「イエスの宣教の開始」   ルカ福音書三章二一ー二二節

 バプテスマのヨハネがヨルダン川で罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた時、イエスもバプテスマを受けにまいりました。このバプテスマは「罪のゆるしを得るためのバプテスマ」であります。それならば、イエスは罪を犯していたのでしょうか。イエスはなぜ罪の赦しを受けるためのバプテスマを受ける必要があったのでしょうか。マタイによる福音書には、イエスがヨハネからバプテスマを受けようとされますと、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」と言ったと記されております。それに対してイエスは「今は受けさせてもらいたい、このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と言って、ヨハネからバプテスマを受けられたと記されております。罪のないイエス、神の子であるイエスが、罪のゆるしを得るバプテスマを受けるということがいかに異様なことであったかということであります。
 
ヘブル人への手紙には、「大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。だからわたしたちは、あわれみを受け、また恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」と言っております。ここでは、イエスは「罪は犯したことはないが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われた」と、記されております。
 
罪を犯したことのないイエスがどうして、罪の悔い改めのバプテスマをわざわざ受けたのか。ルカによる福音書には、「民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて」と、書かれております。つまりイエスはこの時、民衆のひとりとして、民衆のひとりに成りきろうとしてヨハネからバプテスマを受けようとされたということであります。イエスご自身は罪は犯されませんでしたが、罪を犯している民衆のひとりになり切って、ヨハネからバプテスマを受けたのであります。

マルコによる福音書は、ふたりの強盗と共に十字架にかけられたイエスをとらえて、「こうして彼は『罪人のひとりに数えられた』と書いている言葉が成就したのである」と記しておりますが、イエスの宣教はその始まりは、みずから、民衆のひとりとして、罪人のひとりとして、罪人のひとりに数えられようとして、ヨハネから罪のゆるしを得る悔い改めのバプテスマを受け、そしてその宣教の最後は強盗をした者と共に十字架にかけられて、罪人のひとりに数えられる道を歩まれたということであります。
 
たとえがいいかどうかわかりませんが、それはいわばホームレスの人の孤独を知ろうとして、みずからホームレスになったということであります。われわれは真の羊飼を失っているという意味では、本当の意味でホームレスであります。イエスはそのホームレスの人の思いを外から、いわばボランティア活動家として思いはかるのではなく、みずからホームレスになって内側から知ろうとしたということであるかも知れません。神に捨てられた罪人の思いをみずから神に捨てられた人の立場に立って、そうした環境に立って、その思いを知ろうとしたということであります。イエスは十字架の上で最後に「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれて死んでいかれたのであります。
 
そしてそのようなイエスの決意を、神もまた承認したのであります。イエスがバプテスマを受けられますと、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に降り、そして天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声がしたというのであります。つまりこのように民衆のひとりになりきってヨハネからバプテスマを受けたイエスを、これでこそ「わたしの愛する子だ、わたしの心にかなう者である」という天からの承認があったということであります。

 しかし罪を犯したことのない人が、罪を犯した人の思いを知ることができるだろうか。つまり罪を犯したことのない人が、ということは、本当はホームレスでないイエスが、ということになるわけですから、そういう人がたとえホームレスの人と同じ環境に生きたとしても、ホームレスの人と同じになりきれるのだうろか。実際には罪を犯したことのない人が罪人のひとりになり切るということはどういうことなのでしょうか。
 
われわれは人を殺したことがなくても、人を殺した人の気持ちというのは、ある程度わかるということはあると思います。それは人を殺さないまでも、人を憎み、人を傷つけてしまうということはいくらでもある、そのようにして人を苦しめ、傷つけ、それによって自分もまた苦しむという経験を通して、殺人者の気持ちも推し量ることがある程度可能だと思います。小説家はみな殺人という罪は犯さなくても、殺人者の心理を書くことできるわけです。自分の犯す小さな罪をもとにして想像力を働かせて殺人者に成りきって、人を殺す人の気持ちを書くことはできると思います。小説家は実際には人を殺さなくても、殺したくなる憎しみとか殺意というものをもったことがある、そういう経験はもつ、しかし殺す寸前でそれを思いとどまり、罪を犯さなかった、しかし殺す寸前までいった経験ををもとにして、殺人者の気持ちを想像するのかも知れません。罪を犯すという点では、小さな罪も大きい罪も本質的には変わりはないわけですから、自分の犯す小さな罪をもとに、実際に犯してしまう大きな罪を犯す人の心理を想像することはできると思います。
 
しかしイエス・キリストが罪を犯さなかったけれど、罪人の弱さをおもいやることができるというのは、小説家のように罪を犯す寸前までいったけれど、実際には罪を犯さなかったという意味での、罪を犯さないということとは違うのです。もしそれだったならば、イエス・キリストはわれわれと同じ憎しみとか殺意をもったということで、それでは「罪を犯さなかったが」とは到底言えなくなってしまいます。イエスが「罪は犯さなかったが」というのは、殺す寸前で思いとどまったという意味で、罪を犯さなかったという意味ではなく、憎しみとか殺そうとする思いも全くもたなかったということでなければならない筈であります。
 
しかしイエス・キリストは罪を深く知っておられたと思います。ご自分が罪を犯して罪を知っていたという意味ではなく、神との深い愛の交わりのなかで、それが破れるということがどういうことであるか、というところから罪の深刻さをよく知っておられた。イエス・キリストは小説家のように、罪人のもつ憎しみとか心理のあやとかそういうものはあまりわからなかったかもしれない、しかしイエスは、罪というものを心理的に理解するのではなく、罪の本質を知っておられた。神との関係で、人との関係で、罪を犯すということがどんなに神を傷つけ、人を傷つけるかということ、そうしてそうであるが故に、罪を犯すということは、神に捨てられることであり、人に嫌われるということであることを知っておられた。だから罪を犯した人間の不安、恐れ、悲しみ、罪を犯した人間の思いを、思いやることができたということであります。

罪の本質とは、愛の破壊であります。愛が破れるということであります。イエス・キリストは神と深い愛の交わりがありました。だからこそ、その愛がやぶれることの痛みというものを想像することができた。よく理解できたのであります。それはわれわれ人間にもある程度はわかることではないか。深い愛の交わりをもっている人は、今現在愛の深い喜びがあるが故に、それが失われることを想像して、その愛がやぶれることの恐ろしさ、悲しみを思いはかることができると思います。
 
イエス・キリストは愛というものをよく知っておられた。だからその愛のやぶれとしての罪の深刻さをよく知っておられたのであります。イエスは罪は犯さなかった。しかしイエスには愛があった。そのために罪を犯した人の思いはよくわかったのではないかと思います。もちろんそれは小説家のように、罪を犯した者の心理のあやの細かいところ、たとえばくやしさとか、うらみとか、憎しみとか、そういう心理まではわかるということではないかも知れません。しかし罪を犯した人間がもつ悲しみ痛み寂しさ、何よりも罪を犯した人のもつ恐怖感というものは、小説家よりももっと深く、深刻にわかっいたのであります。
 
罪は罪を犯した人間にしかわからないというものではないと思います。それならば、罪人を理解するためには、沢山の罪を犯さなくてはならなくなる筈です。人をたくさん殺した人だけが殺人者に同情できるのかと言えばそんなことはないのです。罪を犯せばおかすほど、われわれは罪に鈍感になるだけで、逆に罪を深くとらえることができなくなってしまう筈です。むしろイエスのように愛の深い喜びをよく知っている者、それ故に罪の恐ろしさをよく知っているものだけが、ご自分はひとつも罪を犯さなくても、われわれ罪人の弱さを深く深く理解してくださるのであります。
 
 イエスは罪をよく知っておられた。それは罪を犯してしまって、罪を知るという知りかたではなく、愛の喜びを知っているが故に、その愛がやぶれることのこわさを通して罪を知っておられた。それはいわば死の恐ろしさというものは、何も病気になった人だけが知ることではなくて、健康な人にも死の恐ろしさをよく知っているようなものであります。

イエス・キリストという大祭司は罪は犯されなかったが、わたしたち罪人の弱さを思いやることのできないようなかたではない、とヘブル人への手紙は書くのであります。それは「すべてのことにおいて、われわれと同じような試練に会われたからだ」というのです。罪の恐ろしさをイエスはよく知っておられた。何も罪を犯さなくても、罪の恐ろしさはよく知っておられた。だからそういう意味からいえば、罪人の仲間に入らなくても罪の恐ろしさはよく知っておられた。しかしそれではわれわれ罪人のほうが、イエスさまは清らかなかたでいらっしゃるから、どうせわれわれ罪人の思いはわかってくださらないだろうと、われわれのほうが勝手に思ってしまって絶望しているところがあると思います。そのためにイエスは「そうではない、わたしは罪を犯す人の弱さをその思いを思いはかることができるのだ」ということを、われわれにわからせるために、イエスが、みずから、民衆のひとり、罪人のひとりの立場に立ってくださる、それが、われわれと同じ試練を受けるということであり、それがイエスがヨハネからバプテスマを受けられたということであります。

 そのようにしてわれわれと同じ罪人の立場にたってくださるイエスは、罪は犯されなかったが、われわれ罪人の弱さを思いやることができたのであります。「思いやる」ということは、いわば想像力をもつということであります。それは愛による想像力ということであります。その想像力をもって、イエスは罪人の弱さを思いやることができた。
 
母親は子供が病気になったとき、あるいは怪我をした時には子供が感じる痛さ、苦しみというものを自分のものとして感じることはできると思うのです。母親自身が怪我をしていなくても子供が怪我をすれば、その痛みは自分のものとして感じる。それは愛による想像力で、それを自分の痛みとして感じることはできると思うのです。愛があれば、ひとの痛みというのを想像することができると思います。

パウロが「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と言うとき、それは愛による想像力をもちなさいということであります。人を愛するということは、相手の立場に立って、その人の気持ちを推し量ってあげるということであります。そうでなくて、ただこちらの愛の押し売り、親切のおしつけでは、相手は迷惑するばかりで、それは愛ではないのであります。愛には想像力が必要であります。母親は子供に対する愛がありますから、自分自身、子供と同じ病気になっていなくても、子供の痛みは十分にわかってあげることができるのであります。
 
十二月の交読文として読みましたイザヤ書十一章のところに、これからあらわれるメシアのことが預言されておりました。「エッサイの根からひとつの若枝が生えて実を結ぶ」という預言であります。彼は「主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳のきくところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし」と、歌われているところであります。そこではこのメシアは「その目の見るとこによってさばきをなさず、その耳のきくところによって、定めをなさず」とありますが、それは自分の肉の目で見た表面的なこと、自分の肉の耳で聞いたうわつらっらのことで人を裁かないということだろうと思います。それではなんによって人を裁くのか。それは愛による想像力によって人をさばくということだろうと思います。その人の見た目ではなく、その人の心の内部まで奥深く入りこんで、その人がどうしてそのような罪を犯してしまったかを知ろうとする、ということだろうと思います。そのためには想像力が必要であります。
 
主婦どうしの心のあつれきから幼い子を殺してしまったという事件がありましたが、ある雑誌にその特集記事で、永六輔がこういうことを書いておりました。ある学校で子供たちが学校で子牛を飼育したいという希望がでて、実際に農家から牛を借りて育てるという計画が実施された。ところが小学校に来た子牛は食肉牛であった。大きくなったらその牛は食べられることになる。預けた農家にとってはあたり前のことだが、校長先生は頭を抱えたというのです。自分たちが育てた牛を食べることができるだろうかということで困ったというのです。そのことをとらえて、永六輔は、もし校長や学校に「食肉牛だと後で食べる運命にある」という想像力が事前にあれば、子供たちと相談してから決めることができたはずだという。そしていま、いろんな事件や事故の当事者たちが共通しているのは、想像力が足りなかったということだというのです。

ウラン溶液をバケツでくんだJCO の作業員はその後に起こることを考えなかったのだろうかというのです。そしてどうして想像力がなくなったのか。最大の要因は、テレビなど映像メディアのせいだ、見たらそれで終わり、想像力は必要ない。それに比べればラジオは想像力を必要とする。ラジオだけでなく、母親が子供に読み聞かせをしたり、本を読んで想像力をかき立てる訓練が足りない。言葉と文字が想像力を育て、こうしたら次はこうなるという先を読む力が養われてくる、今大事なことは想像力を育てることだとと言っているのであります。
 
確かにテレビができたから、想像力がなくなったということがあるかもしれませんが、それよりは愛がなくなったから、想像力が希薄になったということなのではないか。想像力がなくなると愛も希薄になるのか、愛がなくなると想像力がなくなるのか、どちらが先かということは言えないかもしれませんが、これはやはり密接な関係にあると思います。想像力がなくなると、見た目によって人をさばき、聞く耳によって人を決めつけてしまう、その人の心の奥深くまで入ってその人の心を知るという手間を省いてしまう、思いやりがなくなってしまうということから、愛がなくなってしまうのであります。

イエスは罪は犯さなかった。しかし罪人の弱さはよく思いやることはできました。それはイエスが愛による想像力を豊かに、そして深くもっておられたからであります。

イエスはヨハネからバプテスマを受けられました。そしてヨハネはこのイエスについて、自分は水でバプテスマを授けるが、わたしのあとに来るかた、わたしよりも力あるかたは、聖霊と火でバプテスマを授けるであろうとイエスのことを述べております。しかしイエスはバプテスマを受けられましたが、イエスご自身はバプテスマを授けてはいないのです。ヨハネによる福音書には、イエスはバプテスマを授けていたといううわさが起こり、ヨハネのバプテスマとイエスのバプテスマとのことで、弟子の間に争いが起こったことが記されておりますが、しかしそのヨハネ福音書では、途中ではっきりと、イエス自らはバプテスマを授けたことはなく、イエスの弟子達が授けていたのだと訂正しているのであります。
 
何故イエスはバプテスマを授けなかったのでしょうか。それはイエスは自分はバプテスマを授ける側にではなく、バプテスマを受ける立場に立とう、そのことに徹底しようと思われたからではないかと思います。もしイエスがバプテスマを授けていたら、これはきっと自分はイエスみずからのバプテスマを受けたのだと言って、弟子達の間で自慢し始めることになったのではないかと思います。そういえばパウロも自分はクリスポとガイオ以外には、バプテスマを授けたことはない、そしてそれを感謝している、と言っているのであります。イエスはバプテスマを授けれる立場には立とうとはせず、ただ受ける側に徹しようした。自分は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのだとイエスは言っているのであります。
 
 後にパウロが「イエス・キリストの死によるバプテスマを受けたわたしたちは」と、言っております。バプテスマのヨハネがイエスは「聖霊と火でバプテスマを授ける」と言ったのは、イエスの十字架の死によるバプテスマのことをはからずも預言していたということであります。