「上座につくな」 ルカ福音書一四章一ー一一節

 七節からみますと、「客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、イエスは彼らに一つのたとえを語られた。『婚宴に招かれたときには、上座につくな。もしかすると、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、「このかたに座を譲ってください」というであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行って座りなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、「友よ、上座の方へお進みください」というであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。』」とイエスが言われたというのです。
これは何か常識的なことをイエスが言われているような気がしてくるところであります。われわれ日本人にはごくごく当たり前のことを言っているようなところであります。われわれ日本人の場合には、イエスから指摘されるまでもなく、どこかの会に招かれた時には、自分から上座につくようなことはしないものであります。むしろ、わざわざ末座に座ろうとするものであります。みんなが遠慮してそうなるので、それがかえっていらだちを覚えさせるものであります。
われわれはこのイエスの忠告を聞いたわけではないのですが、そうするのであります。自分からは末座に座る、そうして上席に案内されるのを期待しているのではないでしょうか。

 日本語で、遠慮という言葉があります。われわれ日本人は遠慮深いものであります。しかしこの「遠慮」という言葉は本当によくできている言葉であります。われわれ日本人の遠慮深さの実体をよくあらわした言葉であります。遠慮という字は、深謀遠慮という言葉にありますように、深い企みと遠い先までのことを思いはかって何をするという意味であります。つまり遠慮という言葉のもともとの意味は、遠い先までを思いはかって何かをするという意味から生まれた言葉であります。遠い先のことを思って何かをはかる、そうすると、少し控えめのほうがなにかと得をすることになるわけであります。そこから「遠慮」という姿勢が生まれるわけであります。

 そうなりますと、われわれがいわゆる遠慮をする時、つまり上席につくのを遠慮して末座につこうとするのは、謙遜して末座につくのではなく、遠い先のことまで考えて、とりあえず末座についていたら、きっとだれかが来てどうぞ上座についてくださいというだろう、そのようにして自分を上座に導いてくれることを期待してそうするのだということになります。われわれが遠慮して、いかにも慎みふかく、謙遜をふるまうのは、本当の謙遜ではなく、遠い先まで見通したしたたかな計算の上での知恵だということになるのではないかと思います。
だから遠慮する人というのは、わずらわしいのであります。その人は本当に遠慮しているのか、それともその遠慮は遠い先までを思いはかっての遠慮なのかをいちいち見極めなくてはならないからであります。遠慮にはいつもこうした偽善的なものがあることをわれわれはよく知っているのではないかと思います。
 
そうしますと、イエスはわざわざ偽善的な遠慮をわれわれに勧めたのでしょうか。あんなに偽善的なことを嫌ったイエスがそんなことを勧めるのでしょうか。もし主イエスがわれわれ日本人に謙遜ということを教えられるならば、こういう言い方はおそらくしなかったのではないかと思います。これは上座につくことをあからさまに好むユダヤ人、特に、この場合には、パリサイ派の人々に対する言葉だからこうなったのではないかと思います。
 
 この状況はどういう状況でイエスが話されたのかといいますと、一四章の一節からの状況なのであります。そこをみますと、イエスは「ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派のかしらの家に入って行かれたが、人々はイエスの様子をうかがっていた」という状況の続きであります。そこに水腫をわずらっていた人がいた。人々は、特におそらくイエスを招いたパリサイ派のかしらはその病人をイエスが安息日にどうするか様子をうかがっていたのであります。水腫は皮膚病の一種だそうです。それはパリサイ派の人々の目からみれば、汚れた人間であります。そういう人がパリサイ派のかしらの家にいるということは本当は不思議であります。

それである人は憶測して、この人はイエスを試そうとしてこのパリサイ派のかしらがわざわざつれて来たのではいなかというのです。あるいはそうではないかもしれない。これはイエスがつれて来たのではないかと推測いる人もおります。安息日にイエスがどこかの会堂で説教して、その会堂にこの人がいて、イエスがその人に一緒に食事にいかないかと誘って、このパリサイ派のかしらの家につれてきたのではないと推測をするのであります。

 それはここに書かれていないので、わかりませんが、ともかくこの時、人々はイエスの様子をうかがっていたというのは、イエスが安息日にその水腫をわずらっている人の病をいやすかどうかをうかがっていたということであります。
 イエスのほうでもそのことを知って、あえてイエスのほうから挑戦的に「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」といって、その人に手をおいていやしたのであります。そしていわれました。「あなたがたのうちで、自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」というのであります。

 この記事は、安息日論争の問題のところで、すでにふれたところですので、安息日の問題としては今日はふれないことにします。ともかくイエスが「上座につくな」ということをいわれた状況は、そういう席で人々が上座を選んでいる様子をごらんになって、そう言われたのだということを今日は問題にしたいのであります。
 
つまり、人々が上座につくのを好むということと、パリサイ派の人々がイエスが安息日に病人をいやすかどうか様子をうかがっていたということと、深い関連があるのではないかということなのであります。
 
つまりわれわれが上座につくということは、上座について末座にすわっている人を見下す、そして人をさばくということと深い関連があるということであります。パリサイ派の人々と律法学者は、いつも好んで上座につくのであります。そして、彼らはまたすぐ人を裁きたがるのであります。上座につくということは、人を裁く位置につくということなのであります。だからイエスは上座につこうとするなといわれるのであります。それは人を裁く位置につくということだからであります。
 
そしてイエスはこの時、上座につくな、ということを言う時に、自分から上座についていたら、そこに自分よりも偉い人が来た時に、その席をゆずってくださいといわれて、恥をかくからそうするなといわれるのであります。それよりは、末座についていなさい、そうしたら「いやあなたは上座にすわるべき人だ」といわれてみんなの前で面目をほどことになるというのであります。
 
ここだけを読みますと、イエスが何かわれわれに上手に上座につくためのテクニック、処世術を教えておられるようでわれわれにはなにか納得がいかないように感じられるのではないでしょうか。イエスはわれわれに何か偽善的なやりかたを教えておられるように思われるのであります。さきほどもいいましたが、日本的な遠慮を教えておられるようなのであります。
 
もちろん、イエスの真意はそんなところにあるわけはないのです。ここでイエスは人々になんとかして、謙遜になりなさい、ということを教えようとしておられるのです。身を低くしなさいということをなんとか教えようとしておられるのであります。そのために、ある意味では、われわれのこころの中にある功利主義的な思いを利用してでも、具体的にともかく一度身を低くしてみなさい、末座にともかく座ってみなさい、と勧めるためにこういわれたのであります。
 
イエスの話し相手は、いわゆるインテリではないのです。自称インテリではないのです。インテリ相手にこんな論法を用いて謙遜であれ、身を低くしなさいということを教えようとされたら、たちまちインテリからは軽蔑されるに違いないと思います。もしインテリ相手だったら、もっと直裁に、謙遜になれ、上座になんかつこうとするな、といわれたかもしれません。そう言われてインテリが謙遜になるはずはないのですが、インテリほど実は上座につきたいと思っている人種はいないかもしれません。

しかしイエスが相手にしたのは、インテリではなく、庶民であります。いや、パリサイ派の人々とか律法学者という当時のインテリを相手にしてるのかもしれませんが、その人々に対しても、庶民的ないいかたで謙遜になることを勧めているのであります。そのことが大事なことだと思います。特にルカによる福音書はそういうイエス姿を描くのであります。たとえば人に施しをすることを勧める場合でも、「与えよ、そうすれば、自分にも与えられる。人々はおしいれ、ゆすり入れ、あふれる出るまでに量をよくして、あなたがたのためにふところに入れてくれるのだろう」という言い方をするのであります。
 
つまり善のために善をしなさいというような、観念的ないいかたをしないのです。人にものを与えたら、自分にもそのお返しが来るのだから、得をするのだらかそうしなさいといって、なんとか人に施しをすることをイエスは勧めるのであります。人を裁くな、自分が裁かれないためである、という言い方をするのであります。ここにはわれわれ人間は自分が得をしないことにはびた一文払いたくないという功利主義的、御利益的な考えが根強くあることを見据えたもののいかかたをイエスがなさっているということなのであります。
 
われわれは自分が損してでも、人に施すなんてことはなかなかできないのです。そう思っているわれわれに対して、なんとか自分を捨てさせるために、イエスはそういう庶民的ないいかたをして、われわれに愛を教え、人を裁いてはいけないことを教え、そして今、上座につかないで、末座につきなさい、謙遜になることを教えておられるのであります。

 イエスはわれわれの心の中にあるそうした利己的な、いじましいまでの利己的な心の動機というものをただ否定したり、軽蔑したりするのではなく、それを肯定して、いわばその心を利用して、われわれに自分を解放することを教えようとしておられるのであります。われわれの心の弱さをじっとみつめ、それを見守ってくださるイエスの勧めの言葉にわれわれは気がつきたいのであります。

 どのような動機からであるにせよ、つまりゆくゆくは上座につきたいという動機からであるにせよ、ひとたび末座につくということ、自分の身を低いところに具体的においてみるということが大変大事なことなのではないかと思います。そのときに、いつも上座にばかりついていたり、つこうとしていた時には、見えてこなかったものが見えてくるのではないか。末座についた時に、そこで屈辱をあじわうかもしれません。そして自分の身を本当に低くしたときに、自分はやはり本当はこの位置にしかいることのできない人間だったのだということがわかってくるのではないかと思うのです。末座こそ、自分の居場所だということがわかるかもしれない。そしてそこが本当は一番居心地のいい場所なのだということがわかってくるのではないかと思います。そしてもう人を裁きたくなくなるのではないか。いや、もう到底人を裁けるものでないということがわかってくるのではないかと思うのです。

さきほどもいいましたけれど、どんな動機からであるにせよ、人から自分が裁かれないためにという動機からであるにせよ、人を裁かない、具体的に人を裁かないでみる、そうしたら、人を裁かないということがどんなに大事なことかということがわかってくるのではないか。そして自分も裁かれないということがどんに安心のいくことか、ほっとすることか、うれしいことかということがわかってくるのではないかと思うのです。

人に施しをする、それがどんな動機からであるにせよ、いずれは情けは人のためならず、自分にやがて返ってくるという動機からであるにせよ、人に施しを具体的にしてみる、そうしたら、人にものを与えるという楽しさというものがわかってくるのではないか。そうしたらもうそのお返しがなくても十分喜びで満たされるのではないかと思うのです。

 それでは、われわれは一切上座につころうとしてはいけないのかということなのでしょうか。われわれクリスチャンはいってみれば、もういっさい上昇志向というもは断念しなくてはならないのでしょうか。そうではないと思います。われわれも実際に上座につきたいとは思わないかもしれませんが、少なくとも、上座につける資格だけは持ちたいと願うのではないでしょうか。そしてそのように思うことは、いけないことなのでしょうか。イエスは「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」といわれるのです。この言葉はもう、ただ上座につくための一つのテクニックとか処世術とは言えないと思います。なぜなら、ここで「高くされる」というのは、神が高くしてくださるということだからであります。

 パウロはイエス・キリストの謙遜について述べて、イエスは神の子であられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれを低くしておのれをむなしうして、しもべの姿をとって人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも、十字架の死に至るまで従順になられた、というのです。イエスは徹底的に末座につかれたというのです。そしてそのあと、パウロはいうのです。「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。」というのです。末座に徹底的につかれたイエスを神は一番高い上座に引き上げられたというのであります。
 
上座につくことは決して卑しいことではないし、それを願ってはいけないということでもないのです。ある意味では、それを目標にしてもいいということであります。

 イエスは「偉くなりたいならば、仕えるものになれ、かしらになりたいと思う者は、しもべとなれ」といわれるのです。偉くなりたいということをひとつの目標であってもいいといわれるのであります。ただそのためには、一度徹底的に仕えてみなさい、しもべの道を歩んでみなさい、そうしたら、神がひきあげてくださるというのです。「自分を低くする者は高くされる」というのです。神が高くされるのですから、われわれが生半可に自分の身を低くしたって、そんなことは神に見通されてしまいます。見透かされてしまいます。神の前には偽装的な謙遜は通用しないのであります。本当のへりくだりしか通用しないのです。処世術的な謙遜は神の前には通用しないのです。
 それならば、われわれは神の前に本当に裸になって、砕けた魂を捧げざるを得ないのです。それが謙遜になるということであるし、それが身を低くするということであるし、それが末座につくということであります。その時に神はわれわれを引き上げてくださるのであります。それがわれわれの上昇志向ということなのではないか。神が引き上げてくださることを願うということがわれわれの上昇志向でなければならないのであります。
 
 あの富める青年の記事の中で、イエスの弟子達は、「自分達は富める青年とは違ってなにもかも捨ててあなたに従ってまいりました、ついては何がいただけるでしょうか」と愚かなことをイエスに尋ねました。イエスはそれを聞いて、なんと愚かなことをいうのかとおそらく悲しそうな顔したと思いますが、こう答えるのであります。「世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう」というのです。

弟子達は確かに終末の時には上座につくかもしれない。そして他の人々を裁く位置につくだろう、というのであります。しかしそれはあのパリサイ派の人々や律法学者たちが上座について人を裁く裁き方ではなく、弟子達はともかく一度末座についた、イエスの十字架を通して自分の罪を知り、うち砕かれ、神に砕けた魂を捧げたものであります。そういうものが上座について人々を裁くことになるというのであります。そうした自分の身を一度徹底的に低くした者が上座についた時に、正しく人を裁けるようになるというのであります。しかしイエスはそのような愚かなことをいう弟子達にくぎをさして、「しかし、多くの先の者は後になる」というのであります。

「自分を低くする者は神によって高くされる」このイエスの言葉を謙遜に受け止めて、われわれはイエスの歩まれた謙遜の道を歩んでいきたいと思います。