「神にはできる」   ルカ福音書一八章一八ー三○節

 ある役人が主イエスのところに来てこう尋ねました。「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられますか」。するとイエスは「なぜわたしをよき者というのか。神ひとりのほかによい者はいない」といわれ、「いましめはあなたの知っているとおりである」と言われて、「姦淫するな、殺すな」と、なぜか十戒の後半、つまり倫理の律法をあげるのであります。

ご承知のように、十戒の前半は「神のみを拝せよ」という律法で、この律法のほうがはるかに大事なのですが、イエスは、この時、律法の後半だけをあげております。すると彼は「それらのことはみな小さい時からまもっております」と答えた。すると、イエスは「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に宝をもつようになる。そしてわたしに従ってきなさい」といわれた。
すると役人はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持ちであったからだというのです。
 
そしてその後、イエスは「財産のある者が神の国にはいるのはなんと難しいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」といわれたのであります。

 この役人は「何をしたら永遠の生命が受けられますか」と聞いているのです。簡単にいえば、「何をしたら救われますか。何をしたら天国にいけますか」と問うているのです。大金持ちであったというのですから、また役人ということですから、社会的にも非常に信用のある人であったと思われます。
社会的に立派な人であったと思われます。しかし彼は何か不安だったのでしょう。それで自分の救いをもっと確かなものにするためには、この上になにをしたらよいのか、とイエスに尋ねたのです。彼は財産があるだけでなく、また役人という社会的に地位があるだけでなく、イエスから律法を示された時に、それはみな小さい時から守っておりますと答えておりますから、信仰的にも、宗教的にも立派な人のようであります。それでも彼は不安だったのであります。
 
ところがイエスから最後に「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って貧しい人々に分けてやりなさい。そしてわたしに従ってきなさい」といわれた時に、それができなくて、彼は悲しみながらイエスのもとから離れていくのであります。

 ここで大事なことは、彼は「この言葉を聞いて非常に悲しんだ」ということであります。怒ったのでもなく、イエスの言葉に失望したのでもなく、「悲しんだ」というのです。

悲しんだということは、イエスの言われた言葉に反発を感じのではないということであります。もっともだと思った、その通りだと思った、しかし自分にはそれはできないと思ったのであります。だから悲しんだのであります。自分の財産、自分が今まで積み上げて来たものを全部捨てるなんてことは到底できないと思ったのであります。だから彼は悲しんだのであります。できることなら財産も地位も全部捨てたいと思ってはいるのです。捨てなくてはならないだろうと思ってはいるのです、しかし自分にはそれはできない、それで彼は悲しんだのであります。イエスの言葉に怒ったのでもなく、失望したのでもなく、悲しんだということは、イエスの言葉の正しさを認めながら、自分にはそれができないから悲しんだのであります。

ルカによる福音書は、ルカだけでなく、この記事を書いているマルコによる福音書もマタイによる福音書も、みなこの記事の前に、幼子のように神の国を受け入れる者でなければ神の国に入ることはできない、という記事を置いております。つまりわれわれが救われる、われわれが永遠の命を受ける、天国に入るのは、幼子のような心で素直に神を受け入れることなのだということであります。
 この役人のように、「何をしたら救われますか」とか、どのように社会的な立派な行いをしたら救われますか、とか、そういうことではなく、幼子のようにして神を信頼するということが大事だということであります。
 
主イエスはおそらくこの役人が小さい時から律法をきちんと守り続けた人間であることを見抜いておられたと思います。道徳的にも大変立派な人間であることは見抜いておられたと思います。だからイエスはここでは、十戒の後半部分、つまり倫理の部分だけをとりあげて、律法にはこう書いてあると、「いましめはあなたの知っているとおりである」といわれたのであります。イエスはこの時、これを守ったら永遠の命を得られるとは言ってはおられないのです。

もっともマタイによる福音書ではそういっておりますが、マルコによる福音書もルカによる福音書もそうは言っていないのです。イエスはただ、「いましめはあなたの知っているとおりである」といわれただけなのです。
 
するとイエスの予想していた通りに、彼はそれは小さい時からみな守っているという答えが帰ってきた。それを受けてイエスは「あなたのする事がまだひとつ残っている」と言われた。「あなたの持っているものを全部捨てよ」と言われた。ここで大事なことは「貧しい人々に施す」ということが大事なことではなく、「持っているものをみな捨てよ」ということ、そして「イエスに従う」ということであります。
 
 自分の財産を貧しい人々に施したら救われるということではないのです。それだったならば、また「わざによる救い」ということであります。「持っているものをみな売り払え」ということは、ただ彼の持っている財産だけでなく、彼のもっている社会的地位に対する誇りと執着、自分は道徳的にも立派に歩んできたという自負、それもみな捨てなさいということを含んでいるのです。それは結局は「自分を捨てなさい」ということであります。そして「幼子のようになりなさい」ということであります。
 
 イエスがここで十戒の後半部分だけをとりあげて、前半の部分、つまり、「神のみを拝する、神のみを愛する」という部分をとりあげなかったことは、彼が一番欠けている部分をわからせるために、あえて初めには言わなかったのであります。
 
「自分のもっているものを全部すてよ」ということは、「神のみを拝せよ」ということであります。彼はそれができなかった。自分に対する執着を捨てることができなかった、それで彼は悲しみながらイエスのもとを去っていくのであります。
 
そのことは冒頭のところで、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられますか」という問いに対して、イエスが「神ひとりのほかによい者はいない」といわれた言葉に込められているのではないかと思います。それは「神ひとりのほかによい者はいないので、その神にすべてを委ねることが大事なのだ」ということであります。

彼が立ち去った後、イエスは「財産のある者が神の国にはいるのはなんと難しいことか。富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」といわれるのであります。らくだが針の穴を通るなんてことは不可能であります。それと同じくらい財産のある者が神の国に入るのは難しいということであります。なぜか。それは財産のある者は富に執着しているからであります。財産を、富を自分の神にしてしまっているからであります。財産のある者は、否が応でもそれに執着してしまうのです。否が応でもであります。自分はお金になんて執着したくないと思っても、お金をもってしまうとそれに執着させられてしまうものであります。だから彼は悲しんでイエスのもとを立ち去ったのです。自分ではあるいは財産なんて捨てたいのです。しかしそれができないのです。それが悲しいのであります。

 それを聞いた人々は、「それではだれが救われることができるのですか」と聞いたというのです。「だれが」というのですから、それはただ財産のある者だけでなく、財産のない者にだって、つまりその役人だけでなく、自分たちにだって、救われることは不可能だと思ったということであります。
 
それに対してイエスは「人にはできない事も、神にはできる」と言われたのであります。
この聖書の箇所の一番大事なところは、ここであります。永遠の命を得るということは、人にはできない、われわれが自分の努力でなんとかしようとしてもできることではない、しかし神がなさろうとすれば、できる、ということであります。この金持ちの役人は、「何をしたら」と、自分の努力で永遠の命を獲得できると思ったのです。そもそもそれが間違いだったのであります。

 イエスの言葉を聞いて、イエスの弟子のひとり、ペテロがこういいます。「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。ペテロたちは自分のものを捨てることができました。しかし金持ちの役人はそれができませんでした。この違いはどこにあるのでしょうか。ペテロたちはこの役人に比べれば、それほど金持ちではなかったということでしょうか。
 
ペテロは漁師でした。イエスに従った時には、網を捨てて、親を捨てて、イエスに従っているのです。それほど貧しい漁師ではないのです。網をもっているのですから、網元かもしれません。むしろ裕福であったかも知れません。彼には親もいれば、奥さんもいたのです。しかしペテロはそれらを捨ててイエスに従うことができたのです。ペテロにできて、役人になぜできなかったのでしょうか。

 それはペテロはイエスから声かけられて、イエスから「わたしに従ってきなさい」と言われて、イエスに従ったからであります。ルカによる福音書だけは、ペテロたちがイエスに従った経過をもう少し丁寧に書いていて、彼らが漁をしていて、不漁だった時、イエスから「沖にこきだして網をおろしてみなさい」といわれて、網をおろしたところ、おびただしい魚がとれて、イエスにひれ伏し「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」というのです。それに対して、イエスが「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」という。その言葉を受けて、彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従ったという記事になっております。そういう経過があったでしょうが、その本質は、マルコ福音書やマタイ福音書が記しているように、イエスが「わたしに従ってきなさい」と、声をかけ、ペテロたちはそれに従ったということで、同じであります。
 
つまり、われわれが自分のもっているものを捨てることができるのは、自分のほうから、決断して、よし、捨てよう、そしてイエスに従っていこう、ということではないということなのであります。神が召した、彼らはそれに従っただけだということであります。もう少し具体的にいえば、彼らはイエスの人格に圧倒されて、引きつけられて自分のものを捨てることができたということであります。しかし、役人は違った。自分から「なにをしたら永遠の命がえられますか」とイエスに問いかけていった。だから捨てることも従うこともできなかったのです。
われわれは自分から、自分の力で何かを捨てるなんてことは到底できないのです。自分の力で人に従うこともできないのではないか。われわれが人に従う時があるとすれば、その人の魅力に惹かれて従うのではないでしょうか。

 神学校に入学する時に、一番問題にされるのは、召命感の問題であります。召命感という字は、召す、神が召す、と言う意味の「召」であります。わたしの命を神が召す、そういう自覚がありますか、と問われるのです。どんなに学力があっても、またただ自分は何か立派な生涯を送りたい、伝道者というのは、生き甲斐がありそうだから、神学校に入って牧師になろうとしても、それは自分の熱意に過ぎないのです。それでは長続きしないのです。だから、あなたには召命感はありますか、と入学試験の時に聞かれるのです。

もちろん、そんなものは、大変主観的なものですから、どんなに自分には召命感があると思ったって、そんなものはあてにはならないわけですから、本当はそれを問うということは、あまり意味はないのですが、しかし一応はそのことが問題にされるのです。
 自分の熱意で、自分の正義感で、牧師になるのではない、神に召されて、神に動かされて、牧師になるのだと言うことは、絶えず問われながら、牧師になり、牧師になってからも生涯、それは自分自身に問われ続けられることなのであります。

ペテロたちは、イエスから声をかけられ、イエスから「わたしに従ってきなさい」と、声をかけられて、その声の強さに惹かれて、すべてを捨てることができたのであります。だからペテロは「わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」と、答えました。ペテロはこの時おそらく胸を張ってそういったのだと思われます。マタイによる福音書では、「ついては何をいただけるのでしょうか」と弟子達はイエスに言ったと記されております。彼らがどんなにそのことで誇りに思っていたかがわかります。それに対してイエスは「よく聞いておくがよい。だれでも、神の国のために家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ず、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」といわれます。
 
マタイによる福音書やマルコによる福音書では、そのあと「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」と、イエスから痛烈な皮肉を言われてしまうのであります。「わたしは従いました、わたしはすべてを捨てました」と、もし「わたしが」「わたしが」と言い出しますと、それは逆転してしまうのであります。
 
そして現にイエスの弟子達は、イエスが逮捕された時に、みなイエスを見捨てて逃げ去っていくのであります。ペテロも同じであります。
彼らが再びイエスに従ったのは、復活のイエスからそのよみがえりのからだをみせられ、「信じないものにならないで、信じる者になれ」と再び声をかけられたからであります。