「聖書に耳を傾けないならば」  ルカ福音書一六章一四ー三一節

 主イエスはこういうたとえ話を致しました。ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところがラザロという貧乏人が全身できものでおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、その食卓から落ちてくるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のできものをなめた。この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。
そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。それで彼はアブラハムに言った。「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎のなかで苦しみもだえています」。するとアブラハムが言った。「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロのほうは悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵があって、こちらからあなたがたの方へわたることもできないし、そちらからこちらに越えてくることもできないのだ」というのであります。
 
お寺にいきますと、極楽と地獄のことがよく描かれた絵がかけられておりますが、聖書もこの地上を越えた神様のことを書いている書物ですから、聖書にはさぞかし天国や地獄のことがたくさん詳しく書いてあるのかと思う人がいるかもしれませんが、実際に聖書を読んでみますと、天国のことも地獄のこともほとんど書かれていないのです。

 主イエスが天国と地獄について語られた唯一の箇所が今日のところだとも言われております。確かにイエスは地獄について語っている箇所があります。それはわたしを信じる小さい者をつまずかせるな、と警告しているところで、小さい者をつまずかせることは最大の罪を犯すことになると警告して、こういいます「もしあなたの片手が罪を犯させるならば、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりはよい」と語り、そして「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない」と語っております。しかしこれはイエスの独自の地獄についての報告というよりは、当時人々が想像していた地獄についての考え、異教的な色彩の強い民間信仰をそのまま用いただけだと言われております。

 仏教でも同じでありますが、地獄について語る時には、地獄そのものを語るというよりは、つまり実際にそういう地獄が存在するということを語るというよりは、悪いことをしたらそういう恐ろしい地獄に落とされるぞという警告として語られるということであります。いわばそれは子どもを教育するための教育語、教育的な説話だといわれております。

わたしなども、小さい時からそういう仏教的な地獄を聞かされたり、聖書をよみだしてからも、そういう聖書の地獄についての箇所を読んで、悪いことをして死んだらそういう恐ろしい地獄にいくんだというイメージが強烈にたたき込まれて、いい子になろうとしたものであります。
しかしどんなにいい子になろうとしても、どうしてもいい子に成りきれない自分というものを見いだしてずいぶん苦しんだものであります。そんなことで、というのは、悪いことをしたら死んでから地獄に行くんだと脅されたからといって、人間の悪というもの、人間の罪の問題が根本的に解決できるわけでないことは、自分の経験からもよくわかることであります。

 地獄の教えからは、人間は決して自分の罪の問題を解決することはできないと思います。罪の問題はそうした地獄の脅威というものによってではなく、神の赦し、どんなことがあってもわたしはお前を見捨てないという神の愛の赦し以外に罪の問題は解決できないということは、身にしみてわかることです。

 しかしそれでもそうした地獄の観念というのは、われわれに人間を超えたものの目というもの、人間を超えた存在、あるいはこの地上を超えた世界、死後の世界があるということを教えるという点では大切な教えだったとは思います。

 それはともかくとして、主イエスが天国と地獄について語られた、ただひとつの箇所が今日のところだというのです。しかしそれにしては、ずいぶん乱暴な天国と地獄についての描写ではないかと思います。第一この天国には、神様がおられないで、アブラハムがいるだけであります。こんなところが天国ならば、果たして慰めになるだろうかと思われる天国であります。地獄についても、イエス独自の目新しい描写はなく、火炎のなかで苦しみもだえている、とだけ記されております。

しかもその地獄からは天国の様子が遙か遠くにではあるが、かいま見えるというのであります。二三節にあります。「黄泉にいて苦しみながら目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた」というのです。そしてそのアブラハムがいる天国と金持ちのいる黄泉、これは地獄といいかえてもいいと思いますが、その地獄との間には、越えることのできない淵があるというのであります。
 
これは明らかにイエスが天国について、あるいは地獄について、正確に語られたというよりは、当時似たような話がみんなの間に語られていて、それをイエスが利用して何かを言おうとしたのだと考えられます。ですから、この箇所を用いて聖書の、あるいはキリスト教の天国と地獄の教義をひきだすことはできないのです。

 イエスが語られたたとえ話で、ただ一つ名前がつけられている箇所が今日のたとえ話だそうです。「ラザロという貧乏人が」と、ラザロと名前が付けられている。ほかのたとえ話では、前に学んだところでは、「ある金持ちのところにひとりの家令がいて」というように、名前がつけられておりますせん。「この不正な家令の利口なやりかたをほめた」というように、個人の名前がつけられておりません。ザアカイという名前などは、これはイエスのたとえ話にでてくる名前ではなく、イエスの旅行中に実際にあった出来事の中の一人物であります。

 このラザロという名前もある意味ではありふれた名前であります。あのイエスによってよみがらされた人、マルタとマリアの兄弟も、ラザロであります。このラザロというのは、ヘブル語でいいますと、エレアザルという言葉でそれを短縮した形のギリシャ語なのだそうです。そしてエレアザルとは、「神が助ける」という意味だそうです。神が助ける、ある人がいうには、神が助けるということは、神の助けがなくては生きることができない人間、それがエレアザルという名前だというのです。のこ貧乏人はまさに神に助けていただく以外にどうしもない人間としてイエスが語ろうとしているのだということであります。
 
彼は貧乏だけど誠実な人間だったとか、貧乏だけど神さまを信じていたのだとも、そうしたことは何一つ語られていないのです。この地上では何一ついいことはなかった。だから死んでから、ただ神によって慰められる以外にどうしようもない人間、神に助けられる以外にどうしようもない人間、それがエレアザル、ラザロなのだということであります。

一方、金持ちのほうは名前がつけられていません。彼は毎日紫の衣を着て、細布の帯を締めて、ぜいたくに暮らしていた。紫の衣というのは、お祭りに着る着物だそうです。ですから毎日お祭りのようにぜいたくに暮らしていたというのです。玄関にはできものでおおわれていたラザロがいるにもかかわらずです。この金持ちはこのラザロに食物をめぐもうとはしませんでしたが、そうかといって追い出しもしなかったようであります。慈悲深くはありませんが、そうかといって特別冷たい人間でもなかったようです。ただ彼はこの地上での生活に満足していたことはあきらかです。従って、なにもことさら神に助けを求める必要がなかった人物であります。

 そして彼は死んでみて、はじめて死後の世界があることがわかって、彼はあわててしまった。人生なんていうのは、この世だけの事かと思っていたら、この世を越えた世界があった。そのことまで視野にいれて、この地上で生きていなかったのであります。この地上での生活に満足しきっていたのであります。その報いがいわば黄泉の世界での火炎の苦しみであります。それでアブラハムにラザロを遣わせてくれと頼んだ。
彼は相変わらず、この地上の人間関係がそのまま通用されると思ったのであります。それはアブラハムによって拒否された。すると彼はそれならば、せめてまだ地上にいる自分の兄弟にこのことを伝えたい、人生はこのよだけで終わるのではなく、この地上を超えた世界があることを知らせておきたい、だからラザロを自分の兄弟のところに派遣してくれと頼むのであります。

すると、アブラハムはこういいます。「彼らにはモーセと預言者がある。それに聞けば、われわれの人生はただこの世だけではなく、この世を超えた世界があることが分かるはずだ。だからこの世だけに満足するような生活から脱却できるはずだ」というのであります。
 それに対して彼はこういいます。「いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれたら、彼らは悔い改めるでしょう」。するとアブラハムは更にこういいます。「もし彼がモーセと預言者とに耳を傾けないならば、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞きいれはしないだろう。」

 このイエスのたとえ話は、実はこの最後の言葉を言いたいために作られた話であります。モーセと預言者とに耳を傾ける、今日でいえば、聖書であります、聖書にわれわれが耳を傾けることをしないならば、どんなに人を驚かすような奇跡とかしるしが起こっても、その時は神を信じたり、悔い改めたりするかもしれないが、そんな信仰はすぐ褪めてしまって、信仰はなくなってしまう、大事なことは、日常的にわれわれが聖書に耳を傾ける、聖書から聞くという謙遜な姿勢が大事なのだということなのであります。

 このイエスのたとえ話は、どういう状況のなかで語られているかといいますと、一四節からのところであります。「欲の深いパリサイの人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った」というところから始まっているのであります。欲の深いパリサイ人というのは、新共同訳聖書では、「金に執着するパリサイ派の人々」となっております。

パリサイ派の人々というのは、律法学者も含めて、ある意味では律法に忠実な人々で、祭司階級の人々に比べれば、真面目で宗教的で、貧しい人々が多かったと言われております。それなのにここでは、欲の深いパリサイ人、金に執着するパリサイ派の人々と言われているのであります。彼らは見た目にはいかにも真面目で、律法をよくよみ、清貧に甘んじるようでいて、実はその中身は欲の深い、金に執着する人々だったようであります。
 
イエスが律法学者パリサイ人は偽善者だといって非難するところがありますが、そこでは「やもめたちの家を食い尽くし」とありますから、結局は彼らは見た目には清貧に甘んじているようで、偽善者で、欲が深く、金に執着していたようなのであります。
 パリサイ人は、そのためにイエスが「あなたがかたは神と富とに兼ね仕えることはできない」と語られると、それを聞いて、あざわらったようなのであります。
 
 それでイエスはそのパリサイ人に対して、あなたがたはいかにも律法を重んじているようだか、あなたがたは本当はひとつも律法に聞こうしているのではなく、ただ律法を自分の正しさを見せびらかすために利用しているだけだというのであります。「あなたがたは人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである、つまりあなたがたの偽善を見抜いておられる」というのです。
 
そして更にこういいます。「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々はみなこれに突入している」といいます。これは理解するのに難解な箇所ですが、要するにこれまで律法、つまり旧約聖書が読まれてきたけれど、しかしそれは実際はないがしろに読まれてきてしまった。しかしイエス・キリストが来てから、聖書は新しい光のもとで伝えられ、人々は神の国に突入しているという意味にとっていいと思います。
 
それは決して今までの律法、聖書が破棄されるわけではないというのです。「律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方がもっとたやすい」といいます。その一例としてイエスは少し唐突ですが、「すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行う者であり、また、夫から出された女をめとる者も姦淫を行うものである」といい出すのは、当時の律法学者たちが聖書に書かれているということを盾にとって、聖書では夫は妻をだすことつまり、離婚がゆるされていると主張しているのですが、イエスに言わせれば、聖書本来の読み方からすれば、結婚というのは、神が合わせられたもので、人は離してはならない、というのが中心なのであって、ただ自分たちの都合で、特に男の横暴で妻を追い出すことはゆるされないのだ、あなたがたは聖書を律法をきちんと読んでいないから、ただ律法を表面的に読もうするから、聖書には離婚がゆるされると言い張るのだというのであります。

 要するに、律法学者、パリサイ人は聖書を読んでいるようで、本当に聖書に聞こうとしていないということであります。自分を正当化するために、自分の正しさを主張し、自分の都合のよいように聖書を読んでいるのだということであります。モーセと預言者に耳を傾けなさい、つまり聖書をもっと虚心に真剣に耳を傾けなさい、そのことを教えるために一九節からのたとえ話をイエスはするのであります。
 
つまり一九節から始まるたとえ話は、この地上で安楽に暮らしていた金持ちは死んでから地獄にいって火炎の中での苦しみに会い、この地上で貧しく苦しい生活をした者は死んでから天国にいくのだというようなことを教えるために話された話ではないのです。

 イエスがこのたとえ話をした相手は、欲の深いパリサイ人であります。たとえ話の中で言えば、ラザロに対してではなく、金持ちに対する語りかけであります。この地上の生活でひとつも真剣に聖書をよもうとしていない金持ち、そんな人が死んで黄泉の世界にいって、あわてて悔い改めようとしてももう手遅れだというのであります。どんに一度死んだ人間がよみがえって、地上にそのことを伝えに帰ってきても、人々はそんな言葉を信じないだろうし、たとえそのときは聞いたとしても、すぐ忘れてしまい、真に悔い改めには導かれないだろうということであります。
 
もし聖書に耳を傾け、聖書から聞こうとしているならば、死に対する備えもできる。どうしたら死んで地獄にいかないようにすることができるかということもわかる、悔い改めることもできるというのです。この金持ちはラザロを自分の兄弟に遣わしてくれとアブラハムに頼んでおります。死んだラザロ、今アブラハムのふところで安んじているラザロが兄弟のところにいってそのことを伝えたら、きっと兄弟たちは死んでから地獄の苦しみから逃れるために、少しは憐れみの心をもち、玄関に座っているラザロのような貧しい人に施しをするようになるかもしれない、そうしたら天国にいけるかもしれないと、この金持ちは思ったのであります。
 
しかし聖書に耳を傾けていれば、聖書にはそんなことは書いていないのです。聖書に本当に耳を傾けて読んでいれば、われわれが救われるのは、そんなような良いわざ、自分が死んでから天国にいくための慈善事業、善のわざの積み重ねても救われるわけではないということがわかる筈であります。われわれがどんな良いわざを積み重ねても天国にはいけないということが聖書には書かれているのであります。われわれのどんな良いわざの積み重ねによっても救われないということは聖書をよく読んでいればわかることであります。

ただ神のあわれみを信じる信仰によってのみ救われる、その神の恵みを信じることによってわれわれは天国にいくことができる。つまりわれわれもまたあのラザロという名前、エレアザル、神が助けまう、という名前を付けられる、神に助けられなければどうしようもない人間、それがラザロであります。自分もひとりのラザロとなる、そうしたらラザロと共に天国にいくことができるのであります。それが聖書が語っていることなのであります。
 
その聖書に耳を傾けないならば、どんな奇跡が起こっても、どんな臨死体験をした人の話を聞いてもわれわれは真に悔い改めることなぞはできないのであります。

 イエスは「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないならば、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞きいれはしないであろう」といわれます。しかし考えみれば、そう語ったイエス・キリストご自身があの十字架の死からよみがえって、つまり死人の中からよみがえって、弟子達に現れたのであります。そして悔い改めを彼らに迫ったのであります。しかしそのよみがえりの主イエスは復活を信じられないでいるエマオの村に向かう弟子達に対して「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ、キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」といって、彼らにモーセやすべての預言者からはじめて聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてあることどもを説きあかされた」と記されているのであります。

復活の主イエス・キリストご自身が聖書をよく読みなさいというのであります。 
 主イエス・キリストの復活ということも、聖書に耳を傾けること、聖書全体から聞くという姿勢がなくて、単なる臨死体験のような出来事、単なる奇跡として理解しても、われわれを悔い改めに導くことはない、救いに導く力にはならないということであります。