「見えるようになれ」 ルカ福音書一八章三一ー四三節

 イエスは十二弟子を呼び寄せていわれました。「見よ、わたしたちはエルサレムへ上っていくが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引き渡され、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。
 
イエスがご自分の十字架の死について予告するのは、これで三度目であります。ルカによる福音書では、小さい予告を加えますと、これが六番目にあたります。第一回目は、弟子達がイエスから「あなたがたはわたしのことを誰と思っているか」と問われた時に、ペテロが「神のキリストです」と、答えたのを受けて、イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」と言われております。

 二回目は、イエスが山の上で、その着ている衣が神々しさに白く輝いたという出来事が起こった時、イエスの生涯で唯一神の子らしい様子を弟子達に現したすぐそのあと、イエスは「あなたがたはこの言葉を耳におさめておきなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」と、いわれました。

 そして三回目が今日学ぼうとしているところであります。

 どの予告の時にも、それを聞いた弟子達は、イエスが何を言われているかわからなかったと記されております。そして特にルカによる福音書では、それは「この言葉が彼らに隠されていたので、イエスが言われた事が理解できなかった」と記しております。隠されているのでしたら、弟子達にわかる筈はないのだということになりますが、それは後になって、つまり復活のイエスに出会って、その時から考えると、自分たちにイエスの十字架のことが理解できなかったのは、隠されていたからだと彼らが思ったということなのだと思われます。
 
 弟子達はこのイエスの言葉が全く理解できなかったわけではなく、ルカは九章にある第二回目の予告の時の記事をみれば、「彼らはなんのことかわからなかった。それは彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた」とも記されております。つまり、彼らは、イエスが人々にあざけられ、そして殺されるなんてことは、信じたくなかった、そのことが本当に起こるのですかと確認したくなかった、なぜなら、そんなことはあまりにも恐ろしいことだからであるということであります。だから、ある程度はなんとなくイエスのいわれたことを理解してはいたということであります。

 弟子達にとって、このイエスの言葉が理解できなかったことの一つは、このことがあまりもにあってはならないこと、神から派遣されたメシアが人の手によって侮辱を受け、殺されなんてことはあってはならないこと、だからそんなことは信じられないから、悟れなかったということであります。

そして彼らが理解できなかったもうひとつの理由は、イエスがそのことを述べる時に「人の子は異邦人の手に渡され」と、「人の子は」という言い方をされているからではないかと思うのです。つまり、「わたしはこうなる」、「わたしは最後には殺されることになる」というように、「わたしは」と言われていたら、弟子達は「えっ、そんなことが」ということになったと思いますが、何かイエスがそのことを語る時「人の子は」とまるで第三者のような言い方をされたから、あまりぴんとこなかったということもあるのではないかと思われます。
 
 なぜイエスはこの時、あえて、「自分は」とか「わたしは」とかという言い方をされなかったのか。なぜまるで第三者の運命のようにして、「人の子は」という言い方をされたのか。
 
「人の子」という言葉は、旧約聖書からメシアの代名詞になってきております。ですから、イエスがご自分のことを「人の子は」という時には、特に自分がメシアであること、つまり神から派遣されたメシア、自分が神の子であることを自覚した時、それを人々に明らかにされようとされる時に使います。たとえば「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」というような時に使って、自分が神の子であることを強調しようとする時に、イエスは「人の子は」といういいかたをされております。

 イエスがこの時、ご自分の十字架の死を語る時、ことさら、「人の子は」といういいかたをされたのは、十字架の死ということが、自分の単なる正義感の発露としての殉教者の死であるとか、そういう自分の人間的な意志とか行動とかとうものではないのだということを明らかにしようとしていることであります。
 
これは神のご計画なのだ、神がこのような道を用意をしているのだ、ということをイエスが深く受け止めているからであります。
 
 なぜ神の子は、神が派遣される救い主は、そのような死を遂げなければならないのか。
 それはこの救い主は人間を罪から救うためにこられたからであります。ただ人々を貧困から救うとか、病気で苦しんでいる人を救うとか、虐げられている人間を救い出すためにこられたのでもない、罪ある人間をその罪から救いだすために来られたからであります。そのためにこの救い主は、「あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、またむち打たれて、ついに殺され」なければならないのであります。

 この救い主が罪人のひとりになりきって、その罪を担って、十字架で死ぬことが必要だったのであります。そうでなければ、われわれ人間は自分の罪がわからないからであります。
 
前にも、引用したと思いますが、何かの事件があって自分の罪を深く自覚して、電車にのった、その電車は満員電車だった、その時に隣の人から足を強くふまれてしまった。その時に自分は何も文句をいう気にならなかった、自分はこうして人から踏まれても何も文句を言えない人間だということを思い続けて電車にのっていたという話であります。

 自分の罪を知らされた時には、そういう気持ちになるのではないかと思います。人々からあざけられ、はずかしめを受け、つばきかけらても、何も文句をいえない、当然だと思わざるを得ない、そしてあげくの果てには殺されても文句は言えない、それが罪を自覚した時の気持ちではないかと思います。

 人の子であるイエスは、そのような十字架の死をこれから受けようとされるのであります。それは自分の正義感の発露としての殉教者の死なんかではないのです。

 それは歴史上に時々あらわれる殉教者の死、英雄の死ではないのです。昔むかし観た映画でその内容はもう忘れてしまいましたが、ジャンヌダルクという映画がありましが、そういう映画を観て、若いときには、自分もそういう死に方をしたいなどとあこがれたものであります。正義のために自分を犠牲にして死にたい、すくなくともそういう生き方をしたいと思ったものであります。しかし同時に自分にはそんな生き方は到底できないと思ったものであります。

 しかしイエスの十字架の死はそうしたものではないのです。

 われわれは、イエスの言われた言葉、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」という言葉を聞く時に、われわれはどこかジャンヌダルクのような殉教者の死、英雄の死をイメージしていないでしょうか。そうして心をおどらせて、よし自分もそういう生き方をしたいと想像するのではないでしょうか。

 しかしイエスがそれを言われた時には、ご自分の十字架の死について語られた後にいわれたのであります。ご自分が人々からあざけられ、辱められ、捨てられ、そうして殺される、そういう十字架の死について語られた後にいわれたのであります。そうであるならば、「自分を捨て、自分の十字架を負うて」というのは、ただ自己犠牲としての死ということではなく、何よりも自分の罪と戦いながら、自分の罪を捨てるということであります。自分の十字架を負うということは、自分が人々からあざけられ、はずかしめを受けても当然だと思いながら、自分を殺していくということ、そのようにしてイエスに従っていくということなのではないか。

イエスの十字架の死は、単なる殉教者の死ではない、自分を犠牲にして人の命を助ける、あるいは自分の信じる正義とか真理を貫くために、死を賭していく、そういう死ではないのです。われわれはそういう人のために自分の命を賭して、自分を犠牲にして死んでいくという人の話を聞いたり、そういう小説を読むときに、それはイエスの十字架の死と同じだと思って感動するのであります。

しかしもしそういう自己犠牲の死がイエスの十字架の死と同じであるならば、どうしてイエスは人々からあざけられ、辱めを受け、つばきをかけられて、捨てられて死んでいかなくてはならないのでしょうか。もしイエスの死がそういう立派な殉教者の死ならば、みんなから、賞賛されての死であるはずであります。しかしイエスの死はそうではなかったのであります。

イエスの死は「人の子は異邦人に引き渡され、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺される」そういう死なのであります。それは罪人のための死、罪人になりかわっての死だからであります。

 イエスはご自分がそのようにして殺されるということを予告して、最後にはしかし「そして三日目によみがえるであろう」といわれます。「異邦人に引き渡され、あざけられ、辱めを受け、つばきをかけられ、むち打たれ、ついに殺され」というところは、受動態、つまり受け身が書かれておりますが、この最後の復活については、「そして三日目によみがえるであろう」と、いわば能動態でいうのであります。つまり、この復活だけは、神がなさることだということであります。

普通は、聖書では、復活について語られる時には、受動態、つまり受け身で語られ、イエス自身のみずからの力でよみがえるのではなく、神の力でよみがえらされるということを強調するのですが、ここでは十字架の死が人間によるものであるのに対して、その死に勝利させる復活は、神がなさることなのだということを示すために、ここだけは、「三日目によみがえるであろう」という言い方がされているのであります。

 そしてわれわれがイエスの十字架の予告の記事を読むときに、聖書は、というよりは、イエスは自分が三日目によみがえるということをこのようにして告げる、それを隠そうとしないのであります。つまり、この復活の予告がなければイエスの十字架の死はもっと悲劇性をおびたはずなのに、そんなことにはひとつも関心がなく、復活のことも予告するのであります。それはすでに預言者たちがしるしていて、それの成就としての十字架であり、復活だからであります。
 
十字架というものを感傷的にとらえてはならないということであります。イエスがゴルゴダの道を十字架を背負って歩かせられている時に、大勢の民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れがイエスのあとを追いました。その時、イエスは女達を振り向いて、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子どもたちのために泣くがよい」と言われたのであります。
 
イエスの十字架を感傷的に、センチメンタルにとらえてはならないのであります。そしてその三日後のイエスのよみがえりは、それまでの十字架の屈辱とか苦しみをなしにしてしまうような、帳消しにしてしまうようなものでもないということであります。だからイエスは三日後のよみがえりまで予告するのであります。それはイエスがご自分が悲劇の主人公になることを好んだのではなく、あくまで神のご計画にしたがう道を歩もうとしているからであります。

 このことを聞かされた弟子達は、しかしだれひとりそのことを理解できにかったというのであります。ルカはそれはまるで弟子達の責任ではなく、このことが神によって隠されていたからだと記すのであります。
 
しかしルカはそのあと、ある盲人の目がイエスによって開かれたという出来事を記すのであります。
 
イエスがエリコに近づいたとき、ある盲人が道ばたにすわって物乞いをしていた。ナザレのイエスが通るのだと聞かされ、声をあげて「ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と激しく叫んだ。イエスはその声をききつけて、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねるのであります。すると盲人は「主よ、見えるようになることです」と答えた。するとイエスは「見えるようになれ。お前の信仰がおまえを救った」と言われると、彼はたちまち見えるようになったというのであります。これはイエスが最後になさった奇跡であります。

 これは弟子達がイエスの十字架の出来事を理解できなかったということと結びつけられての記事であると思います。弟子達がいかに盲目であったかということであります。そうした中でわれわれが今求められていることは、求めなくてはならないことは、「見えるようなる」ということなのだということなのではないかと思います。「主よ、見えるようになることです」とわれわれは今切実に求めなくてならない。

何が見えるよになるのか、それはイエスの十字架の死であります。それが見えるようなること、それをイエスは今われわれに求めておられる。「主よ、見えるようになることです」とイエスに求める、それがわれわれの信仰でなくてはならないということなのであります。