想、思想というのがおおげさならば、考えといってもいいのですが、その考えは、ずいぶん不合理な考えであります。そしてその考えが、他人に、不幸な目に会っている人に当てはめられた時に、実に残酷な思想になるのであります。多くの人がこの思想によってどんなに苦しめられてきたわからないのであります。
一番いい例が当時らい病といわれた人であります。そういう悲惨な病気になっている人は、そのような悲惨な目にあったのは、本人かあるいはその親かその先祖が罪を犯した結果そうなったのだと認定されて、公然と彼らを汚れた人間として、自分たちの交わりから排除することができたのであります。らい病とか生まれつきの盲人とか、そういう悲惨な病気に陥った人々に因果応報の思想を持ち出して、彼らをさらに不幸な境遇へ追い込み、ただそういう境遇に追い込むだけでなく、自分たちは汚れた人間だと思いこませてしまうのであります。そのようにして、彼らを自分たちの交わりから排除して、自分たちを安全地帯におこうとするのであります。他人に対しては残酷な、そして自分たちに対しては実にずるがしこい知的操作であります。

 因果応報という考えと祟りという考えを今一緒にして話ましたが、本当は少し違うかもしれません。因果応報という場合には、その人が罪を犯したからその罰としてなにか悲惨な目にあっているという考えであるのに対して、祟りという場合には、本人が罪を犯したのではなく、その先祖が罪を犯した、親が罪を犯した、そのためにその子孫がその子どもがその先祖の犯した罪の罰として悲惨な目にあっているのだということで、因果応報の考えよりは、もっと不合理になひどい思想だといってもいいかもしれません。
 しかしこの祟りという考えは、因果応報という考えから派生した考えではあるわけで、全く別物というわけにはいかないのであります。
 
 聖書の思想にはそうした因果応報という理不尽な思想はないのだ、たたりなどという迷信的な思想はないのだと、われわれは言い切れるかどうかであります。そんなわけにはいかないのです。今イエスにその悲惨な出来事を報告したユダヤ人は、自分たちの歴史のなかで、つまり旧約聖書の中にそのような思想があるからこそ、そのように考えたわけであります。
 
この因果応報という考えが出てくる一番の根元は、罪を犯したものは罰を受けなくてはならないという考えであります。聖書でいえば、アダムとイヴが罪を犯した、その結果、罰を受けなくてはならないということであります。罪を犯したアダムとイヴのために、その子孫である人類に、その報いとしてくだされる罰、蛇に象徴される悪魔との果てしない戦い、女性がもっとも祝福されるべき時のあの出産の苦しみ、そして愛する夫から一生支配され、服従をしいられるという関係、そして労働のむなしさと苦しみ、そして決定的に、罪の支払う報酬としての死であります。それは罪を犯したアダムとイヴ本人だけにくだされる罰ではなく、その子孫に、人類全体に伝えられていく罰だということであります。

出エジプト記をみますと、あの「十戒」の第二の戒めのところで、「あなたの神、主であるわたしはねたむ神であるから、わたしを憎む者には、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、恵みを施して、千代に至るであろう」と記されているのであります。ここにはいわばたたりの思想がみられるのであります。ただここでは、あの陰湿なたたりの思想とは少し違って、罪に対する報いは、三、四代に及ぼされるのに対して神を愛する者に対する報いの恵みは、千代に及ぶと、圧倒的に恵みの報いのほうが強いのです。ここには、たたりの思想を脱却させるというか、それを乗り越えさせる萌芽が見られるのであります。
 
それが後にエレミヤ書などにある思想に発展していくのであります。そこでは、「『父がすっぱい葡萄を食べたので、子供の歯がうく』とは言わない。人はめいめい自分の罪によって死ぬ。」という思想になるのであります。これはどういうことかといいますと、当時イスラエルはバビロンという国に破れて、多くの人がバビロンに捕虜となって捕らわれの生活を強いられていたのであります。望みを失っていた。このような悲惨な状況に陥ったのは自分たちの先祖が罪を犯したからだ、だから今更自分たちが悔い改め、信仰に目覚めてもどうしようもないのだというむなしさに陥っていたのです。

そのときに、預言者エレミヤが「そうではない」というのです。「『父がすっぱい葡萄を食べたらからといって、葡萄を食べていない子供の歯が浮く』などいうことはないのだ、そんな不合理な祟りなどというものはない、人はめいめい自分の犯した罪によって死ぬ、罰はあくまで罪を犯した本人だけにくだされる」いうのです。だから今悔い改めたら、そして今信仰に目覚めたら、新しい生が始まるという望みを与えたのであります。もはや先祖の罪の罰を引き受けるという理不尽な祟りの思想を神は廃棄したというのです。そういう新しい思想が明確に打ち出されたのであります。それによってイスラエルの人々はどんなに希望をあたえられたかわからないのであります。
 
 そういう歴史の背景をふまえて、それでは新約聖書ではどうなのかということであります。主イエスはその因果応報という思想、祟りという思想をきっぱりと否定なさったのかということであります。イエスは「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない」というのであります。「そうではない」という、そこで終わっているのならば、イエスは因果応報の考えを否定なさったと言えるのです。しかしそのあと、イエスは続けて「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われるのです。つまり、あなたがたも悔い改めなければ、同じような災難にあうぞ、ということであります。そうしますと、イエスがここで「そうではない」といわれたのは、「それらのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか」という「以上に」ということを否定したにすぎないということになります。
 
つまり自分を因果応報の適用範囲から遠ざけて、自分を安全地帯において、他人の悲惨さを眺めるという気楽な無責任な姿勢をイエスはここで戒められたのだというこであります。イエスはここでは他人の陥っている悲惨な状況をみて、それに因果応報という思想を当てはめて他人を裁くという態度を厳しく戒められたということであります。自分の現在の安泰している状況から考えて、自分はそれほど悪いことはしていないと考える、だから、こういう幸福な状況に自分はあるのだとあぐらをかいている、そういう姿勢をイエスは厳しく戒められたのだということてになります。罪とか、罰とかという問題は、他人を非難したり、裁くために利用していけないので、それはいつも自分の問題として考えるべきだということであります。
 
 ヨハネによる福音書の九章にこういう記事があります。イエスの弟子たちが生まれつきの盲人を見て、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか、本人ですか。それともその両親ですか」とイエスに問うのです。するとイエスは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」と言われるのです。ここでははっきりと因果応報とか祟りという考えを否定なさっているのであります。
そしてイエスはここでそのように人々から「あいつは自分が罪を犯したから、親が罪を犯したから目がみえなくなってるのだ」と後ろ指を指されているその人の目をいやし、神のみわざを行うのであります。

この二つの記事は、どちらも他人の悲惨さな状況をみて、因果応報とか祟りの思想を持ち出して、人を裁き、そうしては自分たちを安全地帯におこうとしている姿勢をイエスは退けているのです。この問題を自分の問題として受け止めたとしたらどうでしょうか。たとえば、この盲人自身が自分の陥っている病気を自分の犯した罪に対する罰として真剣に裁きとして受け止めるとしたら、どうかということであります。イエスはそんな考えは迷信的な不合理な考えだから「もうそんなことは考えるな」といわれたかどうかであります。

聖書は、そしてイエス・キリストは、因果応報とか祟りという思想から無縁なところに立っているのかということであります。もしそうであるならば、罪の支払う報酬は死である、という聖書の一番大事な思想は成り立たなくなってしまいます。イエス・キリストは人間の犯した罪の呪いを受けて、その呪いを背負って十字架についたのだという十字架の一番大事な思想は成り立たなくなってしまいます。もともと因果応報とか祟りという思想は、人間の罪に対する深い認識、深い自覚から起こっている思想であります。罪を犯した者は、呪われる、そして厳しい罰を受けなくてはならない、決して無傷で終わるはずはない、報いがくだされるという深い自覚から起こっているのであります。自分の犯した罪は、自分一代で終わるのでなはく、それは自分の子孫に二代にも三代にも及ぶのだ、という深い自覚から、あの祟りという思想も生まれてきているのであります。
 
それは確かに不合理な思想であります。しかし人間の罪というものは、人間の合理的な考えをうち砕いてしまうほどに重いものだという自覚が祟りという考えを生み出したのであります。
 
 旧約聖書のサムエル記下の二一章にこういう記事があります。ダビデの時代に三年にわたる飢饉があった。ダビデがそのことで主なる神に尋ねたところ主から答えがあった。「お前の前の王であったサウル王が罪のないギベオン人の血を流した罪のためだ」という答えを得た。それでダビデはギベオン人を呼んで、どうしたらよいかと聞きますと、ギベオン人は「サウルの子孫七人を引き渡してほしい、彼らを木にかけて殺してあがなわせます」というのです。ダビデはサウル王の子孫七人を引き出してギベオン人に引き渡した。直接には何の罪もない七人は木にかけられて殺されるのであります。その殺された息子の母親リヅバは荒布をとって、岩の上にのせ、その上に死体を起き、空の鳥や、野の野獣が来てその死体を食いちぎらないように、夜昼見守り続けた。そのリヅバのことがダビデ王に知れて、王は哀れに思ってその死体を丁重に墓に葬ってあげたという記事があります。
 
まさに祟りの思想がここにあります。今陥っている飢饉はその背後にこのような先祖の犯した罪の祟りがあったのだというのです。それに対して母親のリヅバは自分の子供たちが殺されることになんの不平もいわずに受け止めている。自分たちの先祖の犯した罪をこのようにしてつぐなわくてはならないということに不平はひとつもいわない。母親は、ただせめてその死体が空の鳥、野の獣に食い荒らされないように守り通したというのであります。
 ここは自分たちの先祖が犯した罪を黙って引き受けようとする母親の悲しみが伝わってくる記事であります。
 
 現代人はもうそういう思想は迷信的なもので、それとは無縁なところに立っております。合理主義という思想が因果応報とか祟りというものを迷信的なものとして退けたのであります。それはわれわれを本当に自由にいたしました。そして多くの悲惨な病にある人々を救ってまいりました。

確かに現代人は因果応報とか祟りという思いからは無縁であります。しかしその考えを追放すると同時に、われわれ現代人は人間の罪に対する深い認識まで追放してしまったのではないか。そのために罪というものを人間の環境のせいにしたり、政治的なものに押しつけようとしたりするのであります。しかし罪というものは、いつでも不合理なものをその中に潜めております。罪というものは、人間がどんなに合理的な知恵で分析したり、解決をはかろうとしても決してそれを解決などできないものであります。
 
そのために、われわれ現代においても、宗教がさかんなのであります。あなたが不幸なのは、先祖の祟りだとか、といわれて、その脅かしからなかなか自由になれない。そしてその因果応報とか祟りから逃れようして、多額のお金を積んでお払いをしてもらう、水子供養をするとかするのであります。あるいはなにか一生懸命善行をつんで、功徳を積んで、因果応報から逃れようとするのであります。
 
 それでは聖書は因果応報とか祟りという思想からわれわれをどのように解放しようとしているか。それはわれわれの罪は他の誰かの犠牲によって、そのあがないによって解放されるという思想によって、罪の問題を解決しようとするのであります。思想というよりは、出来事によってであります。神の子イエス・キリストが十字架で死んだという出来事によってであります。十字架のあがないという出来事によってであります。われわれの罪は誰かのあがいないによって赦される、自分を愛する人が自分の罪を身代わりになってその罰を引き受け、犠牲になってくれて、そのようにしてわたしの罪は赦され、解放されるのだということであります。
 
聖書にはしばしば、神はわれわれの罪を赦す時に、その罪に対する罰を、罪を犯した本人に罰を与えるのではなく、罪を犯した本人が愛している者を身代わりに罰して、罪を赦すということをなさるのだと記すのであります。ダビデが犯した罪はその子供の死という犠牲によって赦されました。彼はそのようにして自分の罪が赦されたことを知って、生きることができたのであります。
 そして神は、最後に決定的に、ご自分のひとり子イエス・キリストを十字架で殺し、その死によるあがないによって、われわれの罪を赦されたのであります。イエス・キリストがわれわれに対する罪の呪いを引き受けて死んでくださったという事実によって、われわれは生きることができ、因果応報という思想から、祟りという思想から解放されるのであります。

イエスは「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」と言われるのです。悔い改めるとは、悔い改めて何か善行に励むことではないのです。悔い改めるとは、まず自分の罪を自覚することであります。悲惨な状況にある人をみて、あの人は自分が罪を犯したからだ、その先祖が親が罪を犯したからだといって、他人を裁くのではなく、自分の罪を深く自覚することであります。そのようにしていつも自分を安全地帯において人を裁こうとする自分の罪、自分の犯した罪についてあまりにも鈍感な自分の罪を自覚することであります。
それが悔い改めるということであります。
 
そしてそのあと、主イエス・キリストは一つの譬えを語ります。ある人が自分のぶどう園にイチジクの木を植えたけれどその木は実をつけなかった。それでもう切り倒そうとした。ところが園丁が「ご主人様、今年もそのままにしておいてください。そのまわりを掘って肥料をやってみますから、それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら切り倒してください」といってとりなしたというのです。ここにはわれわれの悔い改めを忍耐つよく待ってくださる園丁がおられるということを語るのであります。この園丁はイエス・キリストのことであります。なんとかしてわれわれが自分の罪に気づき、悔い改めさせようとして忍耐強く待っておられる、そのようにしてとりなしの祈りを捧げて待ってくださる園丁がおられるではないか、どうしてそれなのにお前たちは悔い改めようとしないかのというのであります。そしてそのかたはとうとう最後には、ただわれわれの悔い改めを待つだけではなく、とうとう最後にはわれわれの代わりに十字架についてくださろうとしているかたなのであります。

 悔い改めとは、自分の罪に気づくことであります。そしてその悔い改めを忍耐強く待ち、とりなしてくださるかたがおられるということに気づくことであります。そして自分の罪に気づくとは、自分の罪に対する罰を誰かが身代わりに引き受けている、そのようにして自分の罪は赦されている、そのことに気づくことであります。そのようにして自分の罪を自覚すること、それが悔い改めるということであります。
 
ダビデの罪を身代わりに引き受けて死んでいく子供、理不尽な殺されかたをした死体を昼も夜も空の鳥、野の獣に食いちぎられないように見守っている母親リヅバの悲しみを知らなくてはならないと思います。そしてその究極にイエス・キリストの十字架のあがないによって、われわれの罪に対する罰は免れていることを知るのであります。