「生きている者の神」 ルカ福音書二○章二七ー四○節

 復活ということはないと言い張っていたサドカイ派の人々がイエスのところに来て質問したというのであります。イスラエルの人々のなかにサドカイ派の人々とパリサイ派の人々がおりました。サドカイ派の人々は聖書を重んじまししたが、モーセ五書といわれます、旧約聖書の創世記から申命記のところだけを自分たちの聖書として信じていたのです。パリサイ派の人々はそれ以外の旧約聖書も重んじておりましたし、またそのほかの言い伝えも重んじておりました。モーセ五書といわれている部分には、死人の復活ということは記されていないのです。死人の復活ということは、旧約聖書のなかでも後期になってからで、あまり出てこないのです。旧約聖書をみますと、人は死ぬと陰府という暗い闇の世界にいくのだという考えであります。
 
詩編の八八篇にこういうことが記されております。「あなたは死んだ者のために、奇跡を行われるでしょうか。なき人のたましいは起きあがってあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのいつくしみは墓のなかに、あなたのまことは滅びのなかに、宣べ伝えられるでしょうか。あなたの奇跡は暗闇に、あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか」と歌うのです。
 
この詩は死に近づいて恐怖におののいている人の詩であります。このようにイスラエルの人々は、死んだらもう暗闇に、忘れの国に行くのだと思っていたようであります。とくにサドカイ派の人々はそう考えていたのであります。
 復活はあるかないかということで、サドカイ派の人々とパリサイ派の人々とは争っていたようであります。その論争にイエスを引きずりこもうとしたのであります。
 
それでサドカイ派の人々はイエスにこういう議論をします。「モーセはこう書いている。もしあるひとの兄弟が妻をめとり、子がなくて死んだなら、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけなくてはならない。ところで、ここに七人の兄弟がいた。長男は妻をめとり、子がなくて死んだ。そしして次男、三男と、次々にその女をめとり、七人とも同様に、子をもうけずに死んだ。この女も死んだ。さて、もし復活というものがあるとするならば、復活の時には、この女は七人のうち、誰の妻になるのですか。七人とも彼女を妻にしたのですが」と質問したのであります。当時は、結婚の最大の目的は、子どもをもうけるということでした。それによって、家系をたやさないということです。それである人が子供がなくて死んだ場合には、その奥さんを弟がもらって、子供をもうけなくてはならないという律法があったので、こういう議論がうまれたわけです。ひとりの女に対して七人の男が、その女を妻にした場合、復活後の天国でいったい彼女は誰の奥さんになるのか、もし復活というのがあったとしたら、こんなおかしなことになる、だから復活などというものはないのだという議論であります。
 
 このサドカイ派の人々の議論は、議論のための議論であります。復活というものはないということを論ずるための議論であります。もし復活ということがあったとしたら、このようにおかしなことが持ち上がるではないかということであります。

 それに対してイエスはこう答えるのであります。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また、復活にあずかるがゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」

 主イエスがここでいいたいことは、復活の事を考える時には、この世の考えをあの世、あの世といういいかたはキリスト教的ではないかもしれませんので、聖書は苦心して、「かの世」と訳しておりますが、この世の考えを復活後の世界に持ち込んではいけないということであります。「この世の子らはめとったり、とついだりするが、かの世にはもうそういうことない、だからこの女が誰の妻になるかなどということは問題にならない」ということであります。

 われわれは死んでからいく世界のこと、つまり天国についていろいろと想像をたくましくいたしますけれど、聖書ではいったいなにをいっているのかと探ってみましても、実は聖書にはそこがどんな世界なのかはほとんど述べていないのです。ここでも、イエスは彼らは天使に等しいものだから、めっとたりとついだりはしないといっているだけであります。

 パウロは、復活について論じている箇所が、コリント人の第一の手紙一五章にありますが、そのところで、恐らく、パウロが「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものになる」と言って、キリストがよみがえってくださったことは、われわれもそのキリストにあやかって、よみがえるのだと論じていくのであります。そうした議論のなかで、死人のよみがえりということは馬鹿げたことだと冷笑する人から、すぐこういう質問をうけたようなのです。「どんなふうにして死人がよみがえるのか。どんなからだによみがえるのか」と質問された。
われわれ日本では、死んだ人はみな火葬にしますが、確かに火葬されて、骨になった現実をみた時に、このようなことを問いたくなるかもしれません。欧米では、だから火葬はしないで、土のなかに埋葬するのが主流になっているようであります。そういう質問にパウロは、まず「お前たちはおろかな人だ」と一喝します。それから、「種にもいろいろな種があるように、からだにもいろいろなからだがあるのだ。肉のからだもあれば、霊のからだもある」というのです。「朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえる。肉のからだがあるのだから、霊のからだもある」というのであります。
 「おろかな人だ」と一喝してこの議論をしているのは、ほんとうはこんなことは議論したくないという一喝ではないかと思います。
 
 パウロは別のところでは、よみがえりの世界について、サロニケ人への第一の手紙四章一三節でこういっております。「兄弟たちよ、眠っている人々については無知でいてもらいたくない。望みをもたない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導きだしてくださるであろう。」と言って、こう続けます。

「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々がまず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい」というのであります。
 ここでいっていることも、「空中で主イエスにお会いし、そしていつも主と共にいる」ということだけであります。

 またヨハネの黙示録の二一章には、終末のことについてのべて、こういうのであります。「新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」と言って、御座から大きな声が聞こえた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐい取ってくださる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」と記されております。
 
そしてそこはどういう世界かといいますと、こう記されております。二二章にあります。そこは水晶のような川が流れている。その川の水は神と小羊、つまりイエス・キリストですが、その神と小羊の御座からきよい川の水が出て、都の大通りの中央をながれている。川の両側にはいのち木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中央にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜はもはやない。あかりも太陽の光もいらない。主なる神が彼らを照らし、そして、彼らは世々限りなく支配する。」
 
ここにも天国というところはどういう世界かについては具体的にはなにひとつ描かれていないといってもいいと思います。ただそこには、神と小羊であるイエス・キリストだけがおられる、そしてわれわれ人間はその神を礼拝し、その御顔を仰ぎ見ているとだけだと記されているのであります。

 そこには、この世での生活での延長の生活はなにひとつ記されていないのであります。つまりわれわれが天国に期待するような、ずてに亡くなった人との天国での再会ということはなにひとつ記されていないのであります。
 
ところが讃美歌をみますと、お葬式の時の讃美歌などは、天国で愛する者と再会しましょうということが主流になっております。四八九番には、こうあります。「きよき岸辺にやがて着きて、天つみくにに、ついに上らん。その日数えて玉のみかどに、友もうからも我をまつらん。やがて会いなん、愛でにしものと、やがて会いなん。」三番には、「親はわが子に、友は友に、妹背あい会う、父のみもと」。
私自身はこの讃美歌はメロディーが好きで歌いたいのですが、歌詞があまりに人間的というか、人情的なので、つまりここでは神にお会いする喜び、イエス・キリストにお会いできる喜びというのは、それこそ一文句も記されていないので、どうしても葬儀の時には歌えないのであります。

 われわれは復活ということ、復活後の生活に何を期待しているか。それは愛するものとの再会ということではないかと思います。昨年息子をなくしてからわたしも考えたことはそのことであります。それまで、なにかと天国というところはそういうところではない、そこはただ神とイエス・キリストだけがおられるとこで、そこで神とお会いする、それが喜びであり、慰めなのだと説教でも語ってきたし、なにかにつけて語ってきたのです。しかしさすがに、お葬式の時とか、愛するものを亡くして悲しみのなかにある人には、そういうことを口にすることはできませんでした。しかし元気な人には聖書では、こうですよと語ってきたのです。
 
しかしいざ実際に息子を亡くしてみますと、自分はずいぶん残酷なことをいってきたなと痛感しているのです。うっかりすると、愛する者との再会、それだけがわれわれの天国に対する最大の関心事になる、復活ということの関心事になる、それでいいのか。聖書にはそんなことは記されていないのに、そんなふうに期待していいのかということなのであります。

サドカイ派の人々は、この世の結婚のありさまをもって、かの世の生活を考えた時におかしくなる、だから死人の復活とか、その死後の世界、天国というような世界は考えられないと主張しました。しかし、今度は逆に、この世で愛する者を失った人は、どうしてもその愛する者と再会したい、だからどうしても死人のよみがえりを信じたい、天国はあるのだと信じたい、そういうはなはだこの世的な願望から復活信仰を導きだし、天国を想像してしまうと言うことは大いにあり得ることであります。
 
もしそうだとしますと、この世で大変不幸な結婚生活を送った人は、どうなるのか。この世で苦しんだのに、かの世でも同じ苦しみを味わうのか。この世で憎んだ人と、かの世でも再会するのか、それならば、天国などはいらない、復活などはないほうがいいということになるかもしれないと思います。たしかに、聖書には、天国の世界は、「もはやそこには憎しみはない」「そこにいる人々は天使達に等しい人々だから、もはや憎しみはない、嫉妬もない」のかもしれません。だからこの世で憎んでいる人と再会しても、もはや憎しみはないのだから、安心ですと言えるかもしれません。
 
 しかし聖書がいっていることは、やはり愛する者との再会ということではなくて、そこは神とイエス・キリストがその御座の中心におられて、みながそのかたを礼拝している、そういうイメージでとらえているのであります。そこにこそわれわれ信仰者の慰めがあるのだということなのであります。もし愛する者との再会というものがあるとするならば、その先に召された者も、後からのものも、共に神とイエス・キリストを礼拝している、その同じ場にいるということであります。

子を失った人を慰めるためには、神がその子の涙をぬぐってくださっている、だからもう生き残っているわれわれは悲しむことはない、と言わなくてはならないと思います。

 イエスはこういいます。「死人がよみがえることは、モーセの柴の篇で、主は『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」といいます。これはどういうことかといいますと、モーセの柴の篇というのは、出エジプト記のことです。そこで神がモーセに現れた時に、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」といって、モーセに御自分を現したのです。もうこの時には、アブラハムもイサクもヤコブも既に死んでいるのです。それなのに、まるでアブラハムが天上の世界で生きているかのように、アブラハムの神、と言っているというのです。だからアブラハムは死んだのだが今天にあって生きているのだ、ということなのです。しかしこれは少し、へりくつみたいなものです。どうしてかといいますと、「わたしはアブラハムの神」というのは、「わたしはかつてはアブラハムに現れた神だ」ということであるかもしれないからです。
 
しかしそれよりも大事なのは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」と言う言葉です。「人はみな神に生きるものだから」という言葉です。これはつまりすべては「神を中心にして生きなさい、神を中心にして考えなさい」とうことであります。すべてを神を中心にして考えるならば、神は死んだものを死にぱなっしになどは決してなさらないだろう、神を中心にして考えるならば、死人の復活は当然信じられることだし、神に生きるということを考えれば天国での生活の仕方も、この世の生活の仕方とは当然ちがったものになるだろう、だから、この世的な考えで、めとったり、とついだりする世界をかの世の世界に持ち込めないということになると思います。

 最後にふれておきたい聖句があります。これはルカによる福音書だけにある言葉ですが、三五節の言葉です。「かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったりとついだりすることはない」と言う言葉であります。これでは、復活にあずかるにふさわしい人だけが復活し、そうでない人は復活しないといっているかのような印象を与えるのではないかと思います。ただ同じルカ文書であります使徒行伝には、これはパウロが捕らえられて総督の前での答弁の中にある言葉ですが、使徒行伝の二四章一五節をみますと「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです」といっているのであります。いかにもパウロらしい言い方であるかもしれません。
 
しかし「人はみな神に生きるものだ」というイエスの言葉から考えれば、その線にそって復活ということを考えれば、神のあわれみということを考えれば、正しい者も正しくない者もやがてよみがえるとの希望」をわれわれはもっていいし、またあらゆる人に対してもそのようにもたなくてはならないと思います。
 
復活とか、死んでからのいく世界、天国のことを考える時に、われわれはこの的な思いを捨てて、神を中心にして考えていかないといけないということであります。