「罪の誘惑と赦し」 ルカ福音書一七章一ー四節

 主イエスは弟子達に「罪の誘惑が来ることは避けられない。しかしそれをきたらせる者は、わざわいである。これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである」といわれました。ここでは「罪の誘惑」と訳されておりますが、新共同訳聖書では「つまずき」となっていて、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」となっております。
なぜ口語訳聖書がここを「罪の誘惑」と訳したのか、もとの言葉をみましても、「つまずき」という言葉が使われているのに、そして文語訳聖書でも、つまずきとなっているのに、「罪の誘惑」と訳したのかわかりません。これはマタイによる福音書の一八章にあるイエスの言葉「わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて、海の深みに沈められる方が、その人の益になる。」というところと同じであります。そこでは口語訳聖書も「つまずき」と訳されているのであります。もっともその後、やはり「罪の誘惑があるのは避けられない」と続いております。どうも内容から考えてそう訳したようであります。

 それはともかく、ここでは「小さい者をつまずかせるのは、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方がましである」といわれるのですから、小さい者をつまずかせるということは、われわれの犯すの罪の中でも一番大きな罪だといわれているようであります。マタイによる福音書では、「わたしを信じるこれらの小さい者」となっております。ルカは「わたしを信じる」という言葉はなく、ただ「これらの小さい者のひとり」となっております。

「小さい者」といっても、聖書全体からみると、幼子だけではなく、弱い者、権力のない者、時にはイエスの弟子も入っております。マルコでは「だれでもキリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくがその報いからもれることはないであろう」といって、その後続いて「また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて」とつづきますので、この「わたしたを信じるこれらの小さい者」の中には、イエスの弟子たちも含まれているのであります。

 小さい者をつまずかせるということはどういうことでしょうか。それはマタイやマルコでは「わたしを信じるこれらの小さい者」とありますから、その人をつまずかせるということは、イエスを信じさせなくさせる、「イエスなんて信じたって意味がないよ、神様なんて信じたってつまらないよ」といって、信仰的なつまずきを与えるということであります。つまり信仰者を神から切り離すこと、それが人をつまずかせることであり、それが「罪の誘惑」ということなのであります。

 これは自分が神を信じないということではないのです、神を信じている人間に、そんな信仰なんて意味ないよ、といってつまずかせることなのであります。あるいは、ルカによる福音書には、「わたしを信じる」という言葉なくて、もっと広い意味で「これらの小さい者のひとり」となっておりますから、ただ神を信頼することから切り離すというだけでなく、人を人間不信に陥らせるということも含んでいるかもしれません。

人をつまずかせるには、ある意味では、たいしたエネルギーはいらないのです。走ってくる子どもにひょいと足を突き出すだけで、相手はつまずいてしまうものであります。そしてつまずいたほうは決定的なダメージを受ける。ですから、人をつまずかせるには、つまずかせるほうからいうと、たいして力はいらない、大変無責任なのです。こちら側にはほとんど罪の意識も自覚もないかもしれない。面白がって人をつまずせるわけです。それだけに罪は重いとイエスはいうのです。
 
特に小さい者は、今必死になって神に頼って、神を信じて生きようとしている、そういう者に対して、神不信に陥らせ、人間不信に陥らせるということは、罪なことであります。
 
この頃の人は、あまり神仏を信じていないというところがありますから、神不信に陥らせることは罪が重いといわれてもぴんとこないかもしれませんが、しかしそれならば、人を人間不信に陥らせるということは、一番罪が重いといわれてみればよく分かることではないかと思います。人を人間不信に陥ちいれさせる、こんなに大きな罪はないと思います。小さい子どもを人間不信に陥らせる、それがどんなにゆがんだ人間をつくりだすかということはすぐわかることであります。
 
 そのようにして人をつまずかせる者は、「ひきうすに首をかけられて海に投げ込まれるほうが、ましである」といわれているのであります。これはそういう罪を犯した者は、こういう罰を受けるというのではないのです。そのようにいと小さい者をつまずかせる者は、そういう罪を犯さないために、「ひきうすを首にかけられて海に沈められたほうがいい」というのです。つまり、そんな人間は存在しないほうがいい、ということなのです。それはある意味ではどんな罰を受けるよりももっと厳しいいいかたであります。

これはイエスがイエスを裏切るイスカリオテのユダについて言われた言葉を思い起こせさせます。最後の晩餐の席でイエスはユダに対してこういうのです。「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去っていく。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」というのであります。ユダはイエスから「もうお前なんかはじめから存在しなかったほうがよかったのだ」といわれてしまうということであります。これはどんな罰よりも厳しい言葉ではないでしょうか。
 
 一生懸命神を信じ、あるいは人を信じていこうとしている人間に、神不信、人間不信に陥らせる、こちらはたいしたエネルギーもつかわずに、ただちょっとした言葉で人間不信にさせる、神を信用させなくさせる、これはどんな罪よりも大きな罪であります。聖書の考えでは、人間とは神によって造られ、そして神を信じて、神に信頼して生きる時に、はじめて人間になるということだからであります。
 
幼児教育で一番大事なことは、親自身が自分は神を信じて生きている、神を信じないと一日たりとも生きることができないのだということを身をもって子どもに示しながら子どもと生活するということではないかと思います。それは人間に対してもそうであって、子どもに人間不信に陥らせないという教育は大切だと思います。

最近は幼児や子どもに対する犯罪が起こると、すぐ過剰反応を起こして、人を見たら泥棒と思え式の教育をするようになる、ただ一つの学校でそういうことが起こると、すべての学校が校庭開放をしなくなるという過剰反応を起こしてしまう。そんなふうに小さい時から人間不信を子どもに植え付けさせるほうが、大きくなって人を犯罪にかりたてることにならないか。そういう社会はかえって犯罪を生む社会を作りだすだけなのではないかと思うのです。
 
人というものをわれわれはもっと信じていいと思います。人間不信が起こるのは、やはりどこかに神不信があるから、人間も信じられなくなっているのではないか。神を信じていれば、われわれはもっともっと人間も信じていけるようになるのではないか。だまされてもいいから、人の善意を信じる、そういう人のほうが人間として好ましいのではないか。絶対にだまされない人よりは、始終だまされてしまう人のほうが人間として立派ではないでしょうか。愚かといわれるかもしれませんが、しかし少なくも意地悪い人間とはいわれないのではないかと思います。
 
 そして主イエスは三節で、「あなたがたは自分で注意しなさい」といいます。この言葉が二節と結んでの言葉なのか、その後に続く、言葉なのか、どちらにもとれますが、やはり二節に続けたほうがいいように思えます。つまり「人をつまずかせない」というようなことは、少し自分自身で気をつけていれば、避けることができることだからであります。ちょっとした言葉づかい、少しの配慮で、人をつまずかせないですますことはできるからであります。
 
 そして主イエスは続いてこういわれます。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい」といいます。人がつまずくということは、神不信に、人間不信に陥ることであります。もう神も仏もあるものか、もう誰も信じることができない、となっていくことが、つまずくということであります。それがわれわれ人間の罪の発端なのです。神不信、人間不信から罪が始まるのであります。

それならば、そうではない、神はあなたを決して見捨てない、人は決してあなたを見放しはしない、あなたを見捨てない神がおられる、あなたを見捨てない人はこの世にいるではないか、そのことを示すことが、つまずいた人間を救うことになります。そして神がおられる、神は決してあなたを見捨てない、見捨てていないということを示す最大の証は、神はあなたの罪をゆるしてくださる、ゆるしておられるということを示すことであります。そしてその神の赦しを受けて、身近にいる人が罪を犯した人の罪を赦すということであります。それが人をつまずきから救うことであります。
 
 罪を犯した人間をすぐ罰する、裁くのではなく、まずいさめる、そして悔い改めたら、ゆるしてあげなさいというのであります。神はあなたの罪をゆるしてくださる、そう教えることが、人を神不信から解き放って、神に対する信頼を回復する唯一の道であります。あるいは、それがまた人間不信から人を人間信頼へと回復させる道であります。

ここでは主イエスは「悔い改めたら、ゆるしてあげなさい」といいます。ルカによる福音書は、特に悔い改めということを強調いたします。すでに学んだところで一五章でも「罪人がひとりでも悔い改めたら、天においてどんなに大きな喜びがあるか」といわれているのであります。

ここでは一見、赦しの条件として、罪を犯したほうに悔い改めということがあるように言われております。そうしますと、赦しというのは、無条件の赦しではないのかということになります。赦されるためには、悔い改めるということが条件になっているのかということになります。
 しかしここでいわれている「悔い改め」とはどういう悔い改めでしょうか。主イエスはおどろくべきことをいいます。一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』といって、あなたのところに帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」といいます。一日のうちに七度罪を犯し、そして七度悔い改めます、と謝りにくる悔い改めというのは、果たして真の悔い改めといえるでしょうか。

一日の内なのです。一年の内とか、一ヶ月のうちに七度罪を犯し、そして七度悔い改めるということなら、まだわかります。しかし一日のうちに、というのです。その悔い改めとは、それこそ、罪を犯し、そして悔い改め、その舌のかわきもないうちに、再び罪を犯し、そしてはまた悔い改めるということなのです。それが一日のうちに七度続くということですから、これは到底真の心からの悔い改めとはいえないのではないでしょうか。
 
それでも、そういう口先の悔い改めでもいいから、悔い改めたら、赦しなさい、と、主イエスは言われるのです。ですから、この悔い改めは赦しの条件だなどとは到底言えないと思います。むしろ、ここでは圧倒的に赦しのほうが先行している、圧倒している、だからまたわれわれは悔い改めることができるということなのではないかと思います。
 
あのルカ一五章で語られております、放蕩息子の悔い改めも、食べるものがなくて、食べるのに困って、父親のところに帰ったら少なくも食料にありつけるということで、父親のほうに方向転換して帰ろうとする、そういう悔い改めなのです。それは到底心の底からの悔い改めとはいえないのです。しかしそれでも父親はそれをじっと忍耐強く待ち続けていたということであります。
 
そしてそういう息子を見つけると父親のほから先に走り寄って彼を受け入れるわけです。赦しのほうが圧倒的に先行しているのです。それでもルカによる福音書は、われわれ人間側に悔い改めるということを要請しているのであります。どんな中途半端な悔い改めでもいいから、それこそ、一日のうち七度罪を犯して、そして七度悔い改めるような、虫のいい悔い改めでもいいから、顔を神様のほうにむけなさいということであります。
 
考えてみれば、われわれの悔い改めというのはどういう悔い改め出しょうか。一度徹底的に悔い改め、そして洗礼を受けて、クリスチャンになったわれわれもまた考えてみれば、そのあと、なんどでも罪を犯して、そしていやになるくらい悔い改めて神に赦しをこうという悔い改めではないでしょうか。しかしそういうわれわれの悔い改めを、神は、イエス・キリストは忍耐強く受け入れてくださっているというのが本当のことなのではないか。自分でも恥ずかしくなるほどのいいかげな悔い改めの繰り返しが、またわれわれの悔い改めなのではないでしょうか。
 
 一日に七度罪を犯し、そして七度悔い改める、罪を犯し、悔い改め、その舌のかわかないうちに、また罪を犯してしまう、そういう悔い改めをわれわれ人間は到底受け入れることはできないだろうと思うのです。しかし主イエスはそういう悔い改めを受け入れなさい、そして赦しなさいというのです。それは主イエスがわれわれ人間に対しては、そうしているからです。神はいつでもわれわれ人間の罪に対し、悔い改めに対してそうなさっているということなのであります。その神の赦しの大きさにふれたら、われわれもまた少しは人の罪をゆるし、人のいいかげな悔い改めもまた受け入れることができるようになるのではないかと思います。
 
 しかしそれならば、主イエスは、小さい者をつまずかせる者は、ひきうすを首にかけられて海に投げ込まれるほうがましだ、もうそんな奴ははじめから存在していないほうがましだと激しくいわれるのは、どういうことなのでしょうか。
 
これはマタイによる福音書にある記事で、ペテロが「人が罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか、七度目までですか」と問うたのに対して、イエスは「七度目とはいわない、七たびを七十倍するまでゆるしなさい」といったあと、その結論のところで、一万タラントの借金をゆるされた人間が自分が貸した百デナリをゆるすことができないで獄に入れてしまった人に対して、激しく怒り、彼を獄に入れてしまったという話をするのであります。

そしてこう結ぶのです。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになされるであろう」いうのであります。つまり、はじめは徹底的に人の罪をゆるしなさい、といわれている、もう無条件に赦しなさいといっておきながら、しかしただひとつゆるされない罪がある。それは罪赦された人間が他の人の罪をゆるせない時だ、その罪に対しては神もまたその人の罪をゆるすことはできない、前の言葉を撤回しているのであります。それとここは似ていると思います。
 
神はわれわれの罪をゆるしてくださるのです。徹底的になんどでも赦してくださるのです。しかしその神の赦しをまともに受け入れることのできないもの、ゆるしというものをただもうけものをしたとしか、その神のゆるしを御利益的にしか受け止められない人間、つまり神のゆるしを軽んじたり、無視する人間だけはゆるすことができないということであります。
 
小さい者をつまずかせることを主イエスがゆるすことができないのは、小さい者に神の赦しを信じさせなくさせてしまうからであります。それは神の赦しを軽んじ、無視することになるのからであります。
 
小さい者をつまずかせるということは、神不信、人間不信に陥らせるということであります。そして神を信じるというこは、われわれ人間にとっては、神の赦しを信じることだということであります。それは人間を信じられるということも同じだと思います。
 
われわれが人間を信じられようになるということは、その人が自分のあやまちをゆるしくれるということが信じられるようになるということではないかと思います。そういう関係が夫婦関係であり、親子関係なのではないでしょうか。
 われわれ自身が人に対してそのよに人の過ちに対してゆるすことのできる人間になれと主イエスはいわれるのであります。