「見捨てられる選民」 ルカ福音書一三章二二ー三五節

 
 主イエスがエルサレムに向かう旅をしている時であります。ある人がイエスに「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねました。この問いがどういう意味をもった問いなのかはっきりしません。救われるということは、大変難しいことなので、だから救われる人は少ないのではないか、それならば、自分も救われないのではないかという意味で、そう問うたのか。あるいは、自分はもう救われた人間の立場にたって、そのように問うているのか。

イエスの後のほうの話からすると、どうも後者のような問いのようであります。二八節からみますと、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されるであろう。それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」といわれるのであります。つまり選民であるユダヤ人は見捨てられることになるということであります。彼らは自分たちはもう救われたと思っていました。自分たちにはその資格があるし、それだけのことをしているという自負があったのかもしれません。もし、この問い「主よ、救われる人は少ないのですか」という問いがそのような、もうすでに救われたと自負している選民ユダヤ人の問いであるならば、おそらく、救われる人は少ないほうが望ましいと思っていたのではないか。みんなが救われてしまったら、自分たちの特別な位置というものがなくなってしまう。自分たちの特権がなくなってしまうという思いがあって、そのような問いになったのではないかと思われます。

われわれクリスチャンの中にそういう選民意識というものがないといえるでしょうか。このごろはあまりいわれなくなりましたが、昔はクリスチャンというと選ばれた人間という意識が強かったのではないかと思います。その場合の選びというのは、エリート意識の選びということであります。選別されるという意味の選びであります。ですからよくミッションスクールの生徒は、その入学式で、先生からあなたがたは良き地に蒔かれた種であって、特別に選ばれた生徒なのだといわれたものであります。その学校に入るには、難しい試験を突破して入ってきた、だから入学者は少なければ少ないほど、自分を自慢できるわけです。
 
「主よ、救われる人は少ないのですか」という問いはそういう特権意識をのぞかせる問いなのではないかと思われるのであります。さいさい言って来ていると思いますが、聖書でいっている「選び」というのは、そういう選別という意味の選びではなく、われわれが神を選ぶ前に、神のほうで先に先手を打って選んでくださっているという意味の選びなのであります。神は「無きに等しいものを選んでくださった」というパウロの言葉がありますように、この「選び」ということを考えたら、自分を誇るのではなく、このような自分を先手をうって選んでくださった神を誇り、神に感謝し、ありがたいことだとむしろ恐縮するくらいに、自分のいたらなさを自覚し、神に感謝する思いをもたなくてはならないのであります。
 
 「主よ、救われる人は少ないのですか」というこの問いにはもうひとつの問題があると思います。それは救いの問題を自分の救いの問題として受け止めるのではなく、他人が救われるかどうかなどと問うということがおかしいということであります。あの人は救われるのかどうか、などと問うべきではないということであります。

ペテロは復活の主にお会いして、最後にお前は殉教の死を遂げることになるだろう、と言われ、そうして主イエスから「わたしに従ってきなさい」と呼びかけられます。その時ペテロはそばにいたイエスが特別に愛していた弟子のことが気になって「主よ、この人はどうなのですか」と思わず尋ねるのです。わたしは殉教の死の道を歩むことになるかもしれない、その覚悟をしなさいと主イエスにいわれれば、今度は前とは違ってその覚悟を持って、イエスに従って行きたいと思う。しかしこのあなたの愛する弟子はどうなるのですか、わたしと同じように殉教の死をとげることになるのですか、と尋ねるのであります。するとペテロは主イエスからこういわれてしまいます。「たとい、わたしの来る時まで、彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるかか。あなたはわたしに従ってきなさい」と言われてしまうのであります。
 
救いの問題はまず自分自身の救いの問題を問い続けなさいというのであります。自分はもう救われてしまったということにあぐらをかいて、あの人は救われるのか救われないのかと、まるで相撲の点取り表を作って、まるばつをつけるようなことはするなということであります。

 それでは、自分の愛する家族とか、友人知人の救いの問題は考えなくていいのかと言われるかもしれません。それは決してどうでもいい問題ではなく、切実な問題ではないでしょうか。確かにそうであります。パウロはも自分はキリストによって救われたけれど、自分の同胞の民である、選民イスラエル民族は永久にキリストを拒み続けて、神に見捨てられてしまうのかということを真剣に問うているところがあります。そこではパウロはこういうのです。「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りはいわない。わたしの良心も聖霊によってわたしにこうあかしをしている。わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身が呪われて、キリストから離されてもいとわない」と、述べて自分の同族の民、選民イスラエルの救いの問題について論じるのであります。

この人が救われないないならば、この人と一緒に地獄に堕ちてもいいというくらいの切実さをもってその人の救いの問題を考えるならば、もうその人の救いの問題は他人事ではなくなっているのであります。この人が救われなければ、「わたしの身がのろわれて、キリストから離されてもいい」というほどに、他の人の救いの問題を切実にかかえって生きるということはすばらしいことだと思います。

しかし、この人の問い「救われる人は少ないのですか」という問いにはそうした切実さはみじんもないのです。それでイエスはそのように問うた人をもうまるで無視して、二四節をみますと、「そこでイエスは人々にむかって言われた」と、もうその問いを発した人に直接答えようとしないのであります。

 「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実入ろうとしても、入れない人が多いのだから」。ここに来て、あの「救われる人は少ないのですか」という問い対する答えがでております。つまり「救われる人は少ないのですか」という問いに対して、「そうだ、救われる者は少ない」というのがイエスの答えであります。なぜなら、救われるということは、狭い戸口から入るという努力がいるからだというのです。救われるというのは、のんきなことでは救われないというのです。ここで「努める」という字は、闘うという字が使われているそうです。しかしこの闘いは、狭い門というように、ちょうど入学試験のような意味での狭き門、自分が入るために他の人をけ落として自分だけが入る、そういう生存競争のような狭い門から入るための闘いではないのです。ここで言われている「狭い戸口」とは、この戸はある時が来たら閉じられてしまう戸だという意味での狭さであります。それがこの後主イエスが語ろうとしている「狭い戸口」ということであります。

この「狭い戸口」という狭さは、場所的な意味での狭さ、他人をけおとして、自分ひとりだけしか入れないという狭さではなく、時間的な切迫さ、時間的な狭さのことのようであります。二五節をみますと、「家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人さま、どうぞあけてください』といっても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこから来た人なのか、わたしは知らない』と言うであろう」と言われてしまうというのであります。この狭さは時間的な狭さであります。
 
ある人がここのところでこう言っております。「神と私達との間に、もう遅すぎるということがあるのだ。そのことをここでよく知っておかなくてならない。もう遅すぎるということがあるのは、まさに愛の世界においてである。眠っているような愛、どうでもよいような愛には遅すぎるということはない。神の愛には、遅すぎるということがある。遅すぎることのない神の愛であるならば、われわれが眠っていても、知らん顔をしている神になってしまう。われわれは眠るわけにはいかない。神の愛が呼んでいる。神の愛が呼び覚まそうとしている。眠るわけにはいかない。今、目を覚ませと、主イエスは声をかけておられる」と、言っております。
愛に応えるためには、遅すぎてはならないというのです。愛には遅すぎるということがある。それに応えるのに遅すぎてしまったら、もう取り返しのつかないことになってしまうのです。生きた愛というのは、コンピューターのようなものではないのです。タイミングというものがある、それに応えるという切迫さというものがあるということであります。 
 
パウロの言葉にも「神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助けた。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。』」とあります。神の救いの御手を受けるには、今、今日という時を逃してはならないというのです。神の恵みをいたずらに受けてはならないというのです。
 
またヘブル人への手紙では、旧約聖書の言葉を引用して、「きょうみ声を聞いたなら、神に背いたときのように、あなたがたの心を、かたくになしてはならない」というのです。そうして、こういうのです。「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにもかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか」。神は「わたしは怒って、彼らをわたしの安息に、入らせることはしない」と誓っておられるのだから、神の安息に入る機会が残されているうちに、きょうみ声をきいたならば、心をかたくなにしないで、悔い改めて、神の救いの手をつかまえようというのであります。
 
 生きたものというものには、賞味期限というものがあります。どんなに冷蔵庫にいれても、冷凍庫に入れて、保存しても、それは新鮮な味は失われてしまうものであります。愛も生きたものであるならば、それに応答するのに、遅すぎてしまうということがあるのであります。親孝行をしようと思ったら、もう親はいないということがあるのであります。

 確かに神の愛はいつまでもわれわれを待ち続けてくれる愛だもいえます。神の愛に応えるのに遅すぎるということはないともいえます。後に学ぶことになりますが、放蕩息子の父親は息子が帰ってくるのをいつまでも待ち続ける親の愛を描き、神もまたわれわれの悔い改めを待ち続けてくださることを語っております。しかしそのような神の愛、どこまでもわれわれの悔い改めを待ってくださるという忍耐強い神の愛がわかったならば、われわれは今すぐその愛に応え、今日心をかたくなにしないで、悔い改めるのではないでしょうか。
 
自分には神の愛はまだまだわからない、キリスト教のことはまだまだよくわからない、だからもう少し待ってほしい、というようにして、神の愛の忍耐強さを信頼して待ってもらうのならば、神の愛は遅すぎるということはないと思います。あさせる必要はないし、神はどこまでもいつまでも待ち続けてくださると思います。

 しかし、選民イスラエルに対して、もうお前たちには救いの戸は閉じられてしまった、お前たちは遅すぎた、と主イエスが言われる時はどういう時なのか。彼らは遅くなって戸をたたき、「ご主人さま、どうぞあけてください」と言うと、主人から「あなたがたがどこからきた人なのかわたしは知らない」といって、拒否されてしまうだろう、と言われるというのです。それはその人々はその戸を閉じられた時に、こういうからだというのです。「わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたは私達の大通りで教えてくださいました。」というだろうというのです。その時主人は「あなたがたがどこから来た人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ」というというのです。そうして選民イスラエルの民は神の国の宴会から閉め出されしまうだろう。そのようにして、「あとのものは先になり、先の者はあとになる」というのです。先の者、つまりイスラエルの民は後になるというのであります。
 
彼らが神の愛に対して遅すぎてしまう理由は、自分たちはもう救われているという特権意識をもっているからであります。自分はもう選ばれているということにあぐらをかいているからであります。それは「悪事をおこうな者どもよ」と主イエスから厳しい言葉でいわれてしまうのであります。われわれは、これが「悪事」だとはなかなか思わないのではないでしょうか。」

 悔い改めるということは、一度悔い改めたら、それを冷蔵保存すればいいというものではないのです。悔い改めとは、時々刻々、悔い改めつづけなければ、悔い改めの新鮮さは失われてしまうのであります。

主イエス・キリストは、しかしそういって選民イスラエルを見捨てようとしているのではなく、最後にもう一度その選民イスラエルに悔い改めを呼びかけるのであります。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前に遣わされた人々を石で撃ち殺すものよ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはお前の子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちは見捨てられてしまう」といって嘆くのであります。エルサレムというのは、イスラエルの首都であります。ですから、エルサレムよ、というのは、選民イスラエル、イスラエルよ、という呼びかけであります。「主の名によってきたる者に祝福あれ」と、イスラエルの民が悔い改めるまで、再び、主イエスにお目にかかることはないというのであります。

神のほうでは実に忍耐強く愛の手をさしのべてきたというのです。どんなに遅れてもいいから、いつまでも待っていてあげるから、悔い改めて、わたしの愛に応えなさいと神のほうでは待ち続けたというのです。しかし選民イスラエルは応じようとしなかった。それは自分たちはもうすでに救われているという特権意識の上にあぐらをかいていたからであります。

 この時主イエスは、エルサレムに上ろうとしている旅の途中でした。その時にあるパリサイ人が親切にこう忠告した。「ここから出ていったほうがいいですよ、ヘロデがあなたを殺そうとしている」と忠告した。このヘロデはバプテスマのヨハネを殺したヘロデであります。それを聞くとイエスは「あの狐のところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうも明日も、悪霊を追い出し、また、病気をいやし、三日目にわざを終えるであろう。しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んでいかなくてはならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはあり得ないからである』」と言われて、旅を続けられたのであります。

それは十字架への道であります。イエスは何よりもあのかたくなな民、おごり高ぶった民、選民イスラエルの民に、最後の悔い改めを迫るために十字架の道を歩もうとしているのであります。この十字架に鈍感になっていたら、今度こそ本当に見捨てられてしまうというのであります。この神の愛に遅れてしまうことになるのであります。