「神の国はいつ来るのか」  ルカ福音書一七章二○ー三七節

 パリサイ人がきてイエスに尋ねました。「神の国はいつ来るのか」と。神の国とはこの場合では、終末のことをさしております。終末、この世の終わりはいつくるのかと尋ねたのであります。聖書の思想は、神がこの天地をお造りになったのだから、神はこの天地を終わりにする時が来る、という思想であります。初めがあるのだから、終わりもあるという思想であります。神がこの天地を終わらせる時がくる、その時に神が神としてすべての人にあがめられる、そういう時がくるという思想であります。終わらせるのですから、当然この世の破壊が起こるわけです。自分が今まで後生大事にしていたもの、そうした人間的なもの一切が裁かれる時であります。当然その日は恐怖に感じられるわけであります。

 それで人々はその終わりの日はいつくるのかと知りたかったわけであります。ここではパリサイ人が尋ねておりますが、マタイによる福音書やマルコによる福音書では、イエスの弟子達がひそかにイエスに「その日はいつくるのですか」と尋ねております。ひそかに尋ねた。この時もパリサイ人はひそかにイエスに尋ねたのではないでしょうか。

この世の終わりのことについて、大きな声で聞いたり、話をすると人々に恐怖心を与える、混乱を与えるから、あまり大きな声ではきけなかったということもあるかもしれませんが、しかし「ひそかに」尋ねたというのには、やはりこのことは秘密しておきたい、自分達だけが知っておきたい、自分達だけの秘密にしておきたいという動機があったのではないかと思われます。
 
 「終末はいつくるのか」という問いと共に、それを問う人の関心事は、その前兆はなにか、それが起こる前にどんな徴があるかということでした。
 
ちょうど大地震がいつ起こるのかという問いには、かならずその前兆を知ることができるかという問いが伴うのに似ています。大地震が来るということは、もう人間の力ではいかんともしがたいわけで、これはもうあきらめしかない。しかし、その前兆をあらかじめ知って、その大地震に備えたいという思いが働くのであります。そしてそのことを「ひそかに」尋ねたということの背景には、自分達だけがいち早くそのことを知って、それに備えたい、つまり、大地震の前に逃げ出しておきたい、なんとか自分達だけは助かりたいという大変卑怯な、自己中心的な思いが働いていたのではないかと思います。

ですから、それに対するイエスの答えは、前兆というものは、いつの時代にもある、しかしそれは決定的なものではない、終末は突然やった来るもので、明確な前兆なぞはないということであります。

ここでは、パリサイ人は「神の国はいつくるのか」と尋ねたのに対して、イエスはこう答えました。「神の国は見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は実に、あなたがたのただ中にあるのだ」と答えました。パリサイ人は、神の国というのは、神の国運動というような形で、なにか信仰者が理想的な集団を作って共同生活をしてそれが大きな運動になって神の国というのが広がっていくのだと期待していたのかもしれません。

それでイエスは、それはそのような人間の美しい村運動とかそんな形でくるものではない、それは「ここにある」とか、「あそこにある」とか見られる形で起こるのではないと言われたのであります。そう言われて、「神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ」といわれました。この句をめぐってはいろいろな解釈がありますが、ひところは、これは人間の心の内面にあるのだと解釈されたこともあったようであります。神の国はあなたがたの心の中にあるというように解釈されたのであります。

しかしそうしますと、これを語る相手はパリサイ人ですから、神の国はパリサイ人の心の中にあるということになっておかしなことになります。そうでなくても、神の国は人間の心の内面にある、それは結局は人間の心の持ちようにかかっているということなりますと、神の国というのは大変人間臭いものになってしまいます。
 
最近の聖書学者の説明では、これはそういう人間の内面性の中に神の国は存在するとか始まるとかという意味ではなくて、イエス・キリストがこの地上に来たことによってすでにあなたがたの中に始まっているのだという意味だということであります。
 神の国はもうすでにあなたがたのところに来ているのだ、どうしてそれがわからないのかと、イエスはここでパリサイ人を叱っているのだということであります。ルカによる福音書では、主イエスが「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがのところに来たのである」という言葉があります。

 そしてその後、イエスは今度はイエスのほうから弟子達に終末について語るのであります。「あなたがたは人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るだろう。なぜなら、人の子はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられるねばならないからだ」と語るのであります。ここで言われている「人の子」というのは、まずはメシアのことを意味しております。そしてこの場合は主イエス・キリストご自身のことであります。
 
 イエスはパリサイ人に対しては、神の国は実にあなたがたのただ中にある、それは神の子であるわたしがあなたがたの中に、この地上に来たことによって始まっているといいましたけれで、その神の子、ここでは人の子といわれておりますが、その人の子はいちど苦難を受け、人々に捨てられ、つまり十字架で死んで、それから再びこの世の終わりの時に来るのだということであります。

 神が遣わされるメシア、人の子、つまり神の子が十字架で殺される、その神の子の死を通らない神の国などは実現しないということであります。つまり神の国というのは、なにか人間の善意とか神の国運動とか、そうした人間的な理想主義的な努力によって実現されるものでなはいということであります。ひところはやって神の国運動というような、ある意味では楽天的な運動によってはこないのだということであります。
 神の子が十字架で殺されるという出来事、人間の罪があらわにされ、神の子が十字架で殺されるという出来事を通して、神の国は来るというのであります。

 メシアである人の子は「まず苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられ」るのである、従ってそれ以外のメシアと自称する者があらわれてもまどわされるなというのであります。人々が「見よ、あそこにメシアが現れた、ここにメシアが現れた」と言っても、ごまかされるな」というのであります。メシアは十字架で殺される以外のメシアはいないからだというのであります。
 その十字架で殺されたメシア、そして神が三日後によみがえらせたメシアが終末の時に再びくるのだというのであります。そしてその日はちょうど稲妻が突然天の端から端へとひらめき渡るように、人の子も突然現れる。だから終末はいつくるかなどと、その前兆を知ろうとしても無駄だというのであります。

ノアの大洪水の時のように、ソドムが天から火と硫黄とが降ってきて破滅した時のように、人々がこの世の終わりなどはきはしない、神はわれわれを裁く筈はない、裁くとしてもそれはずっとずっと先の話だとのんきに、食い、飲み、買い、売り、植え、建てたりしていた時に、人の子は突然現れてこの世を裁くのだというのであります。だからその事が起こる前に何か前兆はないかなどと、知ろとしても無駄というのです。

その終末の裁き、この時に神がくだされる裁きはこういう裁きだというのであります。「あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つの寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう」。そういう裁きだというのです。
 
ここにはわれわれが予想したり、期待するような人間的な価値判断、意味づけはすべて無視されていく。良い人は救われ、悪い人だけが裁かれるというような価値判断はいっさい無視される。それはわれわれがこの世で大震災やそうした災害に遭う時と同じようなことが起こる。そうした災害では、誰が生き残るかなどということは、誰にもわからない。あとからどんなに意味づけたって、それは無意味であります。まるで偶然のようなものであります。

 主イエスが終末の裁きについて語る時は、そのように語る。ひとりは残され、ひとりは連れ去られる、その間に一切の価値判断はない、少なくも人間的な価値判断はないというのであります。これが神の裁きであります。そうでなければ、神の裁きとはいえないのです。もしわれわれが予想したり、期待するようにな裁き、われわれがこの地上でどれだけ誠実に生きたか、どれたげ信仰に精進したかとか、そうしたわれわれの側の価値基準といものによって、ひとりは取り去れる、ひとりは残されるということであるならば、それが神の裁きであるならば、その神の裁きははなはだ人間臭い裁きにならないでしょうか。
 
ここではそうした人間側の価値判断をまるでブルドーザーでなぎ倒すようにして、神の裁きが行われるのであります。それが終末の裁きだというのであります。実にすがすがしい裁きであります。
 
 われわれがこの世に生きている時には、まるで偶然のような出来事がいくらでもあります。まるで偶然のようにしてある人は九十歳まで幸福に生き、まるで偶然のようにして、ある人は小さい時から病苦に苦しめられて、若くして死んでいく人もいる。その時、われわれはそこにどんな意味づけをしようとしてもできるものではないことを知るのであります。
 
われわれはそうした不条理な出来事が起こる時に、人間の浅はかな小賢しい意味づけは断念せざるを得ない、そうして神のなさるわざにひれ伏す以外にないのではないか。われわれが神が生きて働いているということを信じるのは、むしろこうしたわれわれ人間の目には不条理としか思えないことが起こることを通して、ああ、神は人間を超えて働いておられるということを感じ取り、その神の前にひれ伏さなくてはならないのではないか。
 
 ヨブがそうだった。ヨブは一切の自分の財産が奪われ、子どもたちが災害が死に、そればかりが自分のからだそのものも病に襲われた時に、神に喰ってかかりました。自分は今まで、あなたを信じてきた、正しい信仰生活を歩んできた、それなのになぜ自分にこんな苦難がくるのか、と神に喰ってかかるのであります。

それに対して神は何も答えない。神はヨブに対して沈黙を守るのであります。そして最後に神が登場した時には、嵐の中からヨブに現れ、「無知の言葉をもって神のはかりごとを暗くするお前はなにものか」と言ってしかりとばすのであります。神はなぜヨブが、正しいヨブが、このような災難に会うのか、その理由は一切述べないのです。ただお前は神か、この天地を造った神か、とヨブをしかるのであります。
 
その神にお会いしてヨブは「わたしは知りました。あなたはすべての事をなさことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。わたしはあなたの事を今まで耳で、頭で聞いていただけでした。今こそ、わたしの目であなたを見ました。わたしはみずからを恥じ、ちり灰のなかで悔います」と、神の前にひれ伏すのであります。

 聖書には、パウロの言葉にも、こういう言葉があります。「わたしたちはみな、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ、悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」とあります。これはもう偶然というような裁きではなく、われわれがこの世にあって、どれだけ真剣に生きたかということが問われる、そうして裁かれるというこが言われております。
 
ただこの言葉をわれわれが読む時に、うっかりしますと、自分の人間的な価値判断を神に押しつけて、神に期待して、自分がほめられたり、裁かれたりすることを予想する場合が多いのではないか。
 そうならないために、われわれはこの終末の時の裁きはこういうものだと語る主イエスの言葉の前にひれ伏さなくてはならないと思います。

 この終末の裁きに際しては、一切の人間的な価値判断は無視される、ただ神が神の権威で裁かれるのであります。そうであるならば、われわれができることは、ただ神の憐れみにすがって、この神に逃れる以外にないのであります。
 
「その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても取りにおりるな、畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうと思うものは、それを失い、それを失う者は、保つのである」と、主イエスはいわれるのであります。自分にもう執着するな、というのです。これはただ自分の持ち物だけでなく、自分がどれだけ善を積んできたか、どれだけキリストに忠実に生きたか、信仰生活をなしとげたとか、そうした自分に執着するなということであります。ただ神の憐れみにすがる以外にないということであります。

ルカによる福音書には、「逃げよ」という言葉はありませんが、マルコによる福音書には、「その時には山に逃げよ」という勧告があって、それに続いて「屋上にいる者は下に降りて、家からものを取りにあとへもどるな」とありますから、ここでは「逃げなさい」と言われているのです。逃げるということは、自分の命を救うために逃げるのでりあます。

ですから、ここでイエスが「自分の命を救おうと思うものは、それを失い」というのは、「自分の命を自分の持ち物とか、自分の業績とか、自分の行いというもので、つまり、自分で自分の命を救おうとする者はそれを失う」という意味であります。もうそうしたことをやめて、ただ神の憐れみにすがって逃げ出すものは、助けられるというのであります。
 
 イエスのその恐ろしい言葉を聞いて、イエスの弟子達は、「主よ、それはどこにあるのですか」と尋ねました。新共同訳聖書では、「それはどこで起こるのでか」となっておりますが、そのほうがいいと思います。
 
パリサイ人は「いつ起こるのですか」と尋ねましたが、弟子達は「どこで起こるのですか」と尋ねました。どちらもできることなら、その終末の裁きからうまく逃れたいという自己中心的な問いであります。
 
それに対してイエスは不思議なことをいいます。「死体のあるところには、また禿げ鷹が集まるものである」というのです。この言葉は当時のことわざのような言葉だそうです。いろん解釈がされますが、「死体」というのは人間の罪のことで、人間の罪があるところには、かならず禿げ鷹が死体に集まるように、神の裁きがあるという意味だという人がおります。ある注解書には、これは死体のあるところには、差別なく、至るところに禿げ鷹が群がるように、この終末の裁きには、「どこで」というある特定のところにということではなく、いたるとこに起こるのであるという意味だと説明されております。どちらにとってもいいと思います。
 
パリサイ人は、「神の国はいつくるのか」と尋ねました。それに対して迫害の中にあって苦しめられていた初代教会の人々は「マラナ・タ」「われらの主よ、きたりませ」と教会の中で叫びつづけて、終末の裁きが来て、主イエスが再臨してくれることを切実に望んだということであります。それは「終末はいつくるのか」というのんきな問いではなく、ただ神の憐れみにしか自分達の慰めも救いもないという切実な信仰、それがマラナ・タという叫びであります。」

われわれも「いつ来るのか」というのんきな問いではなく、マラナ・タという切実な祈りをして、終末を待ち望む信仰をもちたいと思うのでりあます。