「イエスの権威」 ルカ福音書二○章一ー八節

 主イエスがエルサレムに入って、ある日神殿で教えておられた時、祭司長、律法学者たちが、長老と共にイエスに近寄ってまいりました。つまりイスラエルの最高機関の人々が徒党を組んでイエスのところに来たわけです。そしてこういいます。「何の権威によってこれらの事をするのか。そうする権威をお前に与えたのは誰か。われわれに告げよ」と、詰め寄ったのであります。
 
 「何の権威によってこれらの事をするのか」という「これらの事」というのは、イエスがエルサレムの都に入った日に、イエスがまずエルサレム神殿に行って、そこで商売している人たちに対して、「『わが家は祈りの家であるべきだ』」と書いてあるのに、あなたがたは強盗の巣にしてしまっている」と言われて、その商売人たちを追い出してしまったということを指しているようであります。

ルカによる福音書には書いてありませんが、マルコやマタイによる福音書には、両替人の台や、はとを売る者の腰掛けをくつがえされたと記されております。またヨハネによる福音書には、「なわで鞭を作り、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくり返し」と記されていて、福音書の中でただ一度イエスが暴力的な行為をしたという記事であります。
 
イエスはなぜそんなに怒ったのでしょうか。
 このエルサレム神殿でそういう商売が行われているのは、遠くからエルサレム神殿にお参りにくる人々のための商売であります。神殿に捧げる小羊や、そして小羊を捧げることができない貧しい人々はその代わりに鳩を捧げるのですが、そうした小羊や鳩は遠くからもってくるわけにはいかないわけです。またその小羊や鳩は無傷のものでなければならない。これらは無傷であるという証明書が必要とされたわけです。

そのために、そうした遠くから来る巡礼者のために、そうした羊や鳩などが、無傷であるという証明書つきのものが、神殿の境内で売られていたわけです。それはいわば祭司たちの独占企業になっていたわけです。祭司達が直接商売していたわけではないでしょうが、それを商売人からその売り上げを徴収していたわけです。その際に、それは独占企業ですから、不当な価格で売られていたようであります。
また両替人がそこにいたということは、当時流通している貨幣はローマの貨幣です。そこにはローマ皇帝の像が刻まれております。ですから、ローマ皇帝は自分を神にしておりますから、そんなものが刻まれている貨幣を神殿に捧げるわけにはいかないので、ローマ皇帝が刻まれていない貨幣と両替しなくてはならなかったわけです。そしてその際、その両替も不当な利ざやがかけられていたようなのです。そうした収益はみな祭司達のふところに入るわけです。
 
せっかく遠くから神様を礼拝に来る人々、その貧しい人々を利用して、儲けようとしている商売人、その背後にいる祭司達に主イエスは憤り、お前たちはこの神殿を強盗の巣にしてしまっていると言って、怒ったのであります。この家は祈りの家の筈なのに、お前たちは遠いところから祈るために来る人々を阻んでいると言って怒ったのであります。貧しい人々のなかには、そのあまりにも不当な価格のために神殿に捧げる鳩も買えないで、すごすごと帰った人もいたのかもしれないのです。イエスはただ商売して利益をあげることを怒ったのではないのです。そうではなくて、せっかく人が礼拝しようとしている、その信仰を妨害することにイエスが怒ったのであります。

今、祭司長たちがイエスに向かって「何の権威でこれらのことをするのか」というのは、ただ何の権威もないイエスが神殿でそんな権力をふるったことを怒ったということだけでなく、自分達のそうした商売からの上がりがなくなることに腹を立てていたのかもしれません。

 ともかく、それは自分達の沽券にかかわるということで、彼らは今イエスに詰め寄ったのであります。それに対してイエスはなんと答えたか。
 「わたしもひと言たずねよう。それに答えて欲しい。ヨハネのバプテスマは、天からであったか、人からであったか」といいます。それに対して彼らはそのバプテスマが天からのものか、人からのものかを答えることができなかったというのです。
 
バプテスマのヨハネというのは、イエスの道ぞなえをした人物です。イエスが現れる前にヨルダン川で人々に悔い改めを迫って、悔い改めのバプテスマを授けていた。多くの人々がそれに応えて悔い改めのバプテスマを受けたのです。イエスもまたご自分は罪を犯していない神の子でありながら、ヨハネから悔い改めのバプテスマを受けたのであります。しかし祭司長はじめ、律法学者、長老たちお偉方は、受けようとはしませんでした。それでイエスは彼らにその質問をわざとするのであります。
 
つまり、もしそのヨハネが天から、つまり神から遣わされた預言者であるならば、どうしてそのバプテスマを受けなかったのかということになるし、またいやヨハネなんかは単なる人間的な思いでそうしただけだといったら、ヨハネからバプテスマを受けた民衆は黙ってはいないことになる、どちらにせよ、それを今明らかにすることは自分達に不利になると思ったのであります。それで彼らは「どこからか知りません」と、言わざるを得なかったのであります。
 今イスラエルの最高の権威をもっている彼らは、ただ民衆を恐れて自分達の思っていることを口にできなかったのであります。

 権威とはなんでしょうか。辞書をひきますと、最初にでてきますのは、「人に強制し、人を服従させる威力」とでております。そして第二に「人を納得させるだけの信頼性があること」とでております。その道の第一人者、専門家という意味であります。ある人が権力と権威の違いを、権力は実力がともわなくても、人を服従させる力のことをいい、権威というのは、人を納得し、服従させるだけの中身がともなっている場合だと説明しております。中身がないのに、実力がないのに、人を強制し、服従させるのは、権威というよりは、権力であります。ですから、この辞書に載っている第一の定義は、権威の定義というよりは、権力の定義であります。権威というのは、本当は人を納得させるだけの信頼性があるものなのであります。

 主イエスが話をすると、人々は驚いたというのです。なぜかといいますと、イエスの話し方、またその話の内容は、それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからであるからだと聖書は記しております。イエスは中身があったのです。内容があったのです。律法の解釈、理解という点では、他の律法学者以上に人々を納得させるたけの深いものをもっていたのであります。
 
 その道の権威者ならば、だれがなんと言おうと、自分の考えに自分主張に自信がありますから、だれをも恐れずに、自分の考えを述べ、自分の考えを主張できるはずであります。

主イエスにはその実力がありました。ある時中風の者が連れられてきた時に、イエスは「あなたの罪は赦された」と、いきなり宣言して、その人を励ましました。すると、そばにいた律法学者たちが「この人は神を汚している、神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができるか」と、心の中でつぶやいた。その時イエスはそのつぶやきを見抜き、イエスは「人の子が、つまりわたしはということです、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることがあなたがたにわかるために」と言って、中風という病そのものをいやし中風の者に「起きて床をとりあげて家に帰りなさい」と言われたのであります。イエスはその病をいやすことのできる実力があったのです。病そのものをいやす力をもっているから、今権威をもって「あなたの罪は赦された」と宣言することもできたのであります。
 
 イエスは祭司長たちが、ヨハネのバプテスマが天からのものであったか、人からのものであったかという問いに答えられないの見て、あるいは初めから答えられないのを予測して、わざとその問いをしかけているわけですが、彼らが答えられないのを見て、イエスは「わたしも何の権威によってこれらのことをするのか、あなた方に言うまい」と、言います。

 これは多くの聖書注解者は、この時イエスが自分は神からの権威を与えられていて、その神からの権威で、宮きよめをしたのだと答えたら、たちまち神を冒涜するものだということで捕らえられてしまうから、イエスはそう言われたのだと説明します。イエスはこの時にはまだまだしなくてはならないこと、いわなくてはならないことが沢山あったから、いま一時そのことをあきらかにすることを避けたのだ、祭司長たちに決定的な言質を与えることを避けて「わたしも何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがにいうまい」と、言われたのだと説明いたします。わたしも今までそう解釈しておりました。

 しかし今度改めてここを読んでみまして、少し違うのではないかと思うようになったのです。それは自分が宮きよめをしたのは、何かの権威をもってしたのではない、誰かから権威を授けられているから、宮きよめをしたのではない、「何かの権威によって宮きよめをしたのではない」と、言いたかったのではないかということなのです。「あなたががわたしの問いに答えないのなら、わたしもあなたがの問いには答えるのをやめよう。なぜならわたしは何かの権威によってこのことをしたのではないからだ」という意味を込めた言葉ではないかと思います。
 
 神殿を不当な利益を得るための商売の場所にしてしまう、せっかく遠いところから来る巡礼者の信仰を阻んでしまう商売、それは誰が見たってけしからんことなので、誰がみたって、してはいけないことなのであります。ただ人々は祭司長たちを恐れて、それがけしからんことだと言えなかった、それが不当な商売だとは言えなかった、それを今イエスは自分が、いわば命をかけて行ったのだ、そのことをイエスは今言おうとしているのではないか。宮きよめということは、何か権威を傘にしてやったのではない、当たり前のことを当たり前としてやっただけなのだと、つまり「自分は何かの権威のもとで、何かの権威を傘にして行ったのではない」と、イエスはここで言っているのではないか。
 
 もしここで自分は神からの権威を受けていて、こうしたのだという決定的な言質を祭司長たちに与えたくないから、それをここで明言しなかったのだということならば、イエスは初めから宮清めなどしなかった筈であります。宮清めをしたということは、もう決定的に危ない橋をわたってしまったということであります。

 イエスが今ここで問題にしているのは、祭司長たちの権威であります。彼らが自分達自身はなんの実力も中身もないくせに、ただ権威を傘にして人々を裁くというやりかたであります。祭司長たちがもし自分たちの権威を主張するならば、彼ら自身が真剣に神の前にひれ伏し、神に服し、神を礼拝している生活をしている、それが彼らの権威の中身でなくてはならない筈です。しかし彼らにはそうした中身はない、ただ権威を傘にして人々を裁いているだけなのであります。

 それでは権威というのは意味がないのか。聖書では、権威というものを認めないのか。そうではないのです。イエス自身権威に従うということの大切さを認めております。

 ある百卒長のしもべが中風でひどく苦しんでいたので、イエスに訴えた。するとイエスは快く「お前の家に行こう」というのです。すると彼はこういいいます。「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉をください。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいて、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えば、きますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」といいます。するとイエスはこれを聞いて非常に感心され、「よく聞きなさい、イスラエルの人の中にもこれほどの信仰をみたかことがない」と言われたのです。

 信仰というのは、ある意味では、権威に服するということなのです。神の権威の前に服する、それが信仰なのであります。この異邦人の百卒長にはそういう姿勢がありました。ところが選民イスラエルには今その信仰は失われてしまったとイエスは嘆くのであります。

 パウロも「すべての人は、上に立つ権威に従うべきだ、なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからだ。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である」というのであります。
 
 信仰というものは、権威に服するということでもあるのです。それは神のみを権威ある者として、その神に服するということであります。それは言葉を変えていいますと、自分を神にしない、自分を絶対化しないということであります。

われわれの教会、われわれの日本基督教団もまた権威というものを認めている教会であります。たとえば、聖餐式の執行は、正教師になった者しかゆるされません。われわれの教団では、牧師になるものは、教団が実施します、教師検定試験というものに合格して、まず補教師になります。そして補教師として二年経験を積んだものが、今度は正教師試験というものを受けます。それに合格したものが、按手礼を受けて正教師になるわけです。そのようにして正教師になった者が初めて聖餐式を執行できるという規則になっております。

今は教団ではそのことが問題になっていて、牧師に正教師と補教師と二つに分けるのはおかしいという議論が行われております。あるいは、聖餐式を執行できない教師というのは、おかしいから補教師でも聖餐式を執行できるようにしようという動きがあります。特に地方の教会に補教師のまま主任牧師としていきますと、たいへん困るのです。聖餐式の度によその教会から正教師の牧師を呼んできて聖餐式をしなくてはならないからであります。それはいろいろと問題がありますけれど、ただ教団では一定の手続きをふまえて、試験に合格した者が教師として認定されて聖餐式を執行する資格を与えております。いわばそうする権威を与えているのであります。それはある意味では形式的な手続きなのです。
 
そんなものは形式的なものであるから、意味がない、だから信仰さえあれば、そんな人間が行う試験などに合格しなくたって、聖餐式を執行すればいいのだという議論もでてきます。現にそういう教派もあります。
 しかしわれわれの教団では、そうしたことはしておりません。なぜかといいますと、自分に信仰があれば、聖餐式も執行してもいいではないか、説教をしてもいいではないかとなりますと、いつのまにか自分勝手になってしまう、自分の信仰とか、自分の判断が絶対化されていく、それは一番恐ろしいことだとわれわれは知っているからであります。
 
ですから、自分を絶対化しないために、権威に服するという信仰の一番大切なものを学ばさせるために、自分勝手な思いこみを阻止するために、そうした面倒な手続きをして、権威に服させるために、そうした教会制度というものをわれわれの教団では大切なものとして保持してきたわけであります。

 それでは、正教師になった者は、どういう思いで聖餐式を執行しているか。それは自分は聖餐式を執行できる資格が与えられ、そういう権威をもったのだから、その権威を傘にして聖餐式を執行しているのではないのです。むしろ、自分にはとても聖餐式を執行できる資格とか中身とか信仰とかない、しかしそういう自分が今神からその権威を与えられている、授けられている、だからその権威をさずけてくださった神にますます謙遜になって、ますますへりくだって、その神の権威に一層服して、聖餐式を執行するのであります。
 あるいは説教においても、神の言葉である聖書、正典としての聖書に自分を服させて、神の言葉を伝えようとして、説教にあたっているのであります。つまり説教においては、できるかぎり自分の思想とか自分の考えを述べるのではなく、神の言葉としての聖書の言葉を述べようとして、説教に当たっているのであります。そのように聖餐式を執行する牧師自体、説教する牧師自身が神の権威に服従している、だからそれを受け、説教を聞く信徒も神の権威のもとに服し、牧師の語る説教を神の言葉として受け止めることができるのではないか。
 もし牧師がただ正教師試験に合格したから、按手礼を受けたから、それを権威の傘にしてふるまわれたら、とうてい信徒は牧師に服するなんてことはできないと思います。

 われわれの信仰では、権威というものは、神の権威しかないのです。そしてもし人間に権威というものがあるとすれば、それは神から与えられた権威、神から授かった権威なのです。牧師のもっている権威というのは、あくまで授かった権威であります。そうであるならば、権威を与えられた牧師は、権威を与えてくださった神の前に他の人以上に謙遜にへりくだり、その神に服さなくてはならないのであります。
 権威を傘にして人を裁くとか、自分を主張するなどということはあってはならないのであります。

 イエスも、あの権威のもとに服している百卒長の信仰を大変感心されました。そしてイエス自身も父なる神のもとに服してその歩みなさったのです。だからイエスは十字架で死のおうとされたのであります。ゲッセマネの園で、「わたしの思いではなく、あなのみこころがなりますように」と祈り、自分が十字架で死ぬことがあなたのみこころならば、それに服しますといって、十字架の道を歩んだのであります。主イエスはその生涯、あくまで神に従順に歩まれたのであります。神の権威に服したのであります。しかしイエスは一度もその権威を傘にして行動をしたことはないのです。 

おおよそ宗教上の権威というのは、権威を傘にして行動するためにあたえられものではなく、権威のもとに服するために与えられたものであります。自分を絶対化させないために与えられるものであります。人間を絶対化させないためにある権威であります。
 
今宗教上の権威は、とわざわざ言ったのは、この世では警察の権威とか国会議員の権威とか、政府の権威というものがあるから、そういったのですが、そうした権威はこれは神からの権威ではなく、われわれ民衆が与えた権威、われわれが委託した権威であります。その権威はわれわれの選挙で選ばれ、それによって委託された権威だからであります。

自分を絶対化させないために、自分勝手な生き方をしないために、自分が権威の傘をきて行動しないために、われわれは主イエス・キリストによって示された神の権威の前にひれ伏していく人生を歩みたいと思います。