「天にある大いなる喜び」  ルカ福音書一五章一ー一一節

 ルカによる福音書の一五章は、ルカ福音書だけにあるいわゆる「放蕩息子のたとえ話」があるところであります。ある父親にふたりの息子がいて、弟のほうが「自分の遺産相続の財産をあなたがまだ生きているうちにわけてください」といって、自分の取り分の遺産をもらい、それを受け取ると幾日もたたないうちに父親のもとを離れ、放蕩に身を持ち崩して、財産を使い果たし、とうとう食べるものもなくなって困り果て、食物にありつこうとして親のところに帰るという話であります。ところが父親は彼よりも先に彼をみつけ、なにも叱らずに彼を受け入れたという話であります。神とわれわれ人間の間柄というのはそういうものだということ、神のわれわれに対する愛というものはそういものだというイエスのたとえ話であります。

そしてそのたとえ話の前に、イエスは二つの譬え話をするのであります。その一つが百匹の羊のうち、そのうちの一匹がいなくなったときに、羊飼いは他の九十九匹を野原に残したまま、一匹を見つけるまで探し求めるという話であります。そしてもうひとつのたとえ話は、ある女が銀貨を十枚もっていて、もしその一枚をなくした時に、彼女はあかりつけて家中を探し、それを見つけるまでは注意深くさがさないだろうか、という話であります。

この二つの話の中心は、羊飼いの話にせよ、銀貨をなくして女の話にせよ、失われたものをそれを見つけるまで探し出すという話ではないのです。むしろ、見つけたあとの話なのです。見つけたあと、羊飼いは、その羊を自分の肩にのせ、家に帰ってきて、友人や隣人を呼び集め、「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」というだうろということ。なくなった銀貨一枚をみつけだしたならば、女は友達や近所の女たちを呼び集めて、「わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨がみつかりましたら」というだろうということなのです。

 たった一枚の銀貨を見つけただけで、隣近所の人を集めてこんなに喜ぶだろうかと思われるほどであります。見つけたのが銀貨なのですから、むしろ誰にもそのことは話さないのがわれわれのやることではないでしょうか。しかしこの女はその喜びを独り占めにできなかったというのです。これはわれわれの社会でいえば、ふだんから深い楽しい近所づきあいをしている、いわば下町の交わりを映し出しているのではないかとおもわれます。そしてある聖書の学者がいうのには、この話には、イエスの少年時代の生活感覚が現れているのではないかというのです。イエスもまたそのような近所づきあいをしていたという生活感覚がここには現れているのではないかということをいうのです。

 それはともかく、ここは失われたものを見つけるという話が中心ではなく、それを見つけた時に、みんなと一緒になって喜ぶではないかという、その後の喜びが中心なのであります。

 ここでたとえられているのは、父なる神のことであります。この羊飼い、この女は、父なる神にたとえられているのですが、ここでの話の中心は、父なる神は失われたわれわれを最後まで探し求める、罪を犯した人間が悔い改めるまで、神は愛を注ぐかただという話ではないのです。もちろんそのことも語ってはいるのですが、しかしそれがここの話の中心ではないのです。そうではなくて、罪人のひとりが悔い改めたならば、天に大きな喜びが満ちるということ、神の御使たちの前には大きな喜びがあるということなのです。

 放蕩息子のたとえの結びの言葉は、「しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」という言葉なのです。

  この譬え話の中心は、一人の罪人が悔い改めて神のもとに帰ってきたならば、神は自分ひとりで喜ぶのではなく、仲間を集めて共に喜ぶということなのです。天にある大いなる喜びというのは、天には天使たちがたくさんいて、神はその天使たちを集めて喜び祝うということであります。神はひとりの人間が悔い改めた時に、神おひとりで喜ぶのではなく、みんなを集めて共に喜ぶということなのです。

 そういえば、ルカによる福音書はイエスの誕生の記事で、神が人間を救うために、ついに御子イエスをこの地上に派遣することを決意し、そのしるしとして飼い葉おけのなかに御子を誕生させるということを羊飼いに告げた時に、「おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神を賛美していった、『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』」と記されているのであります。そこでは神が人間をいよいよ徹底的に救おうとして御子を派遣した時には、天使たちだけではなく、天の軍勢までも一緒になって喜びが現されたというであります。
 
 主イエスがこの三つの譬え話をされた状況はこういう状況なのです。一節をみますと、「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』といった」ということから、イエスが三つのたとえ話をはじめたのであります。つまり、パリサイ派の人々や律法学者たちはイエスが罪人たちと共に食事しているのを見て非難した、それを見てイエスがこういう話をしたということであります。

 主イエスがここで言おうとしていることは、一人の人間が自分の罪を悔いたならば、共に一緒になって、喜ぶのが当たり前ではないかということであります。どうしてお前たちにはそれができないのかということであります。パリサイ派の人々は自分たちだけが救われればいいと考えているのであります。自分たちが天国にいければいいと考えていたのであります。

できることならば、救われる者はできるだけ少ないほうがいい、それのほうが有難味が増すというものなのであります。彼らの考える救いというのは、結局はそのようにきわめて利己的なもの、自分だけが救われれればいいという自己中心的なものだったということであります。そんなものは神の救いではないと主イエスはここで語ろうとしておられるのであります。

この三つの譬え話で特徴的なことは、ここでは、悔い改めた側の喜び、救われた者の喜びは一つも語られていないで、ただ徹頭徹尾探し求めた側、救った側、羊飼いの喜び、一枚の銀貨を見つけた女の喜びが語られているのであります。もちろん、相手は羊だし、まして銀貨ですから、その喜びが語られないのは当然といえば、当然なのですが、しかし放蕩息子のたとえでも、この次に詳しく学びたいと思いますが、そこでも放蕩息子が父親のところに帰ってきて、父親からなにも叱られないで赦され、最上の着物とご馳走でむかえられた時に、その放蕩息子の喜びは何一つ語られてはいないのであります。ここでも語られているのは、「この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」といって喜ぶ父親の姿だけが語られているのであります。
 
そして放蕩息子の救われた喜びが語られていない代わりに、兄の怒りが語られているのであります。その弟がさんざん自分のしたい放題のことをしていい気になって帰ってきたのを大歓迎して喜ぶ父親の姿をみて、不快に思い、怒り、家に入ろうとしない兄の怒りが語られるのであります。

 この三つのたとえ話の特徴は、悔い改める者、救われた者の喜びは何一つ語られないで、探し求める側の喜びが語られているのであります。しかもその喜びは、いわば神おひとりで喜ぶという喜びではなく、天使たちを集め、天の軍勢までもそれに参加して喜ぶほどの喜び、そしてそれだけではなく、われわれ人間にまで、共に喜ぼうではないかと呼びかける喜びなのであります。われわれはそのことを知って、自分が悔い改めるということが自分ひとりの喜びなどではなく、実は天において、神の側にそれほどの大きな喜びがあることに気がつき、あらためて自分が救われたことを喜び直すという思いをすることになるのであります。

 聖書は自由に読んでもいいのですが、しかし一度はその文脈に沿って聖書が言おうとしていることを読みとらなくてはならないと思います。このルカによる福音書の一五章でいえば、われわれがこの記事を読む時に自分をどこにおいて読むかということであります。ここは、自分を迷える子羊になぞらえて読んではならないのです。自分もこの放蕩息子だ、と考えて、ここを読んではならないのです。まずわれわれがすべきことは、自分をイエスが罪人と食事をしているのを見て、不快に思い、密かに非難の目をもってイエスを見ているパリサイ派の人々、律法学者の一人として、自分をおかなくてはならない、あるいは弟の悔い改めを喜ぶ父親を苦々しく感じ、家に入ろうとしないこの放蕩息子の兄こそ、自分ではないかと思わなくてはならいなのであります。

 ひとりの迷える子羊が救われていく、ひとりの罪人が悔い改めて神のもとに帰っていく、その姿をみて神がどんなに喜んでおられるか、天使達を集めて喜ぼうとしているか、そしてわれわれ人間までも集めて喜ぼうとしているか、どうしてその喜びにお前は参加できないのか。どうしてお前はそんなに狭い考えのなかにいるのかということであります。

 神のわれわれに与える救いというのは、そんなみみっちい救いではない、そんなに狭い救いではないのだということであります。神の与える救いは、共に喜ぼうという救いだというのであります。

 それに対してパリサイ人、律法学者たちの救い、エリート階級の人々が求めている救いというのは、自分だけが救われればいいという救いでした。特に選ばれた者だけが救われればいいという救いでした。ですから、救われる者はできるだけ少ないほうがうれしいのです。ちょうど、大学に合格したときに、その合格者はできるだけ少ないほうが、有難味が増すというような救いなのであります。

 イエスはそんなものは救いではないというのです。少なくも今神が与えようとしている救いではないというのです。自分だけが救われればいいという救い、そんなみみっちい救い、自分中心の救いは救いではないというのです。

 ある人が言っておりますが、映画を観にいくとか、音楽を聴きにいくとかするときは、ひとりで行く場合が多い、しかし、その映画がすばらしいとき、その音楽会がすばらしかった時には、その帰り道にその感動を共に語る友人がほしくなるものだいうことであります。
 本当に感動した時には、その感動を自分ひとりで独り占めにできないものであります。誰かに語って共に喜んでもらいたくなるものであります。それがたとえば、宝くじに当たったというような喜びならば、それは誰にもいわないで、ひとりでほくそ笑むという喜びになるかもしれませんが、だれかが救われた、ひとりの罪人が悔い改めた、そういう喜びならば、共に喜びたくなるのだということであります。
 
 ここでイエスは百匹のうち一匹の子羊が迷い出た時に、羊飼いは他の九十九匹をうっちゃっておいて、その一匹を探し求め続けるというのです。愛というのは、神の愛というのは、コンピュウターのように計算して公平を期すというような愛ではないのです。神の愛、おおよそ生きた愛というのは、ひとりの人に集中するものであります。今一番問題を抱えている者、この人を救わなければならないという人に集中的注がれるものであります。

そういう意味では愛はえこひいきするのであります。そしてその愛からはずされた者達はどうするか、他の九十九匹はどうするか。そのことに何の不平もない筈です。他の九十九匹も、その迷い出た一匹の羊を探し出す羊飼いを心配し、早く見つけだしてほしいと願い、見つけるまでじっとまっていることができる筈であります。
 
これは羊だからそんなことはわからないといわれるかもしれませんが、たとえば、子供の間にひとりの子が病気になった時には、親は他の子供達をうっちゃっておいて、その病気に陥っている子供にかかりきりになると思います。そのように生きた愛というのは、その一人の子供に集中する筈であります。えこひいきの愛であります。そしてその場合、他の子供たちはどう思うか。そういう親の愛をみて、妬むでしょうか。いらだつでしょうか。そんなことはないと思います。
その病気になった弟に、あるいは、妹に、一生懸命に注がれる親の愛に打たれるのではないでしょうか。そして自分達も一緒にその弟を看病したり、親の留守を守るのではないでしょうか。
 
そのようにして愛を集中的に注ぐ親の姿に心打たれるのではないでしょうか。百匹のうち、一匹の迷い出た子羊が出た時に、その迷い出た子羊を探し求める羊飼いの愛、そのような神の愛に感動できないとするならば、われわれはなんと惨めな人間なのではないか、なんと自己中心的なみみっちい狭い人間になりはてているかということなのであります。
 
われわれはこの譬え話を読むときに、いつもこの迷い出た子羊の立場、あるいは放蕩息子の立場に、自分をなぞらえますが、そうすることも決して間違いではありませんが、しかしまず第一にしなくてはならないことは、自分をうっちゃられた九十九匹の羊の立場、放蕩息子の兄の立場に自分をおかなくてはならないと思います。

 われわれか神の救いに預かるということは、このようにして迷い出た羊のためにどこまでも探し求める羊飼いの愛の深さに感動するということなのではないか。たとえ直接その集中的な愛が自分自身の注がれていなくても、あるひとりの人に注がれていたとしても、その愛に感動し、自分もその愛にあずかりたいと願うようになるということが、救われるということなのではないか。
 そうでなければ、われわれの救いというのは、いつもいつもひとりよがりな狭い自己中心的な救いを求め続けるということになるのではないか。

 本当の喜びというのは、その喜びをひとりでほくそ笑むことができなくて、共に一緒に喜んでくださいと、その喜びを共有してもらいたくなるものであります。それでは悲しみの場合はどうでしょうか。悲しみの場合も、やはり本当に深い悲しみならば、共に悲しんでくれる人を求めるものなのではないか。
 
愛する者を失った時に、それを共に悲しんでくれる時、どんなに慰められるかわからないのであります。ヨブが自分の子供たちを死なせ、自分の全財産を災害で奪われたときに、そのヨブを慰めようとして友人たちが来ましたけれど、最初は彼らはヨブを慰めることができずにただ黙っているだけでしたけれど、そのうちヨブが神に文句を言い出したときに、友人達はヨブをいさはじめました。そのときヨブはこういうのです。
「あなたがたは人を慰めようとして、かえって人を煩わす者だ。むなしき言葉にはてしがあろうか」といいます。そしてヨブはいいます。「わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ、神のみ手がわたしを打ったからである」といいます。今はわたしをあわれんでくれ、わたしと一緒に悲しんでくれ、お説教はいらないというのです。
 
 うれしい時に、共に喜んでくれる人を求めるように、悲しい時にも、やはり心から共に悲しんでくれる人がいたときに、深く慰められるのであります。
 
聖書の言葉に、「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しみなさい」という言葉があります。それが愛なのだというのであります。そしてそれが神の愛だというのです。

神の愛は、われわれが罪を犯して迷い出ている時に、それをご自身の苦しみとして受け止め、ご自身の悲しみとして共有してくれる愛であります。罪に苦しみ、罪に悲しむわれわれと共に苦しみ、悲しんでくれる神であります。われわれが悔い改めるまでわれわれに愛を注いでくださるかたであります。

そしてわれわれが悔い改めた時に、共に喜んでくださるかたであります。ご自分ひとりで喜ぶのではなく、天使達を集め、天の軍勢を集め、そして隣近所の人々を集め、われわれを集め、あのパリサイ人律法学者までにも呼びかけて、共に喜ぼうではないか、と呼びかけるのであります。この神の喜びにわれわれも参加したいのであります