「イエスが再び来る時まで」 ルカ福音書一九章一一ー二七節

 今日の説教の箇所は、読んですぐわかりますように、マタイによる福音書の二五章にあります、あの有名なタラントのたとえと大変よく似ているのです。しかし今われわれが学んでおりますルカによる福音書のほうでは、マタイによる福音書ほどには、主題がはっきりしないで、なにか二つに分かれてしまっている、しかもこれが本当にイエス・キリストが語られた話だろうかと疑わせるような言葉があります。二七節の言葉であります。
 
「しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で撃ち殺せ」という言葉は、あの「あなたの敵を愛しなさい」といわれたイエス・キリストの言葉とどう関わるのだろうか、イエス・キリストが本当にこんなことを言われたのだろうかと疑わさせるのであります。

 今日の説教の箇所は、こういう話であります。設定は、ザアカイの家にイエスが招かれている中で、そこにいる人々に話されたのであります。
 それはイエスがこれからエルサレムに行く時が迫ってきた、つまり自分が十字架で殺される日が近づいてきたことを思い、またそれに呼応して、人々がイエスがすぐ何か決起して当時イスラエルを支配していたローマに対抗するような運動を起こして、神の国を実現させてくれるのではないかと期待していたことを知り、こういう話をしたというのです。

 ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅たつことになって、その留守の間に働くようにと、十人の僕を呼んで、ひとり一ミナづつわたして、「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」といった。そしてこの人が王位を受けて帰ってきた時に、預けた一ミナでどのように商売をしたかを決算した。ある人はそれで商売をして一ミナを十ミナにした。すると主人は「よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる」と言ってほめた。ある者は五ミナにふやした。彼には五つの町を与えた。しかしある者はその一ミナで商売をして失敗することを恐れ、それをふくさに包んでしまっておいて、そのままさしだした。そうしたらひどく主人から怒られたという話であります。これはマタイによる福音書にある「タラントの話」と非常に似ているのであります。

 しかしルカには、この話にもう一つの話が加わって話をややこしくしている。それは彼が王位につくことを好まない人々がいて、彼を憎んでいる人々がいて、彼が王位を受けに行くところに、密使を送って、「われわれはこの人が王位につくことを望まない」と告げたというのです。そしてこの人が王位をうけて帰ってきた時に、彼を王位につくことを好まなかった人々に対して、彼らを探してだして引っ張ってきて、わたしの前でうち殺せ」と言ったという話が入るのであります。この話が入るというよりは、この話が基本になっていて、枠になっていて、その中にミナの話が入っているのであります。

 タラントの話とミナの話はよく似ておりますから、いったいどちらの話が先にあったのだろうかということが議論になるわけであります。最初にあったのがこのルカの話で、それをマタイがもっとはっきりと語り直したのではないかとも思われます。またそうではなくて、イエスは別べつの場所で同じような話をこのようになさったのだということも考えられます。タラントとミナ、これはそれぞれお金の単位で、タラントのほうはミナの六十倍にあたるそうです。ある人の推測では、今日の貨幣になおしたら、一ミナというのは、今日の労働者の三ヶ月分の給料にあたる、そうしますと、約六十万円だといいます。そうしますと、一タラントは、三千六百万円になってしまって、その一タラントをマタイによる福音書のほうでは地面に隠しておいたというのですから、なにか少しおかしなことになってしまいますので、そのまま計算をしないほうがいいのかもしれません。ちなみにリビングバイブルでは、一ミナを六十万円にして、一タラントを三十万円にしてしまっております。

 ともかく、この話そのものはマタイによる福音書の話とあまり内容の主旨はかわらないと思います。問題は、その枠づけになっております彼が王位を受けるために遠いところに旅立って、その王位につくことを好まなかった人々が密使を送ってそれを阻止しようとしたということ、そして彼が王位を受けて帰ってきた時に、彼が報復したという話であります。王位につこうとしている人とは、ここではイエス・キリストにたとえられているのです。

 そのことでルカによる福音書がいおうとしていることは、明らかであります。それはイエス・キリストがこれからエルサレムに行って十字架にかかって殺され、そして三日目によみがえり、そのあと、天に上って神の右の座に座り、そしていつの日か再び終末の時にそのイエスが再臨する、再び帰ってくる、その時にイエスがわれわれを裁くということをこのたとえは語ろうとするのであります。つまりイエスが再び終末の時に帰ってくるまでに、われわれがこの地上でどのように生きなくてはならないかがここで語られているわけであります。

 それぞれ与えらた一ミナをわれわれがこの地上でどのように生かし切るかが問われているだということであります。
 これはマタイによる福音書の「タラントの話」も、内容は同じであります。
 
 問題は、繰り返すようですが、二七節の言葉「わたしが王になることを好まなかったのあ敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で撃ち殺せ」というところを、われわれは今日礼拝の説教の中でどう読んだらいいかということであります。ただそいつらを殺せというのではないのです。「わたしの前にひっぱってきて、わたしの前でうち殺せ」ということであります。これはもう報復、怨念の報復以外のなにものでもありません。

 先日アメリカで大変悲惨なことがおこりました。ただちにアメリカの大統領はテロに対しては断固として報復すると宣言しました。それに対して、日本の新聞では、まだ小さな声ではありますが、そのような報復は、復讐に対して復讐を引き起こすだけで真の解決にはならないということが出ております。アメリカでは今の段階ではそのような声はあがってはいないかもしれませんが、少し冷静になればそのことは明らかであります。

 「復讐するな、敵を七たびを七十倍にして赦せ」といわれたイエス・キリストがこのような話をするだろうかというのがわれわれがここを読んだ時の率直な思いであります。ですから、これは実際にイエスがいわれた言葉ではないのではないかと思いたくなるのであります。

 そのようにして聖書を読むのは、われわれがそれぞれ自分達の抱いているイエス・キリストに対するイメージでイエスを推し量ってしまって、イエス・キリストを人間の勝手に作り出した、いわばこうあって欲しいというわれわれの身勝手なイエスに対するイメージで、実際のイエス像を狭めてしまうことになる、だから、ここはやはりイエス・キリストがある時このように言われたのだとそのままこの言葉を受け止めるべきだという人もあります。

 そこで問題になってくるのが今日われわれが聖書をどのように読んだらいいかということであります。聖書の読み方というのが問題になってくるのであります。聖書はあくまで、そのまま聖書に書いてあるとおり、実際にイエスが話し、イエスが行動し、イエスがなさったのだと読むべきだということを主張する人々がおります。いやそうではない、聖書も結局は人間の手によって書かれたのだから、その聖書を書いた人の思想とか、生きた時代的背景というものの影響を当然受けているのだから、できるだけ、その聖書の書かれた時代の背景を探り、それをふまえて、聖書よむべきだという人々もいるわけであります。

 実際に、福音書が書かれたのは、イエスが亡くなってから、一番早くても三十年、四十年経ってから書かれたわけです。そしてまたイエスは文字にしてご自分の話したことを書き残しているわけではありませんから、あるいは今日のようにテープレコーダーのように音声として残っているわけではありません。ですから、今日われわれの手元に残された福音書は、イエスの言葉を聞いた人々の記憶をもとにして、それが時代をへて、そして人から人に伝わることによって、それを次の人に伝える間に、それぞれの人の様々な思いがこめられていって、それが元になって、今日の福音書というものができているわけです。ですから、当然、イエスの言葉をそのままイエスの言葉として受け止めるわけにはいかないのであります。

 現に同じ出来事でも、マタイによる福音書とルカによる福音書では、ずいぶん違うのであります。似ている部分のほうが多いとは思いますが、しかしやはり微妙に違うところがあります。それはやはり、マタイという著者、ルカという著者の思想というか、時代的背景というのがあって、そのような違いというものを生み出しているわけであります。あるいのはその福音書がどの人々に語ろうしているかによっても違ってくるわけであります。

 しかしわれわれは今、そのマタイによる福音書もルカによる福音書も、同じ正典として、つまりわれわれの教会の規範としての書物として、受け入れているわけです。どちらがイエスの正しい言葉だ、本当の姿だというのではなく、いわばどちらもイエス・キリストの本当の姿として受け入れているということであります。つまりそのような違いというものを与えたのが、そもそもイエス・キリストという存在そのものの幅の広さ、その存在の大きさなのだと考えていいのではないかと思います。人々にそのような多様な姿を与えたのは、イエス・キリストという存在の大きさだということであります。ですから、どちらのイエス像も間違ったイエス像ではなく、それはイエスという実際にこの地上に生き、そして死に、そして復活したかたがそのようなさまざなイエス像を福音記者に書かせたのだということであります。

 このルカによる福音書にある話、この話の枠になっている、ある人が王位を受けるために遠いところに出かけていって、ところがそれに反対するグループがあって、すぐ密使をおくったということは、イエスが活躍していた時代に実際にあったことのようです。それはマタイによる福音書の二章二二節に、「アケラオがその父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた」という記事がありますが、イエスの両親はなぜ恐れたかといいますと、このアケラオが非常に残虐な人だったからのようであります。

ヘロデ大王の息子がユダヤを治める王権を得ようと、当時ユダヤを支配していたローマまで旅立った。当時はローマの皇帝からそのような権限、お墨付きをもらわないと、王位にはなれなかったわけです。ところがすぐそのあと、ユダヤ人の代表者五十人の人がローマを訪れ、彼を王にしないようにという陳情をしたというのです。しかしアケラオはローマから王位を受けて帰り、ただちにこの五十人を殺した。この事はユダヤ人に衝撃的な事件だったというのです。そういう記述がヨセフスという人が記した古代史に残っているというのであります。イエスもその話を知っていて、それでこの話を用いたのだろうといわれているのであります。

 聖書を読む時に、あまりいちいちそうした歴史的背景を探りださなくては聖書は読めないということなりますと、聖書をわれわれは読めなくなってしまいますが、しかし聖書もやはり一つの時代的背景をもった書物であるということは確かなのでそれを無視して読むことは、かえって聖書を正しく、つまり聖書の本当に言おうとしていることを読みとれなくさせてしまうと思います。

 たとえば、今日問題になっております二七節の言葉「わたしが王位になることを好まなかったあの敵どもをここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ」という言葉を、そういう背景のもとでイエスが語られたのだと言うことになりますと、われわれはある程度納得できるのではないかと思います。この言葉は、イエスが実際にそうなさるということを言われたのではなく、そのような出来事を当時のユダヤの人々がよく知っていることをイエスも知っていて、イエスが神の子として、イエスが本当の王として再びくることを望まない人々に対して、そのような裁きがくだるという警告の言葉として語られたのだと受け取っていいと思います。

 これはイエスがこのように実際になさるということではなく、ひとつの警告の言葉だということであります。警告の言葉だから無視していいとか、重みがないものとして軽んじていいというのではないのです。あの残虐なアケラオと同じほどに、神は人間の罪に対して、つまり神を王として奉るのではなく、自分たちを王にしようとして、神を信じない人々を、神は最後の時に、終末の時に厳しく、こんなにも厳しく裁かれるのだということであります。

 われわれはこの二七節の言葉を、はじめはこれはイエスの言葉ではないのではないかと疑って、話をすすめてまいりましたが、そしてそれはある意味では当然なので、福音書に書かれているイエス像からすると、到底このようなイエスの言葉をそのまま受け入れられないわけです。それはわれわれが勝手に自分達のこうあって欲しいというイエスに対する期待像がそうさせたというのではなく、福音書をよんでいけば、当然そうなってしまうということであります。
 
そしてそれは聖書の読み方として正しいと思います。つまりわれわれは聖書を読むときに、やはり聖書には中心がある、それは十字架と復活という中心がある。そこから聖書を読み直すということが必要なのであります。聖書の言葉はどれも同じような比重をもっているのではなく、やはり十字架と復活が中心で、そこから聖書の他の言葉も読みとる、つまり解釈しなくてばならないのです。それは旧約聖書を読むときも大変必要なことであります。
 
そのイエスの十字架ということからいうと、この二七節は到底イエスの言葉ではないのではないかと思うことは、むしろ正しい読み方なのです。そうした上で、それではこの言葉をわれわれがどのように読んだらいいかということで、聖書の歴史的背景ということから考え見るということも必要になってくるのではないかと思います。

聖書には中心がある、それはイエスの十字架と復活なのであります。それが中心になって、今日の正典としの聖書が定められていったわけです。イエスの幼い頃のことが書かれている福音書のような文書は今日正典になっている四つの福音書以外にもあったようであります。イエスは小さい時から神童のような存在で、いろいろな奇跡をしたのだということを書いた書物もあったわけです。しかしそうしたことは、イエスの十字架ということからみると、本当のイエス像をあらわしていないということになって、次第に正典からはずされていったわけです。

今日の説教は今日与えられた聖書のテキストの内容よりは、聖書の読み方を考える説教になってしまいましたが、一度はそのことを考えて欲しかったのです。聖書は起こった出来事をそのまま写し取る写真のような書物ではなく、ひとりの優れた画家が描く絵画なのだ、だからそこにはただ事実を伝えるのではなく、その事実の底にある真実を描くのが目的なので、ある時にはデフォルメ、つまり誇張という手法がとられ、ある時には抽象的な描きかたがされているのだということであります。

最後に、今日の聖書のテキストの中身に触れておきたいと思います。
マタイによる福音書は、ある者には能力に応じて五タラント、ある者には二タラント、そしてある者には一タラントを与えたとなっておりますが、ここではみな平等に一ミナづつ与えたとなっております。そしてあとはその人の努力しだいで、その預けられた一ミナをどう生かすかが問題になっているようであります。タラントの話とこのミナの話と、どちらがわれわれの現実にあっているか。ある意味ではどちらもわれわれの現実のような気がいたします。
 
ただこのイエスの話の中心は、マタイもルカも、最後の僕のことであります。一ミナを主人が帰ってきた時に、そのまま差し出して、主人からひどく怒られたと言う話であります。マタイのほうでは地面に隠しておいたとなっておりますが、ルカのほうはふくさに、これは何かハンカチーフのようなものらしいのですが、そのなかに隠しておいたということであります。
 
彼はなぜそうしたか。それは彼が主人を「あなたは厳しいかたで、おあすけにならなかったものを取り立て、おまきにならなかったものを刈る人なので、恐ろしかったのです」と考えたところからそうしたというのです。すると、イエスは、この主人は結局はイエスのことをあらわしているので、イエスはといってもいいと思いますが、イエスは「悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう」と言われたというのです。ここではこの主人は「わたしがきびしくて、あずけなかったものを取り立て、まかなかったものを刈る人間だと知っているのか」と言っておりますが、ここはイエスの思いからすれば、「お前はそのようなわたしのことを思っていたのか」というイエスの悲しみが込められている言葉ではないかと思うのです。つまりそれはイエスからすれば、わたしに対する誤解だいう思いがこめられているのではないか。
 
これも他のイエスの言動から推し量る解釈になるかもしれませんが、実際のイエス・キリストは決してあずけなかったものを取り立て、まかなったものから刈り取るという酷なかたからではないことをわれわれは知っているからであります。
それどころからなかなか芽をださないいちじくの木を切り倒そうとする主人に対して、もう一年待ってください、そのまわりを掘って肥料をやってみますから、といって主人にとりなしをした園丁こそイエス・キリストだと聖書は記しているからであります。
 
つまり、この一ミナをなくすことを恐れて、そのままにしたのは、彼の主人に対する誤解がそうさせたと言ってもいいと思います。われわれも神というかたを悪いことをしたらただちに地獄に落とすかただと思いこんでいたら、われわれの人生はずいぶん暗い人生になるし、戦々恐々として、人生を送ることなってしまうと思います。

われわれはイエス・キリストを通して、父なる神はもうそのようなかたではないことを示されのです。従ってこのかたにこそ、本当の神であり、本当の王になって欲しいかたであります。アケラオは確かに残虐な人物であったようです。だからそんな人間が王になっては困ると訴えるのも当然かもしれません。しかしイエス・キリストはアケラオとは違うのです。このかたこそわれわれの王になって欲しいかたなのです。このかたこそわれわれの王にしなくてはならないのです。もう現代は神なんかいらない、われわれ人間がすべてを支配すればいいのだというところに、今日の世界の危機があると思います。もしわれわれにわれわれを超えた存在としての神を認めないとすれば、報復に対しては報復という、復讐という連鎖反応を絶ち切ることはできないと思います。

われわれはイエス・キリストが再び来る終末の時まで、それぞれ与えられた一ミナを生かしきっていきたいと思います。そのためには、あの十字架と復活において示されたイエス・キリストこそ本当の王であることを、そのかたが終末の時に実際に王となってくださることに望みをおいて、この地上での生を生きたいと思うのであります。