「神に義とされた者」  ルカ福音書一八章一ー一四節

 主イエスが自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対してこういう譬えをしたという記事を今日は学びます。ルカによる福音書だけにある記事で大変われわれの心をうつ聖書の記事であります。

 それはこういう内容の記事であります。ふたりの人が祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人、ひとりは取税人であった。パリサイ人はこう祈った。「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。ところが取税人のほうは遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と言った。そういう話を主イエスはして、最後にこういうのであります。「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 われわれがこの記事を見て心うたれ、また慰められるのは、おそらく、自分を取税人のひとりになぞらえるからではないかと思います。自分もまた神の前に出たら、取税人と同じだ、ただ神の前に頭を垂れる以外にないと思う、しかしこういう取税人を神は喜んでくださる、義としてくださるのだ、そう思ってわれわれは慰められるのであります。

 しかしわれわれはこの取税人の祈りを本当に祈ることができるだろうか。つまり、われわれはもうこの聖書の記事を読んでしまっている、主イエスが神に義とされて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この取税人であったというイエスの言葉を聞いてしまっている、知ってしまっている、そうであるならば、われわれはもうこの取税人の祈りは祈れなくなってしまっているのではないか。

 この聖書の箇所について、キルケゴールという思想家の言葉があります。それは、われわれはこの取税人の祈りをするときに心のどこかに、「神よ、わたしはこのパリサイ人にような人物でないことをあなたに感謝します」と祈っているのだという文章です。パリサイ人が「わたしがこの取税人のような人間でないことを感謝します」と祈っているように、取税人は「わたしはこのパリサイ人のように傲慢でないことを感謝します」と祈っているのではないかというのです。そしてわれわれがイエスのいわれた通りに末席につこうとするのは、誇りと虚栄が高慢ちきに食卓の末席につかせるのだというのであります。われわれが末席に着こうとするのは、本当の謙遜からではなく、傲慢からでたことなのだというのであります。

われわれはもうパリサイ人のような祈りをする人はおそらくいないと思います。この主イエスの話は、もともとはパリサイ人が主題で、取税人はこのパリサイ人を批判するために持ち出された話でりあます。主イエスの言いたいことは、もともとは「自分を義人だと自任して、他人を見下げている人たちに対して」語ろうとしているのですが、今日のわれわれには、この取税人の祈りをしながら、自分はパリサイ人でないことを感謝しますと祈ることによって、もっとパリサイ的な傲慢さに陥ってしまっている者に向けられた聖書の記事としてここを読まなくてはならないと思うのです。
 
 ですから、もうこの取税人の祈りをわれわれはできなくなっているのではないか。
 そして本当は今日われわれができなくなっているだけでなく、イエスの時代の時からこういう祈りをした人はいないのではないか。なぜなら、この取税人は実際に存在した取税人ではなく、主イエスが話された中に登場してくる人物だからであります。そう考えますと、聖書の中でわれわれが感銘を受ける人物、この取税人にせよ、あの強盗に襲われた者を親切に介抱したサマリヤ人にせよ、それらの人は実際に存在した人物ではなく、みなイエスが話された人物、イエスがこういう人がいたらいいなと想像した人物なのだということは、大変悲しいことであります。

 こういう祈りをした人物というのは、実際にいるのか。パウロはそういう祈りをしたのではないか。パウロという人は、このパリサイ人と同じように自分は義人だ、自分は正しいことをしているのだと自任して、クリスチャンを見下げて、迫害していた時に、突然イエスの声に接して、百八十度転換してクリスチャンになった人であります。彼は自分の罪を知った時に、こういうことを言っているのであります。

「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって、自分の憎むことをしているからである。この事をしているのは、わたしのうちに宿っている罪である。わたしの内には善なるものが宿っていないことをわたしは知っている。善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がない。わたしの欲している善はしないで、欲していない悪がこれを行っている。わたしはなんという惨めな人間だろう。だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と、嘆いているのであります。そしてそのあと、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」と告白します。
 
こういう告白をパウロがすることができたということは、このパウロの嘆きは祈りだったということがわかるのであります。その嘆きを神にぶつけたからこそ、神の罪のゆるしを聞いて、神に対する感謝の思いがでたからであります。
 
パウロもまた神によって義とされて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この取税人であったというイエスの言葉を、聞いたからであります。
 
そのパウロは別の箇所で、「わたしたちはどう祈ったらいいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしをしてくださる」と言っております。そのようにして御霊は弱いわたしたちを助けてくださるというのであります。
 
「どう祈ったらよいかわからない」ということは、もう祈ることがができなくなったということであります。もう祈れなくなったということであります。その時に御霊がいっしょになって言葉にならないうめきをもってとりなしてくださって、そしてはじめて祈れるようになったというのであります。
 
 イエスのたとえ話にでてくる取税人は、はじめは祈るために宮に上っているのです。一○節をみますと、「ふたりの人が祈るために宮に上った」と言われているのです。取税人も祈るために宮に上った。ところが途中で取税人はもう祈れなくなってしまった。このパリサイ人の祈りをそばで聞いていたからかもしれません。「この取税人のような人間でもないことを感謝します」という言葉を聞いていて、取税人はもう自分は到底祈れる資格はないと思ったのかもしれません。この時取税人はこのパリサイ人にひとつも反発は感じていないのです。自分はまことにこのパリサイ人がいうとおりだと思ったのです。
 
 ある人の話に、自分がなにか大変悪いことをして、人を傷つけて、電車に乗った。満員電車だった。途中で誰かに思い切り足を踏まれた。その時に、ひとつも怒る気にはなれなかったというのです。自分はこのようにして足を踏まれても何にも文句が言えない罪人だと思いながら、その電車に乗っていたというのです。

 この時の取税人はまさにそのような心境だったのではないか。だから、彼は祈るために宮に上りながら、神の前に立たされた時に、もう祈れなくなった。ただ、遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸をうちながら、それでも神に向かって、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と言ったのであります。聖書はパリサイ人のほうは「こう祈った」と記しておりますが、取税人については、もう祈ったという言葉はなく、「胸を打ちながら言った」と記すのであります。もう自分は祈れないと思った、だからただ「言った」だけなのであります。

 わたしは祈りについ書かれた文章で印象に残っているのが二つあります。一つは小塩節という人が書いている文章です。自分の子が重い病気になった。必死に祈ったというのです。しかしそのうちに祈れなくなった。祈っても祈っても子どもの病はよくなってこなかったからであります。だから、夫婦で食事の前に祈る時には、「主の祈り」をふたりして唱えた。そのうちにその主の祈りも祈れなくてなったというのです。なぜなら、「主の祈り」のなかには、「みこころの天になるごとく、地になさせたまえ」とあるからであります。なんとしてでも子どもの病気をいやしてもらいたい、そういう時に神のみこころのままになさってくださいなどとはとても祈れなくなってしまったというのです。だから、もう「主の祈り」も祈れなくなって、食事の前に夫婦で黙祷しようと言って、しばらく黙祷して食事をしたというのです。
 
 もう一つの文章は、やはり主の祈りと関係してくる文章ですが、竹森満佐一の書いた「主の祈り」の文章で、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」という祈りをめぐってのところですが、第一次大戦の時、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊した。その次の聖日にある町で、こわれた会堂の中で礼拝が行われた。

しかしいつものように、「主の祈り」を祈る時になって、この句のところにきた時に、みんな黙ってしまった。その時に、みんなの者がドイツ人が自分達に対してしたことを思い出して、それを考えるととてもゆるす気にはなれなかった。だからだれも「われらがゆるすごとく」とは祈れなかった。そして少し時がたって、だれからともなく、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすこどく」と祈りつづけたというのです。
 
自分の罪を考えたら、とても祈れなくなってしまった取税人。自分にはどうしてもこうして欲しいという思いがあって、とうてい神のみこころのままにとは祈れなくなってしまって、祈れなくなる。自分になされた人の罪を思ったら、とうていゆるすことができない、そのために祈れなくなってしまう。
 
 祈りというものは、そのようにして一度祈れなくなってしまって、どう祈ったらよいかわからなくなってしまって、言葉にならないうめきのようになってしまって、それでも神にしか助けを求めざるをえなくなって、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と小さな声でうめく、それが祈りなのではないか。
 
それが、というよりは、それも、祈りなのではないか。あの不正な裁判官を動かしたやもめの祈りも、また立派な祈りだと主イエスは教えておられますから、この取税人の祈りこそ、本当の祈りだなどという必要はないと思います。あのやもめの必死な訴えもまた祈りであります。

 しかしあのパリサイ人の祈りは、決して祈りなんかではないのです。どんなに神に向かって祈っていても祈りなんかではないのです。顔は神に向けているかもしれませんが、心は自分の正しさを自任し、自分の義を神に主張しているだけだからであります。彼はもう神に自分の義を認めてもらう必要はひとつもないと思っているからであります。
 
しかしあの取税人も、本当は祈っているとはいえないのです。なぜなら、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしていないからであります。つぶやくように、「神様」と呼びかけているだけであります。彼のこのつぶやきを祈りに導いてくれたのは、主イエスであります。「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であった」という主イエスの言葉であります。
 
われわれは神に義とされようとして、この取税人の祈りを祈ることはもうゆるさりないのです。この時取税人は、神に義とされるなんてことは、夢にも思わなかったのです。ただ「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と、つぶやくように言っただけでなのです。イエスがその取税人を神に義とされた者としてわれわれに紹介してくださった。だからわれわれは、このような祈りしかできない者を神が義としてくださる、神がゆるしてくださる、だからわれわれはこのような祈りをすることができるのであります。
 
義とされようとして、このような祈りをするのではなく、義とされた者として、もう赦された者としてこのような祈りをすることができるということなのであります。そして、今度はしっかりと目を天に向けて祈れるようにならなければならないのであります。
 
 主イエスはこのたとえ話をする前に、「人の子が来るとき、地上に信仰がみられるであろうか」と、嘆いているのであります。あのパリサイ人の祈りはもちろん信仰ではないのです。そしてこのように祈る取税人もまたまだ信仰をもっているとはいえないのです。彼が信仰をもてるようになるのは、「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって」というイエスの言葉を聞いてから、彼の信仰が始まるのであります。目を天に向けられないで、うなだれたままでは決して信仰とはいえないのであります。