「信仰を増してください」 ルカ福音書一七章五ー一○節

 五節をみますと、「使徒たちは主に『わたしたちの信仰を増してください』といった」と記されております。ここでいきなり、「使徒たち」とありますが、これはもちろん弟子達のことで、主イエスが死んで復活し、天に昇られて、教会ができてから、イエスの弟子達が使徒と呼ばれるようになったわけで、この時点ではまだ弟子と呼ばれていた筈であります。
 
それはともかく、弟子達は「自分たちの信仰を増してください」と主イエスにお願いしたというのです。この「信仰を増してください」というお願いがどういう状況でのお願いなのか。ある人は、これはその前のところの四節までのところを受けて、イエスが「一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』といってあなたのところに帰ってくれば、ゆるしてあげなさい」という言葉を聞いて、自分たちには到底そんなふうに人の罪を徹底的に赦すことはできないと思って、そのためには「信仰」を増す必要があると思ってイエスに願いでたのだといいます。
 
しかしここは、特に七節からのイエスのたとえ話からすると、ここは弟子達の信仰を増してくださいという要求を批判した言葉のようにうけとれますので、前の箇所とは切り離して、別の状況での話と考えたほうがいいのではないかと思います。

つまり、この弟子達の「信仰を増してください」という要求は、彼らが自分達の信仰のなさに嘆いて、これではだめだ、もっともっと信仰がほしいと切実に求めたという、そういう謙虚な思いから出た願いではなく、自分達は信仰をすでにもつている、しかしその自分達の持っている信仰の上に、さらに信仰を増やして堅固な信仰にしたい、そうしてあるいは、天国で上座につきたい、そういう願いがこめられた「信仰を増してください」という願いなのではないかと思うのです。
 
それに対して主イエスは、信仰というものは、信仰をふやしていって、なにか上座につくとか、自分達が主人の座につくとかというものではなく、徹底的に「しもべ」になることなのだ、答えているのであります。

 六節の「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」という言葉は他の福音書にもあります。それはマタイによる福音書では、イエスと数人の弟子が高い山に登ってイエスが真っ白い衣に包まれたというイエスの生涯の中で唯一の栄光に輝いたという体験をしている、いわゆる「山上の変貌」といわれている体験をしている一方で、その山の下で、山につれていってもらえなかった弟子達のところにてんかんで苦しんでいる者がつれられてくるのです。

その子を弟子達はいやすことができなかった。それで弟子達は人々から非難されるのであります。そしてイエスが山からくだってきて、その病人をいやしてあげたのであります。そのあと、その病人をいやせないで、人々から冷笑された弟子達がイエスのところにきて「わたしたちはどうして霊を追い出せなかったのですか」といいますと、イエスがこう答えられたというのです。「あなたがたの信仰が足りないからである。もし、からし種の一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」というのです。
 
そこでは、ルカによる福音書にあるイエスの例話はありません。この時の弟子達の「わたしたちは、どうして霊をおいだせなかったのですか」という問いは、今日のテキストであります「わたしたちの信仰を増してください」という願いとは違うものであります。自分たちには信仰がない、だから苦しんでいる人を救えなかったという痛切な痛みがあったと思います。それに対してイエスは、「あなたがたの信仰が足りないからだ」と答え、信仰というのは、どんな小さな信仰でもいい、からし種一粒の信仰でもいいのだ、ただ神様に信頼しようという小さな信仰があればいいのだ、自分で何か信仰を持とうとするな、と答えられたのではないかと思います。

 それに対して、このルカによる福音書の今日のところ、「わたしたちの信仰を増してください」という願いは、自分達には信仰が足りないなどという自覚はひとつもない、むしろ自分たちには信仰があると思っている、その上にさらに信仰を増し加えたいという願いがあったのです。だから主イエスは、信仰というのは、そうした量の問題ではない、質の問題だ、自分の力とか、自分の信念の強さとか、そういう「自分の」「自分の」という、自分の何かではない、神を信じ切るかどうかという問題だと答えられた。
 
われわれのもっている信仰は、あの目に見えるか見えないかくらいの「からし種」一粒の信仰さえあればいいのだと、主イエスは言われたのであります。
 
そしてそのあと、こういうたとえ話をするのであります。「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰ってきた時、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』というだろうか。かえって『夕食の用意をしてくれ、そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いするがよい』と言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつなか僕です。すべきことをしたに過ぎません』と言いなさい」という話をするのであります。この例話はルカによる福音書にだけにある話であります。
 
当時この社会では、こうした僕、奴隷といってもいいかもしれませんが、こうした僕はたくさんいたわけで、みんなそういう僕をやとっていたのかもしれませんし、また見ていたのです。ですから、だれでもよくわかる話であります。この僕は奴隷であります。一日に一デナリの約束で雇われた労働者ではないのです。その場合には一日のうちに十時間働いたら一デナリとかはじめに契約が行われるわけです。しかし奴隷というのは、いわば四六時中、主人に仕えなくてはならない、そして主人の命令にすべて従わなくてはならない、そのように雇われているのが奴隷であります。
 
主人の理不尽な要求、疲れて畑から帰ってきても、すぐ休めるわけではなく、主人の夕食に仕えなくてはならない、そしてそうしたからといって、ほめてもらえるわけでもない、主人から感謝されるわけでもない、というのです。それが僕、奴隷の任務だというのです。
 信仰というのは、そのようにして主人である神に、あるいは、イエス・キリストに徹底的に仕えることなのだ、われわれは僕になることなのだ、奴隷になりきることなのだと、主イエスはいうのであります。
 
信仰を増して自分たちがなにか立派になるとか、立派な人格者になるとか、立派な地位につくとか、そんなことではないのだということであります。

イエスはこのことを弟子達にいう時に、巧みな話し方をしております。はじめは弟子達を主人の側に立たせているのです。「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする」という話からはじめているのであります。そして最後に一転して、弟子達を僕の立場に立たせているのであります。
 
はじめから弟子達に僕の立場に立たせてこの話を進めていったら、おそらく弟子達はイエスの話に納得しなかったろうと思います。「自分達の信仰を増してください」という思い上がった弟子達に対して、イエスは弟子達をまず主人の立場に立たせて話しを進めているのであります。そうして有無をいわせず、彼らをしもべの立場に立たせるのであります。

われわれは信仰的に深まれば、もっと美しいものだ、もっと崇高な清らかな精神をもって神に仕える、神に従うものだと想像していると思います。ですから、ここをわれわれが読んだときに、信仰というものがもしそうした理不尽な主人に仕えることなのだといわれて、反発を感じたり、そんな信仰ならいやだと思うのではないかと思います。主イエスもそのことは十分見越してこの話をしておられるのだと思います。だからこそ、弟子達に、「あなたがたのうち、耕作か牧畜かをする僕があるとする」と、まず弟子達を主人の立場に立たせてから、主人の側から見た僕の姿勢を示すのであります。
 
もし信仰というものがそのように理不尽な主人に仕えることだ、どんなに一生懸命主人に仕えたとしても、主人からはなんの感謝もされない、ほめられることもない、しかも命じられたことをみなしてしまってからも、「わたしはふつつかなしもべです。すべき事をしたに過ぎません」としか言えないのだと言われて、反発を感じない人はいないだろうと思います。特に現代人のわれわれにとっては、そうした奴隷状態というのは、人権に関わることなので、そんな立場を強いられることに反発を感じるのは当然だろうと思います。しかしこれは現代人だけの話ではなく、主イエスの生きていた時代も、それは同じであります。
 
ですから、われわれはこの話を読んで、一度イエスの話につまずくことはむしろ大切だと思います。この話を聞いてそのまま、そうです、と言う人のほうがむしろ問題だと思います。なぜなら、イエスはここで弟子達に対しても、われわれに対しても反発を挑発しているからであります。一度われわれを挑発させて、そうした上で、考えさせ、立ち止まらせ、そうだわれわれが神に従っていく、神を信頼して従っていくということは、本質的には、この通りなのだと、改めて受け止めさせようとしているのではないいかと思います。

 特に信仰というものをただ美しいもの、自分の魂を高揚させるもの、だからもっともっと信仰を増やして、自分の魂の、自分の精神の糧にしたいと考えている人にとっては、いやそういう思いをひそかにいだいているわれわれにとっては、このイエスの話は大事だと思います。
 
信仰というものはそんなものではない、ある時には理不尽と思われることが自分の人生のなかで起こる、それでも「わたしはふつつかなしもべです」といい、「あなたのなさることに文句はいいません」といい、そして自分に課せられた仕事、自分が負わなくてはならない十字架を負っても「わたしはすべきことをしたに過ぎません」と言えるようにならないと、信仰とは言えないのだと主イエスは語るのであります。
 
 それは主イエスご自身が父なる神に対してそのようにして、従ったからであります。あの十字架の死をイエスはそのようにして受け止めていかれたのであります。ゲッセマネの園で主イエスは必死になって、「できることなら、この杯を取り去ってください。しかしわたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と祈りつつ、あの死を受け止めて死んでいかれたのであります。

 信仰というのは、服従ということなのであります。ここでは「信仰を増してください」といういささかな傲慢になろうとしている弟子達に対して、信仰はからし種一粒の信仰でいいのだ、小さくていいのだと教え、そして信仰で大事なのは、「わたしはふつつかなしもべです。すべきことをしたに過ぎません」と、あくまで謙遜でなければならないと主イエスは教えられたのであります。
 
ここでは信仰的に生きるには、なによりも謙遜でなければいけないことを教えております。しかし聖書では、謙遜になるためには、自分の心を鍛錬して、自分で自分の頭を垂れさせるという修業を積み重ねて謙遜になることではなく、謙遜になるためには、われわれが誰かに服従する、だれかに仕えるということをしないと謙遜になれないのだというのであります。
 
パウロはその服従ということを従順と言う言葉で言っております。パウロは思いあがって、教会のなかで争いばかりしているピリピの教会の人々に対して、「何事も党派心や虚栄からするのでなはく、へりくだった心をもって互いに人を自分よりもすぐれた者としなさい。おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」と勧めて、キリストの謙遜のことを述べます。その後、パウロはこう語ります。
「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順であられた」と、キリストがどんなに身を低くされたかと謙遜について、述べるのですが、そのキリストの謙遜についてのべていくうちに、いつのまにか、キリストの父なる神に対する従順について述べる、十字架の死に至るまでキリストは従順であられたと述べるのであります。
 
そしてそのあと、パウロはピリピの教会の人々に対して「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」と、いつのまにか、従順について述べて、もうここでは謙遜とい言葉はひとつも使わないのです。
 
われわれが謙遜になるためには、誰かに仕える、誰かに服従する、従順になる、そのことだけがわれわれが謙遜になる道なのだということであります。

 信仰とは服従なのです。だから信仰者になるということは、われわれが何よりも神に対して僕になることなのだと聖書はいうのです。

 しかし、主イエスはこうもいっておられます。ヨハネによる福音書の一五章で「わたしのいましめはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもうあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」と言われるのであります。
 
そこでは、われわれとイエス・キリストとの関係は、もはや主人としもべとの関係ではない、友という関係、兄弟という関係なのだというのであります。
 
 そしてわれわれの仕える主人であるイエス・キリストは、このたとえで主イエスが語られるような横暴な理不尽な冷たい主人ではなく、主キリストご自身がこの世に来た目的を「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」といわれるのでりあます。
 
主イエス・キリストご自身がわれわれの僕となって、われわれに仕えてくださった。もちろんそれは見た目には、われわれ人間に対してわれわれがイメージするような奴隷の姿、ただ主人に惨めに仕えるという奴隷の姿はとらなかったでしょう。しかしもつとも本質的な意味で主イエス・キリストはわれわれに仕えるために、しもべの姿をとり、最後には十字架でご自分の命を捧げてくださったのであります。
 
そのことを思えばいっそう、われわれはこの主人であるイエス・キリストに従順に仕える僕としての信仰者の生涯を送りたいとおもうのであります。