「神の国に入る者」 ルカ福音書一八章一五ー一七節

 イエスに触っていただくために、人々が幼子をみもとに連れてきました。触ってもらう、といっても、何かいやしをしてもらうとか、あるいは何か迷信的なことではなく、偉い預言者とか教師に、祝福してもらうということが幼い子をもつ親の気持ちだったようであります。弟子達はそれを見て、彼らをたしなめた。

ここで使われております、幼な子という字は、乳飲み子、いわゆる赤ちゃんという意味の幼な子という字が使われておりますので、あるいは、イエスのところにつれてこられた幼な子が泣きわめいていたのかもしれません。それで弟子達がそれをいさめたのかもしれません。するとイエスは幼な子を呼び寄せていわれました。「幼な子をわたしのところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である」。

 イエスは「神の国は幼な子のよな者の国だ」といわれて、幼子のようにならなくては神の国はいることはできないといわれたのであります。イエスは何をもって幼な子を高く評価したのでしょうか。
 
イエスは一○章では、「天地の主なる父よ、あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠し、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」と祈っております。「これらの事」というのは、簡単にいえば、神様のことであります。
 
イエスがまず幼な子を評価する時に、そこでは、「知恵のある者や賢い者」と対比して幼な子を評価しております。つまり、知恵のある者や賢い者の傲慢さと比較して、幼な子の謙遜さを評価しております。神様のことは人間の知恵や賢さ、それを誇る傲慢な人間には隠されている、その対比として幼な子がとりあげられております。
 
今日の箇所でも、ルカによる福音書では、その前のところには、パリサイ人の祈りと取税人の祈りの話をして「おおそよ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は、高くされるであろう」という話に続いて、この幼な子の祝福の記事を置いております。
 
主イエスが幼な子を高く評価しているのは、幼な子のもつ謙遜であり、低さであります。しかし、幼な子はどのようにして謙遜であり、低いのでしょうか。幼な子はもちろん、幼な子自身は謙遜でもなければ、低くもないのです。幼な子にはそんな意識も自覚もないし、もちろんそんな努力もしていないのです。幼な子はその存在自体がもう謙遜であり、低いのです。幼な子は自分は親の支えがなければ、一日たりとも生きていけない存在であることを本能的に知っている。自分ひとりでは決して生きていけないということを知っている。あるいは、自分を高くして高くして頂点にのぼりつめて、救われようとするとか、そんなことはひとつも考えていないのです。幼な子はただ親に頼り切っている、その点で主イエスは幼な子を評価し、幼な子のようにならなければ、神の国に入れないと言われているのであります。
 
幼な子は罪がないとか、純粋無垢だとか、そういう点を主イエスは評価しているのではないのです。
 
 しかしわれわれ大人はもう幼な子にはなれないのです。それならば、どのようにして幼な子のようになったらよいのでしょうか。主イエスはその前のところで、「自分を低くする者は高くされ」と言っておりますが、本当はわれわれは自分自ら、自分の力で、自分を低くするということはできないのではないかと思います。

もしそのような方向で努力しようとすれば、あの取税人が「自分はパリサイ人のような人間でないことを感謝します」と祈るようなことになってしまって、いわば謙遜傲慢な道を歩むことになるのではないかと思います。
 
自分の身を低くするということは、大人のわれわれには努力目標にはならないのです。ただわれわれにできることは、自分を高くしていことをやめようということであります。自分を高く高くして、自分の業績をつみあげて、救いを獲得しようとする道を歩むのをやめようということであります。それならばできることではないかと思います。
 
それならばしかし、主イエスはみずから謙遜の道を歩まれたではないか、イエスはみずから低くされたではないかといわれるかもしれません。しかし主イエスがそのように低い道を歩み、みずから謙遜になっていったのは、ただ低くなろう、ただ謙遜になろうとしたのではなく、人に仕えよう、人のしもべになる、その点で謙遜になり、低くなったのであります。
 
ただ低くなるということは、できませんが、人に仕えるという点で低くなる、謙遜になる、そういうことならば、われわれにもできることだと思います。
 
イエスは、実際のイエスは、決してわれわれが勝手に想像するようなアシジのフランチェスコのような、謙遜な姿を示したのではなく、パリサイ人や長老や祭司長から憎まれるほどに、その存在は目立ち、権威があり、傲慢にすら見えたはずであります。しかしイエスの本質的な歩みは、神と人とに仕える道を歩まれた、そのういう意味で、身を低くし、へりくだり、謙遜な道を歩まれたのであります。

 イエスは「神の国はこのような者の国である」といわれて、神の国は幼な子が集まっているような国であるといわれました。そこから、想像する「神の国」とはどういう国なのでしょうか。われわれ大人が勝手に想像するような美しい花園の世界なのでしょうか。幼な子が集まっている幼稚園や保育園が、実際のところ、そのようなところであるかはわたしにはわかりませんが、少なくともわれわれ大人からすれば、権力闘争にあけくれる大人の世界とは違ったなにか平和な美しい世界をわれわれは想像するのではないかと思います。

 神の国とか天国というところは、そういうところなのでしょうか。
 
 主イエスがある時こういうことを語っておられます。「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられないほうがあなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」ということを語っております。

別のところでも「もしあなたの片手または片足が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入るほうがよい。もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで、地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入るほうがよい」とも言っております。
 
ここには、直接、神の国とか天国という言葉はありませんが、「地獄になげこまれるよりは」とか、「永遠の火に入るよりは」と言うことと反対に、命に入る、といわれておりますから、地獄の反対、天国、神の国に入ると考えてもいいと思います。
 
つまり神の国とか、天国というところは、実は幼な子ばかり集まっている美しい無邪気な国ではなく、この地上にあって、激しく自分の罪と闘ってきた者、そしてその罪を犯させた手、目を切り捨てて、ようやく天国に入ることができた者、それは罪に闘って堂々と勝利した者というよりは、罪と闘ってかろうじて天国にようやくたどりついた者、逃れてきた者といったほうがいいと思いますが、天国とはそういう片足、片目の人の集まりでもあるということになるのではないかと思います。
 
パウロの表現をかりれば、「彼自身は火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われる」というように、神の国とか天国というところは、全身やけどだらけの人の集まりでもあるかもしれません。
そういう人たちが今神に赦されて、幼な子のようになって、暮らしている、それが神の国であり、天国なのだと聖書は言っているのではないか。

 主イエスは「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない」と最後にいわれました。ここで使われている「幼な子」という字は、弟子達がたしなめた「幼な子」とは違った字が使われております。弟子達がたしなめたのは、それこそ赤ちゃん、わけもなく泣きわめく乳飲み子ですが、ここで使われている「幼な子」は、子どもという字です。乳飲み子から成長してもう少し大きくなった子どもの意味の字が使われております。
 
詩編の一三一編にこういう言葉があります。「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどり子のように、安らかです」と歌うのであります。ここは新共同訳聖書では、ただ「幼な子」と訳されておりますが、口語訳は「乳離れしたみどり子」と訳しております。
 
ある人の説明では、乳離れしない幼な子は、ただわめくだけだけれど、もう少し成長して乳離れすると、母親のことを絶対的に信頼して、安心しきって安らかに眠る、そのようにして、神さまのことを自分はもうすっかり信頼して、すっかり安心して、「その母のふところに安らかであるよに、わが魂は神を信頼して安らかである」と、歌っているのだというのであります。
 
ルカによる福音書のここで使われている「幼な子」は、いわばそういう乳離れした幼子であります。ただわあわあ泣いて、自分の要求をむき出しに主張する赤ちゃんではなく、母親を信頼しきって母親のふところで安らかに眠っている乳離れした幼な子、主イエスが「幼な子のようにならなくては、神の国に入れない」といわれたのは、そういう幼な子のことであります。

 今わたしは「幼子のようならなくては神の国に入れない」といいましたが、ルカによる福音書では、本当はそうは言っていないのです。「だれでも、幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることはできない」と主イエスは言われたのです。マタイによる福音書の一八章の三節には「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない」とありますが、ここでは、神の国に入る前に、神の国を受けいれなくてはならない、幼子のようにして神の国を受け入れて、そうして神の国にはいれるようになるのだと主イエスはいわれているのであります。
 
同じではないかといわれかもしれませんが、しかしやはりすこし違うのでなはいかと思います。神の国に入る、という言い方は、神の国に突入するという意味合いがあるのではないかと思います。マタイによる福音書の言葉に、「バプテスマのヨハネの時から今日に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」という言葉があります。それをルカによる福音書では「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々はみなこれに突入している」となっております。どちらにせよ、神の国に入るという言い方は、奪い取るとか、突入するという意味をもちかねないのであります。 
 
それはヨハネの時までだ、つまり律法によって、自分のわざの積み重ねで、天国に入ろうとする時には、そのように突入するとか、奪い取るという表現がぴったりですけれど、主イエス・キリストがいらしてからは、もうそうではないのだ、「幼な子のように神の国を受け入れる、まず受け入れる、そのようにして神の国に入れる」のだということであります。
 
 たとえがいいかどうかわかりませんが、神の国に入る、と言う表現は、受験戦争に勝ち抜いて合格する、それに対して、神の国を受け入れるということは、いわば推薦入学を受けて入る、そう考えることもできるのではないかと思います。
 だれかが推薦してくれる、それをこちらも受け入れる、そのようにして入るのであります。
 
 「だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決してできない」。神の国は向こうからくるのです。それをこちらが幼子のような素直な気持ちになって、ありがたく受け入れるのであります。そうして神の国に入るのであります。

ルカによる福音書は、これはルカだけでなく、マルコもマタイも同じですが、この「幼な子のようにならなければ」という記事のあとに、いわゆる「富める青年」の記事が置かれています。彼は真面目な人間で、「何をしたら永遠の命を受けられますか」とイエスに真剣に尋ねて来た青年であります。何をしたら、どんな善行を積んだら、救われますか、天国にゆけますか、神の国に入れますか、と尋ねているのであります。それに対して、主イエスが言われたことは、「あなたのもっているものをすべて捨てなさい」といわれているのであります。それは幼な子になりなさいということであります。
 
大事なことは、何をしたら、ではないのです。受験戦争に勝ち抜いて、神の国はいるのではないのです。向こうからやってくる神の国を受け入れる、幼な子のようになって神の国を受け入れるのです。そうして神の国に入るのであります。
 
 死というものも、われわれは死を突破して堂々と立派に天国にいこうなどとは考えないことであります。死はむこうからやってくる、それをわれわれは受け入れるのです。そうして天国に入るのであります。

われわれは死ぬ時には、生まれた時のような幼な子に帰って、死を受け入れ、そうして天国にいく以外にないのではないでしょうか。