「神の子イエス・キリスト」 ルカ福音書二○章四一ー四四節

 イエス・キリストはご自分が最後は十字架にかけられて死ぬとを自覚して、いよいよエルサレムに入ったのです。それから律法学者、祭司長たちや、サドカイ派の人々と論争いたしました。それはみな主イエスをなんとか捕らえようとする口実を作るために、彼らのほうから仕掛けてきた論争でした。イエスはその一つ一つを退けて、彼らにイエスを逮捕できる決定的な口実を与えませんでした。それで彼らはイエスを昼間に民衆の間で公然と逮捕できなかったのであります。

 ルカによる福音書では、最後はサドカイ派の人々との復活問答でした。そこでイエスが見事な答えを出したので、二○章の四○節をみますと、「彼らはそれ以上何もあえて問いかけようとはしなかった」と記されております。
 
 そしてそのイエスとの論争の最後は、イエスのほうから仕掛けた論争で終わっております。
 四一節からみますと、イエスは人々にこう問いかけます。「どうして人々はキリストをダビデの子だというのか」と問いかけます。これはキリスト、つまりメシア、救い主のことを、人々が「ダビデの子」といういいかたをして来たことをとりあげているのです。

 ルカによる福音書にはないのですが、マタイによる福音書には、イエスがエルサレムにろばの子に乗って入ってきた時に、人々は「ダビデの子に、ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ、いと高き所に、ホサナ」といって、歓迎して迎えたのであります。ホサナというのは、「救いたまえ、救ってください」という意味であります。

 ルカによる福音書でも、イエスがエリコの近くにきた時に、ある盲人がイエスに対して「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と、叫んでおります。

 「ダビデの子」というのは、イスラエルでは、救い主の意味になっていたのであります。ダビデというのは、イスラエルでは優れた王でした。それでダビデは理想化されていって、次第に、そのダビデの血筋をひく救い主がが生まれて、そのかたがわれわれイスラエルを救ってくれるだろうという期待が人々に広がって、「ダビデの子」という言葉が救い主、メシアの意味になっていったのであります。
 
 ところが、イエスはご自分が十字架で死ぬ直前になって、自分はダビデの子ではないと言うのであります。「どうして人々はキリストをダビデの子だというのか」といって、自分はダビデの子ではないというのであります。
 
 その証拠として、聖書をとりあげます。旧約聖書の詩編一一○篇をとりあげます。「主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい」という詩編を引用します。これは詩編の前書きをみますと、ダビデが歌った詩編、つまりダビデが書いた詩編になっております。つまり作者はダビデであります。その作者であるダビデがメシアのことを「わが主」と呼びかけているではないかというのです。

 この議論はわれわれにとっては、わかりにくいし、またなんか議論のための議論、いってみれば、少しへりくつみたいなものですが、これはイスラエルの人にとっては、こういう議論が必要だったようであります。

 これはこういうことなのです。この詩編の「主はわが主におおせになった」というところですが、最初の「主」というのは、神のことであります。神ヤハウェはということです。次の「わが主に」というのは、「わたしの救い主に」という意味の「主」という意味であります。つまり、「神はわが救い主にこう仰せになった」ということであります。そしてここで、ダビデは救い主、つまりキリストに対して、「わたしの主人よ」という意味の「わが主」と言っている。

 ということは、救い主、つまりキリストはダビデよりも上に位置する立場に立つということになる。そうしたら、もうダビデの「子」ではなくなるではないか、だから、キリストはダビデの子という言い方はおかしいということになるということなのであります。なにかわれわれにとってはどうでもいいような議論なのですが、そういうことであります。

 われわれにとっての問題は、なぜこの時になってイエスはあえてそんな議論をイエスのほうから人々にしかけてきたのか。そしてこれがイエスと人々との最後の議論になったのかということであります。

 盲人がイエスに対して「ダビデの子よ、わたしを救ってください」とイエスに救いを求めてきた時には、イエスはその言い方をひとつも訂正しないで受け止めているのにであります。またルカによる福音書にはありませんが、マタイによる福音書には、イエスがエルサレムに入城したときに、人々がろばに子に乗って入ってきたイエスを歓迎し、自分たちの上着をぬぎ、イエスを王として歓迎し、「ダビデの子にホサナ、ダビデの子よ、われわれを救ってください」と、叫んで歓迎した時、イエスはそれに対してなんの訂正もしないで、それを受け入れておきながら、どうして最後の最後のときになって、わたしはダビデの子ではないと言い出すのかであります。

 それはイエスがこれから十字架で死ぬことを思う時に、どうしてもこのことを言っておきたいという思いがあったからであります。
神が人間を救うために派遣したキリスト、救い主は、ダビデの子としてイメージしてはいけないということであります。

 人々が救い主に対してダビデの子という言い方をする時には、イスラエルの王としての救い主という期待があったのであります。それはいってみれば、王という権力を用いて、いわば軍の力で武力で、イスラエルに敵対するものを滅ぼして、イスラエルを敵の手から救い出す、そういうメシア、そういうキリストというイメージがあったわけです。それをイエスはまず否定したということであります。

 それをこの期に及んでイエスが言い出したのは、イエスがこれから十字架で死のうとしているからであります。自分は神から派遣されたキリストなのだ、そのキリストである自分は、あなたがたが期待しているような政治的な王、政治的な救い主ではない、武力で敵を滅ぼすような救い主ではない、そうではなくて、自分が死ぬことによって、本当の救いを達成する救い主だということであります。
 
 そしてもう一つのことは、本当の救い主は、ダビデの子ではない、ダビデよりも上に位するものだ、なぜなら、本当の救い主は、人間ダビデの子ではなく、神の子なのだということでありす。その神の子だということは、栄光に輝く玉座にすわることによって示されるのではなく、その神の子が人々に、あなどられ、軽蔑され、捨てられて、そして最後には殺されていく、それによって救い主としての栄光を示そうとするのだということでありす。

 それは後にパウロがピリピ人への手紙のなかで、初代の教会の讃美歌として歌われていたと思われる言葉を引用して述べている事であります。「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくなることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた、その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」ということであります。

イエスはご自分が十字架で死ぬときに、死ぬ前にどうしてもこのことを言っておきたかったのであります。

 後にペテロはこのイエスについてこう人々にいうのであります。聖霊降臨を経験したペテロが最初に人々に説教した時であります。その締めくくりの部分でこういいます。使徒行伝二章二九節からですが、途中とばして、三二節からこういいます。「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右にあげられ、父からの約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている。『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい。』だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」、そういってペテロはその説教を終えるのであります。

この詩編の一一○篇には、もう一つのメシア預言が語られているのです。それは四節のところなのですが、「主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、『あなたはメルキゼデクの位にしたがって、とこしえに祭司である』」という言葉であります。神が派遣するメシアは、メルキゼデクに等しい、いやその上に位する大祭司だというのであります。この詩篇では、メシアに対するイメージを二つ語ります。ひとつは神が派遣するメシアは、ダビデよりも上に立つ、メシアであるということです。そうしてもう一つは、人間のなかでも最高の位置にいるメルキゼデクよりも上に立つ、大祭司なのだというのであります。

 そのことを受けて、ヘブル人への手紙では、イエス・キリストのことをメルキゼデクに等しい大祭司としていい、そして一○章一二節でこういいます。「しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである」と言うのであります。

 一一○篇の詩篇では、主なる神はこういいます。「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」というのであります。主なる神はイエス・キリストに向かって、もうお前はわたしの右に座っていなさいというのです。少し変な言い方になるかもしれませんが、ここは結局はこういうことになると思います。「今度は主なる神みずからが闘いの前線に立って敵を滅ぼす、だからもうお前は何もしなくてもいい、もう静かにわたしの右にどっかりと座っていなさい、あとはわたしがするから」、そう意味になると思います。

つまり、イエス・キリストという本当のメシアは、もう充分働いてきた、いや一つの一番重要な決定的な働きをしてきた、それは神の子であるメシアが自ら十字架の上で命を捨てたことだ、罪のない小羊としてその命をその血を注いだことだ、犠牲としてご自身をささげものとして、命を捨てたことだ、それをお前はしたのだから、もうお前は充分働いたのだ、あとはわたしがする、だから敵をやっつけて、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、もうお前はわたしの右に座して待っているがよい、ということであります。

 十字架という闘いを終えたキリストは、今はもう父なる神の右に座しておられるのであります。どつかりと、もう何もしないで、ひたすら座しておられるのであります。

 ある小児科の心理学者が、こう書いておりました。「母親の存在というのは、子供に対して何かをするということに比べれば、そこにいるということのほうが大事なのだ」と書いていたのであります。たとえば、子供が外で遊んできて、暗くなって家に帰ってきた時に、そこに母親がいる、それが子供にとってどんなに安心を与えるかわからないというのであります。今日の日本の現状では、もうそんなことはいえないかもしれません。母親も外に出て働かなくてはならなくなっているかもしれません。仕方なく、保育園におそくまで預けなくてはならないということかもしれません。しかしそうであったとしても、基本的には、この言葉は正しいことをいっていると思います。
 「母親というのは、そこにいる、そこにどっかりと座っている、存在している」そのことが子供にとって一番大切なことなのだということであります。しかしその母親は、ただ座っているのではないのです。それまでに自分のすべてを捧げて子供のために働いてきたのです。子供のためにお乳をあげてきたのです。だからもうそういうことをしたあとは、子供のために何もしなくても、そこにただ座っている、それだけで大変大切な働きをしているのだということになるのだと思います。
 
 イエス・キリストも何もしないで、今父なる神の右に座しているのではないのです。十字架でご自分をささげてこられたのです。だからこそ、今静かに何もしないで、神の右にざしていても、われわれにとってもう十二分の救い主になっているということであります。
 
 座しているイエス・キリストというイメージを描く時に、わたしは日本の寺院にある仏像を思いだしました。人々はやはりお寺の奥深くにどっかと座っている仏様が好きであります。なんとなく安心をするのであります。そういうこととイエス・キリストが神の右に座しておられるということと何か共通することがあるのかなとも思いました。

 確かに共通しているところがあると思います。仏像ももう何もしないのです。ただ黙ってそこに座しているだけであります。わたしもお寺をまわって、仏像を見るのは好きですし、何か心が安まります。それは単なる偶像礼拝だといって、切り捨てにできないものを感じてしまいます。

 しかしわれわれ日本人はそのなにもしない仏像に対して、それぞれ勝手にいろんなことをお願いしております。そしてそれぞれに自分勝手になんとなん、安心して帰るということがあるかもしれません。
 
 しかしイエス・キリストの場合はどうか。われわれも神の右に座しているイエス・キリストに対して真剣に祈ると思います。いろんなお願いごとをすると思います。時には、どうしてあなはわたしのお願いを聞いてくださらないのですかと必死に頼むと思います。しかしその時、神の右に座しているイエス・キリストはこういうのではないでしょうか。「わたしはもう十字架でわたしの命を捧げている。もうわたしはそこですべての闘いをしたのだ。十字架をみあげてみろ」と、そのイエス・キリストはわれわれに語るのではないでしょうか。そこが仏像とイエス・キリストの違いがあるといってもいいかもしれません。
 
 その神の右に座しているイエス・キリストがただ一つ、その座が立ち上がったことがあります。それは使徒行伝に記されているのですが、初代教会の最初の殉教者でありますステパノが人々から石で殺される時であります。その時ステパノは天を見つめた、その時神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた、それで彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言ったのであります。そうしてステパノは最後に「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って息を引き取ったてのであります。

 これはイエス・キリストが実際に神の右から立ち上がったのではなく、ステパノがそのように見たということであるかもしれませんが、しかしそれにしても、もし、神の右に座しているイエス・キリストが、そこから立ち上がる時があるとすれば、われわれがイエス・キリストのあの十字架の死を自分なりに味会う時だということであります。

その神の右に座しているイエス・キリストにわれわれもまた仏像に語りかけるように、いろんなことをお願いします。そしてイエス・キリストは御霊を派遣して、そのわれわれの祈りに一緒になってうめき、その神の右に座しながら、父なる神にとりなしてくれるのであります。しかし最後にその神の右に座しているイエス・キリストがわれわれに語りかけることは、やはり「十字架を見なさい」ということなのではないでしょうか。
 
 いろんな状況のなかでわれわれは必死に神に祈ります。今戦争がまた起こっている時にも、われわれはどうして神は働いてくださらないのかと思います。しかしその時にもイエス・キリストは、もうその答えはわたしは十字架においてお前たちに語っているではないかとわれわれに語るのではないでしょうか。