「神のものは神に返す」 ルカ福音書二○章一九ー二○節
 
 イエスはぶどう園のたとえを語り、律法学者、祭司長たち、当時の指導者たちが自分を殺そうとしているのだと民衆に語った時、彼らもそのイエスの話を聞いていて、これは自分たちについて語っているのだということを悟り、イエスを捕らえようと致します。しかし民衆はこの時はまだイエスを尊敬しておりましたから、このようにな時にイエスを捕らえてしまうと、民衆の間に騒ぎが起こることを恐れて、その場はやり過ごしました。彼らは機会をうかがい、義人を装うまわし者を送って、イエスの言葉じりをとらえて、イエスをローマに反逆する者としてローマから派遣されているピラトに引き渡そうとしたのであります。

 彼らはやって来て、「カイザルに貢ぎ、つまり税金のことですが、貢ぎを納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」と尋ねるのであります。カイザルというのは、もともとは個人の名前でしたが、後にローマの皇帝の称号としてもちいられるようになりました。今イスラエルはローマの統治下にあって、イスラエル人でありながら、カイザルに、つまりローマに税金を納めなくてはならないわけです。その税金をおさめなくてはならないのですか、とまわし者を送ってイエスに尋ねさせているわけです。
 
 もしイエスがカイザルに税金など納めなくていいと答えれば、民衆を喜ばせたかもしれませんが、ローマに対する反逆だということで、たちまち捕まえられる口実与えわけです。また税金を納めるべきだと発言すれば、民衆から失望されたからであります。イエスもただの人にすぎないと思われたからであります。ですからどっちにせよ、イエスは困る立場に立たされるわけであります。
 
 イエスの答えはなんであったか。イエスは彼らの悪巧みを見破っていわれました。「デナリをみせなさい。それにあるのは誰の肖像か、だれの記号か」と聞きます。彼らは「カイザルのです」と答えました。当時流通していたデナリ貨幣には、ローマの皇帝カイザルの肖像が刻まれていたのです。それでイエスは「それでは、カイザルのものはカイザルに返せばいいだろう」と答えたのであります。カイザルに税金を納めればいいということであります。
 しかしイエスはその後にこう付け加えました。「神のものは神に返しなさい」と。それを聞いて、彼らはイエスの言葉じりをとらえられないどころか、その答えに驚嘆して黙ってしまったというのです。

 なぜ彼らはイエスの答えに驚嘆して黙ってしまったのか。それはイエスが、そのデナリにはカイザルの肖像が刻まれているから「カイザルのものはカイザルに」と言ったということもあるかもしれませんが、それ以上に、その後の言葉「神のものは神に返しなさい」という言葉がに対してではないかと思います。

 イエスがローマに税金を納めなくてはならない理由として、デナリにはローマの皇帝の肖像があるから、その肖像が刻まれている貨幣はローマに納めればいいというのは、本当はひとつも理由にはなっていないのです。一種のへりくつに過ぎないのです。

 イエスはここでローマに税を納めるべきかどうかをめぐって、このへりくつをもって答えたということは、イエスが真面目にこの問題に答えようとしていないということであります。今はローマに税金を納めるのも仕方ないではないか、というくらいの答えであります。ですから、ここでイエスは積極的にローマに税金を納めるへきだと答えたわけではないようであります。いまローマに支配されているという現実のなかで生きるには、これは仕方ないことだという答えであります。

 ルカによる福音書にはないのですが、マタイによる福音書だけに記されている記事ですが、イエスの弟子のひとりペテロはある時、「あなたの先生は神殿に税金をおさめないのか」と、聞かれたことがあります。どうもイエスはそれまで神殿税を納めていなかったようなのです。それでペテロはあわてて「そんなことはありません。納めています」と言いつくろいました。それを聞いていたイエスはペテロに「この世の王様は税や貢ぎものを自分達の子どもからとるのか、それとも他の人々から取るのか」と聞きます。ペテロが「自分たちの子どもからではなく、民衆からです」と答えますと、イエスは「それでは王の子は税金を納めなくてもよいわけだ」といいます。

つまり自分は神の子なのだから、神殿に税金を納めなくもいいということになるというわけです。しかしイエスはその後、ペテロに「それでは、子は税を納めなくてもいいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないために、海にいってつり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると銀貨一枚がみつかるだろう。それを取り出して、わたしとおまえのために納めなさい」というのであります。なんともふざけた話であります。
 
ここでもイエスは税を、それはローマの皇帝のためにではなく、神殿に納める税ですが、それをあまり積極的に納めたくなかったようです。なぜイエスの目からみれば、今神殿は祈りの場ではなく、礼拝する場ではなく、祭司達によって盗賊の巣になってしまっているからであります。しかし今自分は神の子なのだから、納めなくてもいいといいはじましたら、「彼らを躓かせることになるから」といって納めさせるわけですが、それは本当はイエスの弟子達をつまずかせないために、ということだろうと思います。そう言って税をおさめさせているわけです。 しかもその税の納めさせかたは大変ユーモラスな納めかたをさせているわけであります。
 
いわば、なにがなんでも真面目に税金をおさめなくてはならないと、肩肘を張っておさめさせてはいない、仕方ないから、この場面では仕方ないから納めておきなさいといわんばかりの納めかたをさせているのであります。

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」というイエスの言葉は、人々に衝撃的な印象を与えたようであります。それはわれわれ信仰者が、つまり神を神として信じるわれわれが、この世に生きるにあたっての、つまり、もうひとつの小さな神々、この世のいろいろな権力をもった人々とのつきあいかたをどうしたらいいかということで、ひとつの示唆を与えている言葉であります。

 われわれはこの世に生きていく限り、この世的な、つまりカイザル的なものとどう対処して生きていくかということが重要になってまいります。税金の問題ひととっても、その税金がすべてわれわれ市民のために正しく用いられれば、われわれは喜んで納めるでしょうが、かならずしもそういうわけにはいかない、自分の思想とは違ったもののために用いられることはいくらでもあるわけです。
 
 あるいは、会社で働く場合も、会社は利益を上げるということが最優先課題でありますから、そのためには、ある意味ではなんでもしなくてはならないわけです。前に息子が会社をもうやめたいと言ってきたことがあります。彼は営業でした、その会社はタイルの会社でしたが、そのタイルを売るためには、業者を接待しなくてはならない、上司のやりかたを見ていると、業者との関係を保つためには、場合によっては、いわゆる女の世話までしなくてはならないことが今後でてくるかもしれない、しかし自分には到底そんなことはできそうもない、だから会社をやめたいと言って来たのです。そういうこともあるわけです。

 もっと深刻なのは、戦争が起こった時であります。鶴見俊輔は、日本とアメリカとが戦争に突入した時に、留学生としてアメリカにおりました。日本人としてアメリカで捕らえられ、そして日本に強制送還された。彼は徴兵されそうになったときに、みずから志願して海軍に入ったそうです。もし陸軍に徴兵されたら、いやがおうでも敵を殺されなくてならないかもしれない。海軍だったら、直接自分の手で相手を殺さなくてもすむかもしれないとずるく考えたわけです。

この戦争は日本が負けるとわかっていた。せめて自分は自分の手で人を殺したくない、そうなるときには自分で自分を殺そうと思って海軍に入ったというのです。そうしてこういうことを言っています。
 
「わたしの覚えているかぎり、私は人を殺さずに戦争をくぐり抜けた。それは偶然に助けられたからだ。別の偶然のくみあわせがあれば、殺すことはあり得た。だが、そういう場合にも、血でよごれた私の手を人前にさらして、私は人を殺したが、人を殺すことは悪いというようでありたいという理想を私はもっている。そうであるとしても、そういう自分の個人的な理想などおしつぶしてしまう圧倒的な存在の重さがある。存在にもてあそばれて、右に左にゆれうごくような自分であり、自分はそういう軽いものであるにすぎないということを、私は知っている。」と書いているのであります。
 
彼は自分の弱さ自分の悪というものを徹底的に知っている人であります。人を殺したくない、しかし自分は弱いから、場合によっては人を殺してしまうかもしれない。その時でも、人を殺したことは悪いという思いだけは持ち続けようと思う。それは自分の理想だというのです。しかしその理想だって押しつぶされるかもしれない。その時には、人を殺して、人を殺すことは悪いという自覚も隠してしまって、自分の犯した悪に眼をつぶるようになるかもしれないと言っているのです。
 
しかし自分の中にはそのような自分の弱さと自分の二重三重の悪があるということだけは記憶しておこうというのであります。鶴見俊輔という人はそういう自分の中にある弱さと悪を徹底的に見つめながら、平和運動をしたり、政治活動をしたり、ものを書いております。つまり彼は自分自身の正義感というものをいつも相対化してみる、自分の正義が正しいという見方、それを人に押しつけようとはしない、彼の著作活動で一番大きななものは「転向」をあつかったものなのですが、つまり思想上の転向、あるいは背教といってもいいかもしれませんが、彼は転向というものは絶対に悪だという立場からは論じてはいないのであります。こういうことも言っているのです。
 
「政治とは、現状についてのひとつの決断であり、それは今の状況を計算しつくした上での決断にはなりにくいので、私の決断は、つねに保留のかっこつきである。注意したいのは、自分の立場の変更について自覚することであり、その立場の移動を記憶しておくことだ」というのであります。
 鶴見俊輔がいいたいことは、どんな場合にも自分を絶対化してはならないということであります。

 「カイザルのものは、カイザルに、神のものは神に返しなさい」ということは、もしわれわれが神のものを神に返すということ、つまり神のみを神として礼拝する、神のみを絶対なものとして、それをすえて生きるときに、他のすべてのことは、相対化して生きることができるということであります。相対化して生きるということは、自分の考え、自分の正義、自分の倫理感が絶対にまちがっていないといって、人に押しつけないで生きるということです。もしかしたら自分の判断とか自分の選択は間違っているかもしれないと自覚しながら生きるということであります。そうしたら人を絶対的に裁くことはなくなるのであります。

 「カイザルのものはカイザルに」ということは、政治上の一種の妥協的な生き方であります。本当はローマに税金など納めたくないのです。そういうグループが当時のイスラエルにはいたのです。熱心党といわれている人々です。イスカリオテのユダはその熱心党にいたのではないかともいわれております。それでユダはイエスがその熱心党のひとりとして反ローマ運動に加わってくれるのではないかと期待していたのではないか、しかしイエスはいっこうにそういう方向では動かないで、自分が捕らえられて死ぬといいだしたので、彼はイエスに失望してイエスを敵の手に売り渡したのではないかともいわれております。 
 その熱心党の人々は、自分たちの政治運動に反対する人々を、つまり自分たちの同胞のものを迫害し、殺していったということもあったようであります。

 「神のものを神に」という生き方は、これを実践しようとしますと、大変難しいのです。われわれは神の名を使って、自分の正義を、ある場合には、自分の信仰すら神にしてしまう、神をわたしの神にしてしまって、人を裁き、人を迫害し、人を殺していってしまうからであります。宗教戦争というものがいかに恐ろしいかはわれわれは現在経験しているところであります。
 
 聖書の十戒の一番初めの戒めは「わたしのほかに何者をも神としてはならない」であります。その次には「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」という戒めが続きます。つまり、神は唯一である、その神以外のものを神にしてはならないということは、ほかの神々を造ってはならないということです。そしてそれは自分のために、人間の都合にいい、自分に都合のいい神を造ってはならないということなのです。
 
それはつまり神の名において自分の正義を絶対化してはいけないということであります。自分の信仰すら、これを絶対化してはならないということであります。偶像を造ってはいけないというのは、神を眼に見えるかたちにあらわしてはいけないということよりは、自分のための神を造ってはいけないという、「自分のために」ということの禁止であります。
 
 つまり、神を神として崇めるということは、何よりも自分を神としてはならないということ、自分を絶対化してはならない、自分の考えを絶対に正しいとしてはならないということであります。何よりも自分自身を神の前にひれ伏せさせるということであります。神を信じるということは、自分を信じないということであります。神を崇めるということは、もう自分を崇めないということであります。

 「カイザルのものはカイザルに」ということは大変難しいことであります。どこまで、カイザルに税金を納めていっていいかどうかということは、大変難しいことであります。つまりどこまで妥協していっていいかということであります。自分を相対化する、この世的なものを相対化していくということは、きりがないことになり、どこまでもこの世に妥協していくことになりかねない、そうして結局は信仰そのものを失っていくことにもなりかねないのです。それは、やがては、この世に絶対的な正義も道徳もなくなってしまうということになりかねないので、無法地帯にならないかという問題が起こります。
 
 ですから、自分なりの歯止めとしての倫理感、自分としては、最低限ここから先は譲れないと言う倫理、自分なりの倫理というものをもっている必要があると思います。それはどんなことがあっても人を殺さないという倫理であるかもしれないし、あるいはたとえ営業のためとはいえ、女を世話しないということを自分のなかに決めておく、どうしてもそうなったら、会社を辞めるという覚悟をもっておく、それ以外のことは、妥協していくという知恵をもつということてあるかもしれません。しかしそれも人に自分の正義を押しつけないということであります。

もう少し卑近な例をとりあげれば、キリスト教以外のお葬式の時にお焼香をしていいかかどうかというようなことでもあります。あるいは先祖の位牌をどうするかと言う問題、それは人それぞれがその状況のなかで決断していくことが大事なことであります。

 「神のみを神として崇めていく、そして自分を絶対化しない」という覚悟さえ決めておれば、われわれはその状況に応じて対応していけるのではないか。
大事なことは、神の前でいつも自分がうち砕かれ、自分を相対化していくということであります。それが「神のものを神に返す」という生き方であります。