「悪魔の試み」 ルカによる福音書四章一ー一三節

 三章の二三節をみますと、イエスが宣教を開始されたのは、年およそ三十歳の時であったと記されております。三十歳という年が当時の社会においてどのような意味をもつのかよくわかりませんが、今日のわれわれの社会においてよりも、もっと成熟した年齢をさしているだうろと思われます。もう立派な大人の年齢だろうと思います。
 
さいさい話してきましたように、それまでイエスはどのような生活をして来たという資料は、福音書にはないのです。わずかにルカによる福音書だけが、十二歳の時のイエスを記すのみであります。イエスが両親につれられてエルサレム神殿に行って、律法学者にいろいろと律法のことについて質問したりしていた。そしてそれを聞いていた人々はその賢さに驚いたという記事であります。それ以外にイエスのそれまでの生活を示す資料はないのです。ということは、それまでイエスは一つも目立つような言動していなかった。人々の印象に残るような言動はしていなかった。だから伝承として残らなかったということであります。
 
 イエスは三十歳になって、ヨルダン川まででかけていって、悔い改めのバプテスマを宣教していたヨハネからバプテスマを受けた時に、天からの声を聞いた、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものである」という神の声を聞いて、その時からいよいよイエスはご自分の使命をはっきりと自覚して宣教を開始したのであります。しかしイエスは恐らくその時に突如としてそのような自覚をしたのではなかったのだろうと思います。それまでにもいろいろと自分の使命について考えたに違いないと思います。
 律法について、つまりそれはただ律法というのではなく、今日から言えば、旧約聖書です、聖書について読んで学んでいた筈であります。イエスがしばしば旧約聖書について引用したり、語っているからであります。そして次第次第に自分の使命について考えに考えていったに違いないと思います。
 
 マタイによる福音書が記しておりますが、イエスが罪人のひとりとしてヨハネから罪の悔い改めのバプテスマを受けようとしますと、ヨハネから「神の子であるあなたがそのような罪の悔い改めのバプテスマをわたしから受ける必要はありません」という意味のことを言われた時に、イエスは「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」といわれたと記されております。その後、天から声があったとマタイは記すのであります。ということは、イエスは天からの声を聞く前に、自分の救い主の自覚がすでにあったということ、今これから救い主としての宣教を開始するにあたって、神の子の立場に立つのではなく、民衆のひとりとして、罪人の一人の立場にたって、ヨハネからバプテスマを受けようと決意しておられたということであります。それはイエスのそれまで考えに考えてきたことの頂点を示す行動であったということであります。そしてそれが天から承認されたということであります。
 
 イエスは三十歳という、人間の成熟した年齢まで、このことをずっと自分ひとりの心のなかであたためて来たということは大事なことではないかと思います。恐らくそのことはイエスは両親にも、話さず、まわりの人々にも話さず、ご自分ひとりの心のなかであたためて来たのだうろと思います。だから、それまでイエスがどのような言動をしていたのかということは人々の記憶に残らず、従ってそれについての資料が残らなかったということだろうと思います。
 
 さいさい皆様に紹介しておりますが、ある人が「決断する」ということについて書いている言葉であります。「決断するということは、手をたたいてそう決めたという単純なことではない。決断するということは、その人のなかに何かが生まれてくることだ。なにかが出来てくることだ。そしてそれを豊かに育てていくことだ。そしてそれを清めることだ、そうしてそれを本当に実現することだ」という言葉であります。
 
 イエスはある日突然、神の子としての自分に目覚めたり、啓示を受けたのではなく、いわば三十年間、ずうーと考え続けてきた、そうしてそれを豊かに育て、それを本当に清めてきた。清めるということは、この自分のメシアとしての使命の自覚が自分の野心ではないか、自分の宗教的な野心ではないかと何度も何度も吟味し、神に祈り、そうではない、これが神のみこころなのだ、ということを確信できるまで、清めてきたということだろうと思います。
 
 宗教家にとって一番の問題は、宗教的野心をいだくということです。それは政治的野心、企業家としての野心よりも、もっと危険な野心であります。それは自分を神の位置においてしまいかねないからであります。ですから、イエスはこの自分のメシアとしての使命が人間的な宗教的な野心ではないかということを十分に吟味したと思います。そういう誘惑となんどもなんども戦ったと思います。それが「自分の思いを清める」ということだと思います。四章から、イエスは悪魔の試みに会われたことが記されております。それはイエスのそれまでの三十年間の戦いの集大成のようなものだったのではないかと思います。そこでイエスは悪魔から三つの試みに会うわけですが、この三つの試みはイエスがこれらかメシアとして、救い主として歩み始めるにあたってどうしても乗り越えなくてはならない誘惑、どうしても清めておかなくてはならない誘惑なのであります。
 
 そのことに入る前に、ルカによる福音書は、中断しまして、イエスの系図について書いておりますので、少しそのことに触れておきたいと思います。三章の二三節をみますと、イエスは「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」と、記されています。「人々の考えによれば、」とい表現はイエスが本当は処女降誕だったのだけれど、ということを含んでの表現であります。このルカによる福音書の系図で、われわれがすぐ思い起こすのは、新約聖書の冒頭に記されております、マタイによる福音書にあるイエスの系図であります。そこでは「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しで始められております。
 
 それに対してルカによる福音書の書き方は、イエスの父親と人々が考えているヨセフから始めて、だんだんとさかのぼっていって、ついには、アブラハムを飛び越えて、アダムまでさかのぼり、そしてついには「神にいたる」とまで書き記しているのであります。この系図の書き方も、民衆のひとりに成りきろうとして、バプテスマをヨハネから受けたイエス、を描こうとして、下からさかのぼってその系図を記そうとしている意図があるのかも知れません。そしてマタイによる福音書には、その系図はアブラハムという選民イスラエル民族を贖いだすために生まれたイエス、従って、ダビデの子としてのイエス、という線を強く打ち出している、そのためにダビデからイスラエルの王の系図を書き記すのに対して、ルカによる福音書はアブラハムを超えて、アダムまで、書き記すことによっろて、イエスは単に選民イスラエルの救い主だけではなく、選民を超えて全世界の救い主、その救いは異邦人にまで及ぶ救い主だという線を打ち出しているようであります。
 
 この二つの系図の違いについては、色々な議論があってよくわからないところがありますので、これ以上のことにはふれないでおきます。

 さて、イエスはいよいよ神の福音、宣教を開始しようと決意し、その行動に入ろうとするのであります。その時に一番に大事なことは、この決意が宗教的な野心ではないかどうかを厳しく吟味するということであります。そのためにイエスはわざわざ荒野にまで導かれて悪魔の試みに会われたのであります。聖書の表現によれば、これは「御霊にひきまわされた」と記されております。マタイによる福音書によれば、「御霊によって荒野に導かれた、悪魔に試みられるためである」と記されてりおます。あるいはマルコによる福音書では、「御霊がイエスを荒野に追いやった」、これは御霊がイエスを荒野に投げ出したという意味の言葉が使われているそうであります。ともかく、すべての福音書がいっている事は、イエスは神に導かれて荒野に行き、そして悪魔の試みに会われたのであります。

 その悪魔の試みの第一の試みは、「もしあなたが神の子ならば、この石にパンになれと命じてごらんなさい」ということでした。イエスはこの時荒野で四十日、四十夜何も食べていなかったので、空腹であったのです。それに対してイエスは「人はパンだけで生きる者ではない」と、聖書の言葉を引用して、悪魔の試みを退けるのであります。この言葉は、聖書の申命記の八章の言葉であります。
 
 イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野をさまよっていた時に、食べるものがなくなって、人々がつぶやきだした、こんなことならは、エジプトにいたほうがよかった、とつぶやきだした。その時に主なる神が天からマナという不思議な食物を降らせて、民の飢えを満たしてあげたというのです。それはそれによって、民が本当に神を信頼して一日一日を生きるかどうかを試すためであったのだというのです。そこで「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」と記されているのであります。パンを天からふらせてであります。

 パンを与えることによって、そのパンを神の御手からのパンとして受けとめることによって、人は「パンによって生きるのではなく、神の言葉によって生きる」ということを知らせようとしたということであります。ですから、「人はパンによって生きるのではない」ということは、断食しても人間は生きれるんだという教えではないのです。パンなんてなくても生きていけるんだということではないのです。その与えられたパンを神によって与えられたパンとして受けとめて生きよ、それが「人はパンだけによって生きるのではなく、神の言葉によって生きる」ということであります。そのためにその時には、その天から降ってくるマナを欲張って二日分貯めておこうとするな、と厳しく戒められたのであります。一日一日を神に信頼して歩めと、そのマナをたべながら、神によって生かされるんだと学べといわれたのであります。
 
 イエスはその言葉、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉を引用して悪魔の試みを退けたのであります。イエスは人間の飢えに対して決して冷淡ではありませんでした。イエス・キリストが教えてくださった「主の祈り」でも、まずなによりも「わたしたちの日毎の食物を、日々お与え下さい」と祈れと教えられたのであります。またある時弟子たちが空腹の時に、たとえ安息日であっても、麦の穂をつんで食べることを許されたのであります。ですから、イエスは決して人間の飢えに対して冷淡ではありませんでした。
 
 ここの悪魔の誘惑では、悪魔はイエスにたいして、「もしあなたが神の子ならば、この石にパンになれと命じてみよ」と言われたのです。つまり、この石をパンにしてくださいと神に祈ったらどうかと言ったのではない、あなたが神の子ならば、それぐらいの力をもっているはずだろう、神になんか頼らなくても直接石に命じてパンにしてみよ、という誘惑なのだとある人がいっております。
 
 イエスはその悪魔の誘惑を退けたのであります。イエスは後に群衆が飢えた時に、五つのパンと魚二匹で男だけでも五千人の人の空腹を満たされたという奇跡をなさいましたが、その時にはイエスはその五つのパンと魚二匹を手にとり、天を仰いでそれを祝福してさき、それをみんなに配ったのであります。「天を仰いで」ということは父なる神に祈ってということであります。その時も石に直接命じてパンにしたわけではないのです。
 
 神の子の誘惑は、人々を奇跡をもって人々の空腹を満たすということであります。御利益宗教の教祖に自分がなってしまうということであります。あのパンの奇跡をなさった時に、人々は感動して、イエスを王にしようとしたというのであります。その時にイエスはそっと山に退かれるのです。イエスはそうなるためにその奇跡をしたのではないのですが、人々はそのようにしかその奇跡を受けとめなかった。それで自分のところに来た群衆に対してイエスは、「あなたがわたしのところに来たのはしるしをみたからではなく、パンを食べて満腹したからだろう」と皮肉をいうのであります。そうして、「朽ちるパンのためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」と言われたのであります。

日々のパンを神に祈って、神から与えられものとして受けとめて生きるということが、「人はパンだけによって生きるのではなく、神の言葉によって生きる」ということであります。しかしそれは何も食べるものがなくなった時に、ただ神に一生懸命に祈れば、パンが与えられるということではないのです。具体的には、われわれはパンをパン屋さんから買うでしょうし、あるいは祈っていたら、パンが玄関にあったということがあったとしても、それはパンが直接天から降ってきたわけではなく、誰かが親切にもパンを持ってきてくれたということであります。
 
 それは確かに奇跡でしょうけれど、その背後にはだれかの親切があったのであります。われわれはパンを具体的にはパン屋さんから購入する、しかし誰もパン屋さんに自分は養われたのだといって、パン屋さんに感謝する人はいないだろう、とある人がいってりますが、われわれはそのことを通して、これは結局のところ神が与えてくれたパンとして受け止め、そして神に感謝するのであります。もしわれわれがそういう感謝をもってパンを食べていなければ、われわれの生活はなにもかも物質主義のとりこになってしまって、パンを自分の力で獲得しなければならないということばかりに思いがいってしまって、大変醜いあさましい物質主義、あるいは、出世主義の競走にあくせくする毎日を送ることになるのではないか。
 
 イエスは神の子でした、それならば、神と同じなのだから、なにも神に祈らなくても、直接石に命じてパンにしてそれを民衆にあげてもいいではないかと言われるかもしれません。あなたは神の子なのだから、何も改まって父なる神にお願いしなくても、神はあなたの願いを聞いてくださる筈だというのがこの時の悪の試みだと、ある人が説明しております。つまり悪魔はイエスに対して、神に対抗する力があなたにあるかどうかをためしてみよと、今ここで試みているのだというのです。あるいは、あなたは神の子なのだから、あなたが言いさえすれば、神の方では、仕方なしに、すぐいうことを聞いてくれるでしょう、神は自然にそうしてくださるはずだ、それがここの試みだというのです。つまり、それは神を自分の奴隷のようにして自分のために使おうとする誘惑なのだというのであります。それをイエスは今退けたのだということであります。
 
 イエスはこれから救い主として、そういう道を歩もうとはされなかった、神の子として、そうであるからこそ、ますます神に祈りもとめ、神に頼る姿勢を示して、救いの道を歩もうとされたのだということであります。そうしますと、主イエスがわれわれに、あの主の祈りのなかで、「わたしたちの日毎の食物を、日々お与えください」と祈れと言われたことの大事さが身に沁みてわかるのではないかと思います。

 エス・キリストはこの時、石に直接命じてパンにして、民衆にパンを与え、そうして自分が神の子として崇められていく、そういう道を歩まれたのではないのです。「人はパンだけによって生きるのではなく、神の言葉によって生きる」という信仰に生きることによって、自分もまた民衆のひとりとして、民衆の側に立って、パンを父なる神に祈り求める立場に立って、これからの救い主としての道を歩もうとされたということであります。