「石が叫ぶ」   ルカ福音書一九章二八ー四八節

 イエス・キリストはいよいよ自分が十字架で死ぬという時が来たと思い、エルサレムに向かいました。その時、イエスは「先頭に立ち、エルサレムに上って行かれた」とルカによる福音書は書きます。
 その時イエスはわざわざ子ろばを用意して、それに乗ってエルサレムに入ろうとしたというのであります。それは旧約聖書のゼカリヤ書という預言書に記されていることが、イエスにおいて成就したのだということを示すためでした。そこではこう記されているのであります。
 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたのところに来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」と預言されているのであります。ここでは、「ろばの子である子馬に乗る」とありまして、ろばが子馬になってしまって、いささか不可解なのですが、新共同訳聖書では、「雌ろばの子であるろばに乗って」となっておりますから、やはりイエスはろばの子に乗ってエルサレムに入ろうとされたのであります。

 そしてゼカリヤ書ではなぜ王がわざわざろばの子に乗って、入ってくるかといいますと、「わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。またいくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ」からだというのであります。「わたしは」というのは、「神は」ということであります。神はイスラエルから戦車を断ち、軍馬を断ち、そして戦争を断ち、国々、つまり全世界の民に平和を告げるためだというのであります。

 ろばの子に乗ってくる王は、義なる者であって、しかも柔和であって、そうすることによって勝利する者なのだというのであります。
 ろばに乗って、しかもろばの子に乗って、戦場にいったら、負けるに決まっているのです。しかしこの王はもう勝利して来たというのです。「彼は義なる者であって、勝利を得」というのです。ここのところは、新共同訳聖書では「彼は神に従い、勝利を与えられた者」と、訳されております。「義なる者」というところを思いきって「神に従う者」と訳されております。本当はろばの子にのって戦争に勝つはずはないのです。しかしここでは勝利を得るのだというのです。

 それはあのヤコブがやぼくの渡し場で、ひとり神の使いと格闘し、ついに勝ちながら、泣きながらその神の使いに祝福を求めたという勝ち方を思いださせます。そのことをホセアという預言者は「彼は天の使いと争って勝ち、泣いてこれにあわれみを求めた」と言っております。争って勝った者が逆に泣いてあわれみを乞うたというのであります。

 聖書は勝つということはこういうことなのだというのです。つまり、勝つということは、負けることなのだということであります。現にこの神の使いに勝ったヤコブはそのあと、もものつがいをはずされ、びっこをひいたというのであります。

 イエスはこれから十字架につくためにエルサレムに入ろうとしているのであります。自分が殺されるためにエルサレムに入ろうとしているのであります。いわば敵の手によって殺されるためにエルサレムに入るということであります。いわば負けるために、エルサレムに入るのであります。その時にわざわざ面倒くさい手続きをしながら、ろばの子に乗って、エルサレムに入るのであります。それははイエスにとっては、それこそが本当の勝利の道だからという思いがあったからであります。

 イエスはいよいよエルサレムの都が見えて来た時、泣いて言われた。口語訳の聖書では、「いよいよ、都の近くとにきて、それが見えたとき、そのために泣いていわれた」となっておりますが、「そのために泣いて」という訳はよくわからない訳であります。なんのために泣いたのかこれではよくわかりません。新共同訳聖書では、「都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて」と訳されておりますから、イエスはエルサレムの都のために泣いたのだということのようであります。なぜイエスは泣いたのか。それはその次の文章をみるとわかります。 
 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら、・・・しかし、それは今おまえの道に隠されている。いつかは敵が周囲に塁を築き、おまえを取り囲んで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである。」

 イエスがこれから歩もうとする十字架の道、自分が死ぬ道、つまりは自分が負ける道、それこそが平和の道なのだ、そのことを今エルサレムの都の人々は知らないというのです。だからやがて周りの国に滅ぼされることになる、というのであります。そして事実この時から七○年経って、エルサレムの都はローマ軍によって破壊されてしまうのであります。
 
 イエスはこの時、「もしおまえも、この日に平和をもたらす道を知っていさえしたら、・・しかし、それは今おまえの目には隠されている」と言っております。しかし今日われわれにはもう隠されていないのです。イエス・キリストの十字架のことはもう今日全世界に隠されていない筈なのであります。それなのに、今日まだこの平和の道を歩むことはできないでいるのであります。

 もちろんこのことは容易なことでないことは痛いほどわかります。個人と個人の争いにおいても、これを実際に行うということは容易なことでないことは明らかであります。自分の問題になったら、こんなことは言っておれないということも明らかであります。まして、これが国家と国家の問題、あるいは、国家とテロの問題となった時に、こんなことで平和の道が来る筈はないと誰でも思うかもしれません。

 しかしこの時のこのイエスの言葉が、今日実際にこの通り実現されるかどうかはともかく、この言葉は今や隠されていないということはあきらかであります。このイエスの言葉は個人の問題においても、国家の問題としても、重みのある言葉として今日あるということは、われわれは知っておかなくてはならないと思います。実際問題としては、イエスが歩まれ、イエスが言われた通りに行うことはできないと思います。しかしこの言葉が今や隠されてはいない、報復に対しては報復という道では真の平和は来ない、その事はもはや隠されていない、そのことを知って報復するのと、それを全く念頭に置かないで行動に移るのとではやはり違ってくると思います。

 イエスはエルサレムの都が近づいた時に、その都のために泣いたというのです。福音書には、イエスが泣いたと記されている箇所は、ここのところとラザロが死んだ記事だけのようであります。イエスはラザロが死んだことを知り、そのことを、その姉妹たちが泣き、そのまわりのユダヤ人も泣いているのをみて、深く心を動かされ、イエスご自身も涙を流されたという箇所であります。

 もっともヘブル人への手紙には、イエスの生涯を短く記して、「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いをささげ」とありますから、この二カ所だけでなく、イエスはその生涯において何回も涙を流されたこともあったかもしれません。
 
 われわれは愛する者が死ぬときは、本当に悲しく涙をながさざるをえません。イエスが涙を流されたのを見て、人々はイエスが「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」と言ったと記されております。

 しかしわれわれは今日学んでおります聖書の箇所、イエスがエルサレムの都を見てその都のために泣いたという涙をながすことはあまりないのではないでしょうか。イエスは、エルサレムの人々が本当の平和の道を知らないで、今自分を十字架につけようとしている、それで自分たちは勝ったと思っている。しかしそれはやがて彼らに滅亡の道を歩ませることになる、それを思って、それを予想して涙を流さざるをえないというのであります。

 われわれは自分が何か悔しいことがあると泣くかもしれません。また自分の愛する者が今不幸な目に会っている時には泣きます。しかし、ある人が今はたとえ幸福そうでいても、やがて彼のこれからの歩みにおいて、そうした歩みかたをしていたら、やがて不幸がおとずれる、滅亡の道をたどると予想して涙を流すということはあまりないのではないでしょうか。しかもその人は自分の意見を聞かずに、自分に反抗し、自分とは違う道を歩むのを見て、怒るのではなく、あるいはざまあ見ろというのでもなく、あるいはもうあきらめたり、もう勝手にしろというのではなく、涙を流すということはわれわれはしないのではないか。

 今イエスはご自分を十字架につけようとしているエルサレムの人々のことを思い、その将来がやがて滅亡の道をたどることを思って、泣いたというのであります。子どもが親に反抗し、そして自分勝手な道を歩みだす、それは親から見れば確実に子どもにとって滅亡の道であることがわかっている時には、親も子の将来を思い、涙を流し、悲しむと思います。今イエスはそのようにわれわれ人類の将来を思い涙を流されているのではないか。

イエスはそのようにしてエルサレムの都を嘆かれたあと、エルサレムに入りますと、なによりも先にまず神殿にいきました。そして神殿を商売にしている人々を追い出し、「『わが家は祈りの家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」といわれたというのであります。いわゆる「宮清め」をなさったのであります。このことについて、この次の説教で学びたいと思います。

イエス・キリストがろばの子に乗ってエルサレムに入って来ようとした時、イエスを慕う人々は、ルカでは、大勢の弟子達は、となっておりますが、ともかくイエスを慕う人々はみな喜んで、彼らが見たすべての力あるわざについて、声たからかに神を賛美していった、「主の御名にってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」と賛美したのです。彼らはイエスがなぜろばの子に乗ってエルサレムに入ろうとしたのか、その真意は理解していないようであります。ルカによる福音書は「彼らが見たすべての力あるわざについて」賛美したと記されているからであります。これから十字架につこうとしているイエスを期待して、賛美したわけではないようであります。しかしそれでも人々はイエスが何かをしてくれるだろうと期待して賛美したのであります。

 それを見て、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに、「先生、あなたの弟子達をしかりなさい」といったというのです。このパリサイ人たちはイエスに対して敵対意識をもっていた人々ではなく、むしろ尊敬の念を抱いていた人々のようであります。それでこんな騒ぎを起こしてエルサレムに入ろうとしたら、たちまちあなは捕まりますよ、と忠告する意味で言ったようであります。それに対してイエスはこういわれます。

 「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう。」
 石が叫ぶということはどういうことでしょうか。この言葉を連想させる聖書の言葉が旧約聖書のハバクク書の二章にあります。「わざわいなるかな、災いの手を免れるために高い所に巣を構えようと、おのが家のために不義の利を取る者よ。あなたは事をはかって自分の家に恥じを招き、多くの民を滅ぼして、自分の命を失った。石は石垣から叫び、梁は建物からこれに答えるからである」とあります。ここで言われている「石は石垣から叫び」というのは、そういう不正をしている者に対して、普段は沈黙している石ですら、そのことを告発して叫び出すというような意味であります。

 このことでわれわれが思い出す言葉は、カインに殺されたアベルの血の叫びであります。カインによって不条理にも殺されたアベルの血は土の中から神に向かって叫んでいるという神の言葉であります。
石にしろ、土にせよ、普段は沈黙しているものであります。しかし人間の不正に対しては、その普段は沈黙している石ですら、土ですら、叫び出すというのであります。

 しかしここでイエス・キリストが「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」という言葉は、不正を告発するとか、あるいは殺された者の怨念の叫びでもなく、人々が神を賛美する言葉を封じ込めるとするならば、石も叫ぶということであります。この時人々は、まだまだ本当の意味で神を正しく賛美しているわけではないのです。ただイエスのなさった奇跡を見て、なにか自分達にいいことをしてくれるだろうと期待して、神を賛美しているのです。しかしそうであったとしても、ここではともかく馬に乗っていさましくエルサレム入城しようとするイエスではなく、平和の象徴であるろばの子、あるいは愚直、愚かさの象徴であるろばの子、重い荷物を背負って黙々と歩くろばの子、そのような意味で柔和の象徴であるろばの子に乗って、エルサレムに入ろうとしているイエスを歓迎し、そのことで神を賛美しているのであります。

 われわれも神を賛美する時に、いつも正しく神を賛美しているとは限らないかもしれません。はなはだ自分勝手な思いで、神を賛美しているかもしれません。しかしそれでもこの時、イエスはその賛美を退けようとはしないで、この賛美の声を黙らせたならば、石が叫ぶ、と主イエスはいわれたのです。われわれがともかく神に向かって頭をあげて神を見上げて、神を賛美する時に、イエスはどんなに喜ばれているかということであります。それはともかく神を見上げているからであります。

 不正を告発する、あるいはは怨念の叫び声をあげる、その表現として、われわれは石が叫びだすとか、土が叫ぶとか想像しますけれど、神を賛美するために、もしわれわれが神を賛美しなくなれば、石が神を賛美しだすとはあまり思わないのではないかと思います。

 われわれが日曜日毎に行っております礼拝がなによりも、神を賛美する礼拝にしたいと思います。心から神を賛美する礼拝でありたいと思うのであります。