「束縛からの解放」  ルカ福音書一三章一○ー二一節

 ある安息日のことであります。イエスが会堂で教えておられますと、そこに十八年間も病気になっていた女の人がおりました。病気のためにからだをのばすことができずにかがんでいたというのです。するとイエスはこの女を見て、呼び寄せて、「女よ、あなたの病気はなおった」といって、手をその上に置かれた。するとたちまちそのからだはまっすぐになり、病気がいやされたというのです。そして女は神をたたえ始めたのであります。
 ところがその会堂を管理している会堂司がイエスに文句を言った。いや、実際にはイエスに文句を言ったのではなく、イエスを度外視して、群衆にむかってこういうのであります。「働くべき日は六日ある。その間になおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。

 安息日というのは、週の終わりの日であります。今日でいえば、金曜日の夕方、日が没してから土曜日の夕方までを指します。ユダヤでは一日の数え方が日が没する夕方から数えたのです。そして安息日というのは、神さまがこの世界を創造なさった時に、六日にわたって、日や月や海や陸を造り、そして植物を造り動物を造ったあと、人間を造り、七日という日をわざわざお造りになって、その日に休まれた。そこから、神は天地を造って休まれる日をわざわざ特別に造られたということから、われわれ人間もその日を休む日、いっさいの労働を止めて休む日として設定したのであります。これが安息日であります。

そしてその場合の休息は、何よりも六日の間こき使ってきました、奴隷とか家畜を休ませるということが眼目だったようであります。そのためには、主人が働くのを止めなくてはならないわけです。あるいは人は六日間自分のからだを酷使しているわけです。だからせめて七日目にはその自分のからだを休ませる必要があるわけです。そういう意味も込めて七日目にからだを休ませるわけです。それが安息日の始まりであります。これはのちに畑を七年目には休ませるということにまでつながっていきます。その七年目には何も植えないで土地を休ませる、そのうしないと土地はやせていくからであります。

 神様はそういう日をわれわれに造ってくださった。そういう年を造ってくださったのであります。
 われわれ人間のやることはどんなに良いことであったとしても、どこかにひとりよがりなところがあるものであります。いや、良いことほど、自分が良いと思っている仕事こそ、ひとりよがりのところがあるのだといってもいいかもしれません。奉仕的な仕事ほどそうであります。だから七日目ごとにその自分の仕事を中断するということが大事なのであります。そして自分のわざを止める、人間のわざをやめた時に、われわれは神のわざを思い起こすのです。神がお造りになったこの天地はどんな世界だったかを思い起こそうと人々は思ったのです。それをわれわれ人間の手によってどんなにゆがんだものにしていってしまったかを反省するのです。初心に帰ろうということになったのです。
そこからこの安息日には、人間のわざをやめて神様のことを考える日にしよう、そうしてその日は神を賛美し、神に感謝する日になっていったのであります。神が七日目にいっさいのわざをやめて休息している様子を思い浮かべる時に、われわれは本当のやすらぎを覚えるのであります。そのためにその日には聖書を読み、神様の話を聞くために会堂に人々は集まるようになったのであります。
 
 ところがそれがだんだんエスカレートしていきますと、その日はいっさいの労働をしてはいけない日として制定されていきました。休む日というよりは、労働をしてはいけない日になった。つまり休息するということが目的ではなくなって、労働してはいけないということが目的になってしまった。いってみれば、その日はいっさいの労働をさせないために、からだを縛って動けないようにする日にさせてしまった。それはもう休息の日ではなくなってしまったのであります。民衆にとってはもっとも束縛される日になってしまった。一日に何歩以上歩いてはいけない日になっていった。いっさい火を料理をしてはいけなと日になっていったのであります。その日はお偉方が、今日でいえば警察がみんなが安息日を守っているかどうか、遵守してるかどうかを監視する日になっていった。それは民衆にとっては、休まる日どころではなく、安息日律法に違反していないかどうか、びくびくする日になってしまったのであります。
 
われわれ人間のわざの中でももっとも人間的なわざというのは、いわば人をさばくということではないかと思います。ある人の言葉に、人が誰からも教えられないで生まれつきもっている技術がある、それは人をさばく技術だ、という言葉がありますけれど、そのわれわれ人間が生まれつきしみついている技術、わざ、人をさばくというわざがまさにこの安息日に横行し始めたのであります。つまり安息日は人間のわざを中断しなくてはならない日なのに、その日こそもっとも人間的なわざ、しかももっとも悪しきわざが横行する日になっていってしまったのであります。

 それがこの会堂司の言葉であります。「働くべき日は六日ある。その間になおしてもらいなさい。安息日にはいけない。」人の病気をいやすのも医者からいえば、一種の労働なのです。ですから、その日にそういう行為をさせてはいけないというのであります。この会堂司がこの言葉をエス本人に向かって言っていないところがおもしろいところであります。
彼の心のどこかにイエスになさったことに対して驚嘆しているところがあったのかもしれません。だからすこし遠慮がちにそれを群衆にむかっていわれたのかもしれません。
 
それをききつけてイエスはこういいます。「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませて引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていたアブラハムの娘であるこの女を安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか。」
 
この論法は考えてみれば、少し無理があると思います。牛やろばは自分では家畜小屋から出られないし、自分ではもう水を飲みにいけないわけです。ですから、安息日であっても誰かがそうしてやる必要はあるわけです。また一四章には、「安息日人をいやすのは、正しいことかどうか」といって、水腫を患った人をいやし、更にこういいます。「あなたがたのうち、自分の息子か牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だといつて、すぐ引き上げてやらない者がいるだろうか」というのです。これと今一八年の間病気だった人を安息日にいやすということとすぐ結びつけるのは少し無理な論法なのです。
といいますのは、会堂司は病気の人をいやしてはいけないといっているのではないのです。「働くべき日は六日ある。何も七日目の安息日に会堂で病気をいやす必要はないではないか」というのです。安息日に穴に落ちた自分の息子や牛を引き上げるのは、緊急的な事柄です。もちろん子供がその日に穴におちたならは、引き上げるのは許されることなのです。しかしこの場合の病気はそういう緊急を要する病気ではないのです。一日待っても十分ゆるされる病気であります。ですから、イエスの語られたことはずいぶん無茶な論理であります。

イエスがそういわれると、群衆はこぞってイエスのいわれたことに賛同したというのです。それどころか、イエスに反対していた人もこのイエスの言葉を聞いて恥じ入ったというのです。この無茶な論法を聞いてであります。この事はそれまでいかに民衆がこの安息日律法というものに痛めつけられてきたかということを語っていると思います。いかにこの安息日律法に束縛を受けてきたかということであります。
 
ルカによる福音書には、イエスが公に活動を始められた時に、ナザレにゆき、安息日にいつものように会堂に入り、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡された。そしてイエスはその書を開いた。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主の恵みの年を告げ知らせるためである」とその聖書の言葉を朗読して、みんながイエスがこれから何を言われるのかと注目しているなかで、「この聖句はあなたがたが耳にしたこの日に成就した」と言われたのであります。「わたしは囚人を解放し、盲人の目を開き、打ちひしがれている者に自由を得させる、このためにこの世に来たのだ」と主イエスは宣言し、「わたしが来たことによってそれが成就したのだ」というのです。それを安息日の礼拝の中で宣言したのであります。安息日こそ、すべての束縛から人々を解放する日にするとイエスは宣言したのであります。

そのことを示すために、いわば挑戦的に安息日に、本当は安息日がすぎてからでもその人の病をいやすことはできたし、一日待ったからといって、その人がすぐ死んでしまうということではないにもかかわらず、あえて、その安息日にその人の病をいやしたのであります。そうすることによって、安息日こそ、解放の日だ、いっさいの束縛からの解放の日だということを示そうとされたのであります。「それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」といわれます。「安息日であっても」というところを、むしろ「安息日だからこそ」とも訳すことができるのであります。安息日こそ、いろんな束縛に捕らわれている人を解放する日にしなくてはならないというのであります。

イエスはこの女のことを「十八年間もサタンに縛られていたアブラハムの娘」と言っております。この女の人は「かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女」と記されていて、別に汚れた霊、悪霊にとりつかれたというようなことではないようであります。肉体の病であります。それなのにイエスは「十八年間もサタンに縛られていた」というのであります。病気はサタンに縛られることなのだというのです。
 
聖書は、病気についてしばしばそういう表現をとる時があります。それはイエスがことさらそうお考えになったというよりは、当時の人々がそのように考えたということであります。特に生まれつきの盲人とか、らい病とか、そういう重い病気になった人に対して、そのように霊にとりつかれて、霊に縛られてそういう病気になったのだと見ていて、そのようにして人を差別したり、軽蔑したりしたようであります。
 そしてそれは当時の人々がそのように考えたというだけでなく、主イエスご自身もそのようにある意味では考えておられたのではないかと思います。それが「十八年間もサタンに縛られていたアブラハムの娘」という表現にもなっておりますし、中風の者に対してはイエスはいきなり、「あなたの罪は赦された」と宣言しているのでのであります。病気になるということと、サタンとの関わり、また罪との関わりということは、深く結びついていると考えているのであります。
 
 今日では、もうそのように病気について考えることはないと思います。精神的な病ですら、あるいはアルツハイマーという痴呆症の病気でも、心の病というよりは、脳の欠陥から起こる病気と考えられているようであります。それどころか、今日ではわれわれのかかる病気はすべてもう生まれた時から持っているDNAというもので決定されているのだといわれているくらいであります。もうそこにはサタンとか入り込む余地はないようであります。しかしそのように病気について考えるようになって、われわれは果たして病気から解放されたか、幸福になったということであります。DNAなどといわれたら、われわれはもうかえって何の望みもなくなってしまうのではないかと思います。かえって、絶望するだけであります。人間のからだというものをすべてそのような物質的なものだけでなにもかも考えようとすることによって、われわれは病気からひとつも解放されないのではないかと思います。
 
人間を造られたのは神であります。従って、神はその人間の心だけでなく、からだにもかかわっておられる。支配しておられる。それならば、われわれの病にも神は関与しておられる。そういう考えのほうが、われわれは病気に対処する力を与えられるのではないかと思います。
 
 パウロはある時病気になりました。その時パウロは必死に神にこの病気をいやしてくださるようにと祈りました。そしてその時、この病気は「わたしが高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのだ」と受け止めたのであります。パウロは自分の病気をサタンの使いだと考えたのであります。聖書はそのようにしばしば、病気というのは、サタンのなせるわざと見ているのです。イエスもこの女に対して、十八年間もサタンに縛られていたというのです。
 
サタンはどのようにしてこの女を縛ったのでしょうか。それはこの女から望みを失わせるという仕方で縛ったのであります。自分は病気になってしまった。もういっさいの望みはなくなったという絶望に陥れられた、自分はなにか悪いことをしたからこういう病気になったのではないか、だから人々から疎んじられても文句はいえないと思いこまされる、体の不自由ということによって、心まで不自由にさせられていくのであります。いわば神も仏もあるものかという気持ちに落ち込んでいく。それがサタンに縛られているということであります。
 神がわれわれのからだも心も支配しておられるという事実、それは信仰といったほうがいいかもしれませんが、その信仰を奪いとる、それがサタンに縛られてしまうということであります。イエスは今そのようにしてサタンに縛られてきたこの女を、安息日の日に、いっさいの束縛から解放される日、その安息日に、そのからだから解放し、彼女の魂を解放し、神がお前を支配しておられるという信仰へと導いてあげたのであります。主イエスはこの女を呼び寄せて、まず「女よ、あなたの病気はなおった」と宣言するのであります。まずサタンに捕らわれているその女の魂を解放するのであります。それから手をその上に置かれて、その肉体の病をいやしたのであります。イエスから手おかれると、女はからだはまっすぐになったのであります。
 
 安息日こそ、束縛からの解放の日であります。当時の指導者、律法学者、パリサイ人、祭司長たちが民衆に負わせていた律法からの解放の日であります。イエスが安息日であっても、いや安息日にこそ、サタンに縛られていた女を解放してあげなくてはならない、と言って、この女を解放したということは、そしてそれを見て、群衆もみなこぞってイエスのなさったわざを喜んだということは、あの民衆にとっての安息日律法というものこそ、サタンのわざとして人々は受け止めていたということではないかと思います。
 律法主義というもの、こうしなくてはならない、こうすべきだという律法主義というものの背後にどんにサタンの力が働いているか、そうしてわれわれを束縛しようとしているかであります。

 病気をすべてサタンの使いだと思う必要はないかもしれません。むしろ、病気は神が与えたものであって、むしろ病気はそれと抵抗したり、闘ったりするよりは、その病気を神が与えてくださったものとして静かに受け入れるほうが信仰的だといわれるかもしれません。確かにそういえるかもしれません。しかし、今日の聖書の箇所でも、この病気をサタンが縛ったのだと見ているし、またパウロは自分の病気をサタンが与えたものだと見ているのであります。ですから、そう簡単にすぐ病気と仲良くしようなどと思うことはできないと思います。すぐあっさりとあきらめてはならないと思います。それがサタンの与えたものであるならば、病気とはあくまで闘わなくてはならないものであります。
 
その点は聖書は微妙であります。パウロはこういうのです。それは「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使いなのである」というのです。「高慢にならないように」与えられた病であるならば、それはサタンが与えるはずはないのです。サタンはむしろパウロを高慢にするために働くはずだからであります。高慢にならないようにと与えたならば、それは神が与えたはずであります。ですから、ここではパウロはこの病がサタンが与えたに違いないのだが、その背後には神の意志が働いているのだ、神は自分の高慢をうちたたくために、サタンを使って病を自分に与えたのではないかと思っているということであります。それでパウロは三度も、何度も何度も主に祈った。なんと祈ったかといいますと、「彼を、つまり、サタンを離れさらせてください」と祈ったというのです。

少し理屈ぽいかもしれませんが、パウロは病気そのものを離れさせてくれ、つまり病気そのものをいやしてくださいと祈ったのではなく、その病気とともにまとわりついているサタンを離れさせてくださいと必死に祈ったというのです。
 その結果与えられた祈りの答えが、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」ということだったのであります。「弱いところ」というのは、パウロが今陥っている病気であります。だから病気のままでいいのだ、そこに神の力が十二分にあらわれるのだから、だから神の恵みは十二分にお前に注がれているというのであります。
 
そのようにして、パウロはこの病気を受け入れたのです。この病気をサタンの手からではなく、神の手から受け取り直すことができたのです。だからパウロは「キリストの力を宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。わたしは弱い時にこそ強い」という信仰を与えられ、謙遜にさせられた、高慢という束縛から解放されたのであります。この時はパウロはからだの病からは解放されませんでした。病気そのものはいやされなかったのであります。しかし、パウロはこのからだの病を通して縛られていたサタンの束縛からは解放されたのであります。

 しかしこの十八年間も病で苦しんでいた女は、いっさいの束縛から解放されるべき安息日に、からだも魂もイエス・キリストによって解放されたのであります。われわれのからだも魂も、究極のところ決してDNAが支配しているのではなく、神が支配しておられることを信じたいと思います。

われわれのからだと魂を支配しておられるのは神だということが信じられる時に、それは一粒のからし種となって、空の鳥が宿るほどの大きな木になって、われわれを励まし、支えてくれるのであります。