「招かれた人」 ルカ福音書一四章一二ー二四節

 イエスは自分を招いた人にいわれました。「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣人などは呼ばぬがよい」といいます。自分を招いた人とは、この状況では、パリサイ派のかしらであります。そしてそこに招かれた人は、みな上座を選んで座っているような人々なので、みな自分は上座につく資格がある人間だと思っている人々のようであります。そうしますと、自分は上座につく資格があると思っている人々ですから、当然また自分を招いた人を今度はき返すだけのお金をもっている人であります。そうしましたら、人を招くということは、いずれはそのうち自分が招かれるためを見通して人を招いているということになるわけで、それでは人を招いたことにはならないというのであります。

 だから招く場合には、返礼などできない人、貧乏人などを招くがよいというのであります。ここには今日でいえば、差別用語が平気で使われておりますので、少し不快な感じをもちますが、しかしここでいようとしていることは分かると思います。

 差別用語が使われているということで、不快に感じられるということとは別にしても、われわれはここを読む時、あまりいい感じはしないのではないかと思います。といいますのは、ここではわざわざ、貧しい人、からだの不自由な人、足の不自由な人、目の不自由な人を招くということは、何か招く人の自己満足、ひとりよがりな自己満足が感じられてしまうからであります。しかしこれを語るのは主イエスですから、そんなことを心配する必要はないと思います。ここで、人を招くということで言おうとしていることは、人に施しをする時、今では人に施しをするという表現も何か差別的ですが、ともかく、人に施しをする時には、こうしなさいということであります。人に何かものを与えるとか施しをする時というのは、そのお返しを期待してそうするなということであります。

 そしてそれは人から施しを受けた立場に立った時、人から何かものをもらった時は、われわれはすぐお返しのことを考えてしまいがちですが、そのように考えてはならないということにもなると思います。人からものをもらった時にすぐお返しをしなくてはならないと思うということは、せっかくの人の親切とか人の好意というものを無にしてしうまうことであります。われわれがそのようにすぐお返しを考えるということは、いつも人に対して対等の立場に立ちたいという思いからではないかと思います。自分がただ一方的に人からものをもらう立場に立ちたくないということであります。

 それは前のところとの関連から言えば、いつも上座につきたいということ、自分はいつも上座につく資格があるのだと思っているということであります。人から親切にされたり、ものをもらって、それを心から素直に喜んで受けるということがどんなに難しいかということであります。

 心からその人に何かものをあげたときに、それを相手がただ素直に、喜んで受け取ってもらえた時というのは、本当にうれしいものであります。それなのに、すぐそのおかえしが来てしまったら、なにか興ざめてしまうのではないかと思います。

もののやりとりというのは本当に難しいものであります。今日の社会では、葬儀の時の香典返しとかあるいは、結婚の時のお返しとか、というのはもうひとつの慣習というのができておりますから、それにのっとって行動したほうが楽だということがありますから、それはそれでいいと思いますが、しかしそうしたお返しということが一つの常識になってしまいますと、それが愛の世界にまで入りこんでしまいますと、愛のもつ本質までもののやりとりと同じものにしてしまって、愛そのものを破壊してしまうのではないかと思います。

 愛というものが、もののやりとり、いわゆる「give and take」ということになってしまって、与えたら、そのお返しを求めること、人に与えるということは、その人からお返をしてもらうことだということになってしまう。そうなったならば、もう愛というものがなりたたなくなってしまうのであります。
 
 確かに愛というのは、愛されたら、その愛に応えてこちらもその人を愛するという性格のものであります。愛には応答というものがなくてはならないのであります。しかしその場合の応答としての愛というのは、ものをお返しするというような応答ではなくて、なによりも、自分を愛してくれたことに対する喜び、感謝をいいあらわすという応答の筈であります。自分を愛してくれた人に対する応答としての愛は、相手と同じ立場に立とうとするためのお返しとしての愛ではないのです。それはあくまで、自分は愛を受ける立場、下の立場、低い立場に立って、その愛を素直に受け止める、自分は到底あなたの愛に応える力も愛もありません、とても自分はあなたの愛にお返しなどできませんといって、その愛に感謝して、愛してくれたことを喜ぶ、それが愛に対する応答というものであります。
 
 聖書の言葉に、「愛は神から出たものである」という言葉があります。「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。それによってわたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のためのあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」というのであります。

 つまり愛ということをわれわれが考える時には、まず神のわれわれに対する愛について考えなくてはならないというのであります。神の前にわれわれが立って、われわれが神からの愛を受ける時は、神に対して到底対等の立場などには立てるものではないのです。それこそ、われわれは神にお返しなどできる筈はないのです。

 それは、今日のイエスのたとえでいえば、神が人を招く場合には、お返しができる人ではなく、到底お返しができない貧しい人、からだの不自由な人を招いてくださったということであります。それは神が人を招く場合には、わざわざそういう人を招くというのではなく、すべての人が実は貧しい人、病の人なのだというのであります。主イエスは「わたしは義人、正しい人を招くためにきたのではなく、罪人を招くために来たのだ」と言われたのです。それはわれわれ人間には義人と罪人という区別があるというのではなく、われわれ人間には、自称義人と自分のことを思っている人と自分は罪人だと思ってうなだれている人がいる、わたしは自称自分を義人だと思っている人などを相手にしないのだ、自分は自分の罪に悩み苦しんでいる人を招くために来たのだということであります。

 われわれができるただひとつの神の愛に対するお返しは、わたしは到底お返しなどできません、ただこのような自分を愛してくださったことを感謝して、神に対して砕けた魂、悔いた心を神に捧げるたげですと告白するということであります。
 
 ところがパリサイ派の人々、律法学者たちはそうは考えなかった。神に選ばれたという自負していたイスラエルの人々はそうは考えなかった。神のそのような愛に対しては、対等にお返しができると思っていた。それが動物の犠牲を捧げるということになって現れたのであります。豪華な神殿を建て、そしてそこで立派な礼拝を捧げる、そうしたら自分達は神と対等の立場に立てると思った。律法を守ることによって、自分たちは上座につける資格があると思おうとしたのであります。

 それに対して聖書はなんといっているか、神はそんな動物の犠牲とか燔祭はいらないといわれるのです。神が求めているのはわれわれの砕けた魂だ、悔いた心だというのであります。
 
 「愛は神からでたのである」という聖書の言葉から、愛というものを考える、神のわれわれに対する愛というところから愛というものを考えたならば、何かもののやりとりみたいに、お返しをする愛を考えてはならないということであります。愛を与える側に立つ時にも、お返し求めるようにして人を愛してはならないということであります。

ただこのイエスのたとえでは、宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人を招きなさい、そうすれば彼らは返礼ができないから、といわれる時、すこしひねくれていえば、それこそそうすることによって招いた人は自分は上座につこうとしてそうするのではないかといわれそうであります。場合によっては確かにそのように自分よりも低い人ばかりを招いて悦にいっていたならば、そうすることによって自分が上座につくということなるのかもしれません。しかしもちろんここで主イエスはそのようなことを言おうとしているのではないのです。

すぐ先のところで、イエスは上座につこうとするなといわれているわけですから、返礼のできない貧しい人を招くことによって、人に愛を与えなさいといいたいのであります。もしその人がそうすることによって、自分が悦にいっていたり、自分はこれで上座につけたと思っていたら、招かれたほうの人はひとつもうれしくはないでしょうし、感謝もしないだろうと思います。
 
返礼という、お返しができない貧しい人を招いて、その人々に喜んでもらうためには、招いた人は本当に謙遜になっていなくては、人を招いたことにはならないし、愛を与えたこにはならないのであります。人を招いて自分は上座につくのだなどと思っている人は、人を本当に招くことなどはできないのであります。

 一四節をみますと、イエスは「そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるだろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」といわれます。ここには、「正しい人々の復活の際には」とあって、ここだけをみますと、復活というのは、正しい人々だけが復活するのだといっているのではないかと思われるかもしれません。確かに、当時の人々の考えにはそうした復活思想が濃厚だったのではないかと思います。

しかしこれを書いたルカはそのあと、使徒行伝を書いておりますが、そこでは、二四章の一五をみますと、こう書かれております。「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神に仰いでいだいているものです」と、記されております。もっとも、それはパウロの言葉であります。彼が捕らえられて総督に自分達の信仰の内容を弁明するときに、総督に言った言葉として記されておりまして、この言葉はルカの言葉というよりは、パウロの言葉であります。そしてパウロ自身は、自分の書いた手紙のなかで、「神はすべての者にあってすべてとなりたまう」といっておりますから、正しい者も正しくない者も神はよみがえらせてくださるという信仰をパウロはもっていたのであります。

 一五節をみますと、イエスの「正しい人々の復活の際には、あなたは報いられる」という言葉を聞き取りますと、列席者のひとり、おそらくパリサイ派の人々のなかのひとりでしょう、「神の国で食事をする人はさいわいです」ととんちんかんなことを述べるのであります。おそらくは、彼は自分は正しい人間だと思っていたのであります。それで「正しい人々の復活の際には」というイエスの言葉を聞いた時に、自分も死んだときによみがって、神の招いてくださる祝宴にあずかれるのだと想像したのであります。
 
それに対して主イエスは大変しんらつなたとえを述べます。ある人が盛大な晩餐を催して大勢の人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのところにひとりの僕を送って「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と改めて招待したというのです。これは当時の招待の仕方だったようです。あらかじめ招待状を出しておいて、そのときがきたら、もう一度招待するということのようです。その時になったら、みな断りだしたというのです。「わたしは土地を買いましたので、それを見なければなりません」「牛を買いましたので、それを調べに行かなくてはなりません」「わたしは妻をめとりましたので、いくことができません」と、みな一様に断りだしたというのです。それで主人は怒ってしまって、「いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人や体の不自由な人を招きなさい」というのです。僕はその通りにした。しかしまだ余裕があった。それで主人は「道やかきねのあたりに出ていって、この家がいっぱいになるように、人々を無理矢理に引っ張ってきなさい。あなたがたにいうが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう」というのであり ます。

 これは「正しい人々の復活の際にはあなたは報いられる」という言葉を聞いて、「神の国で食事をする人はさいわいです」といった人、自分は正しい人間で、従って確実に神の招かれる晩餐に預かれると自負していたパリサイ派の人々、選民イスラエルの人々に対するイエスの痛烈な皮肉、皮肉というな、なまやさしいことではなく、選民イスラエルの人々に対するイエスの激しい憤りをあらわしているたとえであります。

 選民イスラエルは確かに神に特別に選ばれている民であります。それなのに彼らは神の招きに応じようしない、神の招きに手放しで、素直に喜んで応じようとしないで、自分達の都合を優先させて、一様に神の招待を辞退しはじめたというのです。ここに登場する「しもべ」とは単数形で書かれておりますから、当然イエス・キリストのことをいっているのであります。

 彼らはなぜこの招きに応えようとしなかったのか。それはこの神の国の晩餐の招きには、自分が上座につくという楽しみなどはひとつもないからであります。あるいは自分はもしかすると、上座にはつけないかもしれない、しかしうまくすると上座につけるかもしれない、そういうスリリングな楽しみなどはこの宴会にはひとつもないからであります。みな一応にこの招きに、ただ招かれたことを素直に喜び、感謝することだけが求められる招待、もう手ぶらで出席することだけが求められている招待だからであります。

 これに招かれた人は、彼らが軽蔑している貧乏人やからだの不自由な人と同じ立場に立たなくてはならない招待だからであります。自分達は招かれたという特権意識などはなにひとつ主張できない神の国の晩餐なのであります。そんな祝宴に招かれてもひとつもうれしくはないからであります。彼らが断る理由は、みな自分の都合を優先させております。どの断る理由も、いちど招待を承諾しながら、その時になって断らなくてはならない緊急性などひとつもないてのであります。

 招きに素直に応えるということは、本当に難しいものであります。それは愛というものを素直に受け止めるということの難しさであります。

 ここで最後に主人は僕に対してまだ余裕があるから、「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理矢理にひっぱってきなさい」といったいうのです。ここで招かれた人々は、「道やかきねのあたり」というのですから、選民イスラエルの周辺の人というわけで、これはあきらかに異邦人のことであります。このルカによる福音書というのは、ルカ自体がギリシャ人で、つまり異邦人で、この福音書はマタイによる福音書がユダヤ人に対して書かれた福音書に対して、ルカによる福音書は異邦人に向けて書かれた福音書だと考えられております。

 そうしますと、異邦人ルカは自分達異邦人が神に救われるということはこういうことなのだよ、と書いているということなのです。われわれ異邦人が救われるのは、いわば部屋をいっぱいにするために無理矢理にひっぱられた者だということになります。あるいは貧しい人、からだの不自由な人だということになります。ルカは自分達のことをそのように表現しているということであります。それでも神に招かれたことを喜ぶ謙遜さがわれわれ異邦人に求められているのだということであります。

 あのスロ・フェニキャ地方のギリシャ人の女がイエスに対して、自分の娘の病をいやしてくださいとお願いしたときに、イエスから自分は今は一番心をかたくなにいしている問題児、イスラエルの人のために福音を述べることに精一杯なので、とても異邦人に今は救いの手をさしのべる余裕はないのだということで、「まず子供たちに十分食べさすべきであって、子供たちのパンを取って子犬に投げてやるわけにはいかない」と冷たく拒否されてしまうのです。しかしその時に女は「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパンくずはいただきます」といって自分の娘をなんとかしていやしてほしいと求めたのです。その時にイエスは「女よ、あなたの信仰はみあげたものである」といわれた、これほどの信仰はイスラエルのなかにはないという意味をこめてイエスはこの異邦人の女の信仰をほめて、その娘をいやしたのであります。

 われわれ異邦人は、この女のように、おこぼれでもいいから、このわたしを救ってくださいという信仰をもって、この神の国の祝宴に招かれようとしないならば、われわれは祝宴の招待を断った選民イスラエルと同じ傲慢な人間になってしまうのであります。