「終末の前兆はあるのか」 ルカ福音書二一章五ー三七節

 ある人々がエルサレム神殿の前に立って、その見事な石と奉納物で宮が飾られているのを見て感心していました。それを聞いてイエスは「お前たちはこれらのものを眺めているが、その石一つでも崩されずに、他の石の上に残ることもなくなる日が来る」といわれました。お前たちが今感心している神殿は、所詮人間が建てものに過ぎない、人間が建てたものは、必ずめちゃめちゃに壊される時が来ると言われたのです。それでそれを聞いて、人々は驚きました。「先生、ではいつそんな事が起こるのでしょうか。またそんなことが起こるような場合には、どんな前兆がありますか」と尋ねたのであります。

 この壮大な建物が木っ端みじんに壊される時、それはこの世の終わりの時以外に考えられないと思ったわけです。これを尋ねたのは、ルカによる福音書では、人々となっておりますが、マルコによる福音書やマタイによる福音書では、弟子達が、となっております。しかしルカによる福音書でも一二節からみますと、ここでいわれている「あなたがた」は、もう弟子達以外には考えられませんから、実質的には、弟子達がイエスに「終末はいつくるのですか。もしそれが来るとすれば、その前兆はあるのですか」と、尋ねたということになると思います。

 イスラエルの人々にとって、この世の終わりが来るということは、みな承知しておりました。旧約聖書にそのことは述べられているからであります。そしてその日は神の裁きの日だと信じていました。そしてその日は恐ろしい事が起こる日だと恐れておりました。ですから、それが来ることは避けられないけれど、せめとその前兆を知りたいと思ったのであります。

 マルコやマタイによる福音書では、弟子達は「ひそかに」イエスに尋ねたと記されております。なぜ「ひそかに」尋ねたのでしょうか。怖いことを聞くときには確かにひそかに聞きたくなるかもしれませんが、ここで「ひそかに」ということは、どこかに後ろめたさがあるから、「ひそかに」イエスに尋ねたのではないでしょうか。つまり、その前兆を自分達は知って、できることなら、その終末の裁きからなんとか逃れたい、自分達だけは、なんとか逃れたいという、大変ずるい考えがあったから、思わず「ひそかに」ということになったのではないでしょうか。 

 何か災害が起こる前に、その災害から少しでも逃れたい、それに対処する用意をしたい、あるいは、せめて心の準備をしたいと思うのは当然であります。大地震が日本にいつか来るということは、避けられないことであります。ですから、そのために被害をできるだけ少なくするために、その大地震がくる前の前兆を知りたい、地震予知というのが、地震学の重要なテーマだろうと思います。それならば、なにも「ひそかに」に聞かなくてもいい筈であります。

 弟子達がこの時、「ひそかに」に聞いたというのは、やはり自分たちがいち早くその前兆を知って自分たちは逃れたいという思いがあったから、「ひそかに」聞くことになったのではないかと思われます。
 
 イエスはそれに対してなんと答えたか。この二一章の五節から、二一章全体は、イエスがこの世の終わりについて述べた箇所ですが、ここはどう読んでも、はっきりしないのです。大変矛盾したことをイエスは言っているのです。終末の前兆があるのかないのか、はっきりしないのです。
 
 八節から「あなたがたは惑わされないように、気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名乗って現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らついていくな」といわれます。「自分がそれだ」というのは、自分がメシアだと名乗る者があっちでもこっちでも現れるということであります。世紀末になるといろいろなあやしい宗教が現れ、いろなメシアが現れるものであります。終末という恐怖の前に人々の心が弱りますから、その人の弱みにつけ込んで偽の宗教が流行するのであります。

 またイエスは「戦争のうわさを聞くだろう。しかし、おじ恐れるな。こうした事はまず起らねばならないが、終わりはすぐにはこない」といわれます。「こうしたことは、まず起らなければならないが」と言って、しかしそれは決定的な前兆にはならない、というのです。イエスは「そういうことがあったからといって、すぐ終わりはこない」というのです。こうしたことは前兆にはならないということです。

 さらに一○節では、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」といいます。これは結局は戦争が始まるということです。そしてまた大地震があり、あちこちに疫病やききんが起こり、いろいろ恐ろしいことや天からのものすごい前兆がある」といいます。

 ここでは、前兆があるといっております。戦争とか、大地震とか、それは終末の前兆だといっているのです。前のところでは、そういうことがあっても、それは終わりではない、といったばかりなのです。それではこれは前兆にはならない筈であります。なにか矛盾していることをイエスは言っております。

 さらにイエスは一二節から弟子達に対してこういいます。「これらのあらゆる出来事のある前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それはあなたがたがあかしをする機会となるであろう」といいます。イエスの弟子達は、終末が来る時る前に迫害されるだろうというのです。

 ここでは、弟子達が「ひそかに」に終末の前兆を知って、自分達だけはひそかに逃げていきたいという、あの弟子の達のいささかずるがしこい思いはイエスによって粉砕されてしまうのであります。

 二○節からは、イエスの弟子達だけが迫害され、苦しめられるのではなく、神によって選ばれた民、イスラエルの人々、特にその中心のエルサレムが異邦人の軍隊によって取り囲まれる、そしてエルサレムは崩壊し、選民の首都エルサレムは異邦人によって踏みにじられるといわれます。二二節をみますと、それはなによりも神のくだす刑罰の日だとといます。このときに、この選民に神の怒りがくだるのだというのであります。

そして二五節からは、それはやがて、ただイスラエルの民だけでなく、全世界にその裁きはくだるというのであります。「日と月と星とに、しるしが現れる。そして地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきに怖じ惑い、人々は世界に起ころうとする事を思い、恐怖と不安で気絶する。もろもろの天体が揺り動かされるからである」というのであります。

人々は「先生、では、いつそんなことが起こるのでしょうか。またそんなことが起こるような場合には、どんな前兆がありますか」と問うたのであります。そこからイエスの終末についての教えが始まったのであります。人々がその前兆を知りたいというとき、その前兆を知って、その災害が起こる前になんとか逃れる道をみつけておきたい、その心がまえをしておきたいというところから、「先生、ではいつそんなことが起こりますか」と尋ねたのです。つまり人々がこの世の終わり、終末ということで考えていたことは、大地震が起こるとか、戦争が起こるとか、天変地異が起こるとか、そういう人間の歴史そのものが混乱すること、あるいは、ただ人間の世界だけでなく、この宇宙全体が破壊すること、それが終末だと思っていたのであります。

 大地震の前兆をわれわれが知りたいと思うのは、大地震が起こる前に、どこかの地盤が小規模ながらくずれたとか、そういう測定をしていて、大地震に備えようとするわけであります。そしてわれわれにとっては、大地震が起きてしまえば、もう前兆もへったりくりもなく、もうそれで終わりだと思ってしまうのではないかと思うのです。われわれが知りたい前兆は、大地震が起こる前の前兆、戦争が起こる前の前兆であります。

 しかしイエスの話では、大地震そのものが前兆なのだということであります。十一節をみますと、「また大地震があり、あちこちに疫病や飢饉が起こり、いろいろ恐ろしいことや天からのものすごい前兆があるであろう」というのです。つまり大地震そのものが何かが起こる前兆、つまり大地震よりももっと大きいことが起こる前兆だというのであります。大地震が起こり、戦争が起こり、天変地異が起こり、それでこの世が終わってしまう、それが終末だというのではないのです。いや、この世は確かにそれで終わるのかもしれません。

しかし、それですべてが終わってしまうのではない、というのが主イエスの教えであります。この世が終わってしまう、この宇宙も終わってしまう、しかしそれがすべての終わりではないということなのです。そこからさらに先があるということなのであります。それが主イエスが語る終末であり、聖書の語る終末なのであります。
 この世が終わってあとに、新しい事が始まるというのであります。

 二六節をみますと、「人々は世界に起ころうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである」、そのようにいった後、主イエスはこういわれます。「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを人々は見るであろう」といわれます。この世が終わる、滅亡する、それですべてが終わるのではなく、そこから真の新しい事が始まるのだ、そのときに、人の子が、つまりメシアがもう一度来る、今度は大いなる力と栄光とをもって雲に乗って来るというのであります。ここで言われている「人の子」というのは、メシアのことですが、これがイエス・キリストご自身のことなのか、それともイエス以外のメシアなのか、もうひとつはっきりしないところがありますが、しかし聖書では、イエス以外に別のメシアを考えたり、期待したりすることは考えられませんから、これは主イエス・キリストのことであります。
 
つまり、あのクリスマスの時にこの地上にきたメシア、神の子であるメシア、イエス・キリストは、貧しい飼い葉桶のなかで生まれ、そして十字架で死ぬためにこられたわけです。それは人間の罪を救うためだったからであります。しかしこの終末の時に来られるイエス・キリストは、大いなる力と栄光に輝いて、雲に乗って来られるというのであります。

 三○節をみますと、「これらの事が起こるのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることはない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることはない」と、主イエスは語るのであります。

 終末というのは、この世の終わりが来て、すべてが終わってしまうのではないのです。この天地が滅びたあと、それから終末が来るのであります。そのときに人の子がつまりメシアが、イエス・キリストが力と栄光をもって現れるのであります。だから、主イエスは二八節で、「これらの事が起こり始めたら、身を起こし頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」と、言われるのであります。この世の終わりが来たら、われわれの滅亡が近づいたのではないのです、われわれの救いが近づいたのだとイエスは言われるです。

 その後で、イエスはひとつの譬えを語られました。「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏が近いと自分で気づくのである。このようにあなたがたもこれらの事が起こるのを見たならば、神の国が近いのだとととりなさい」といいます。イエスは終末についてひとつの譬えを話される時、木が枯れて朽ち果てるだろう、その時に終末が来るといわれたのではなく、木が芽を出したときに、夏が近づいたとさとりなさい、というのです。イエス・キリストが終末というものをどんなに輝かしい時として、希望の時として考えおられるかということであります。

 終末はこの世の滅亡の時であります。しかしまたそれはわれわれにとっては、新しい救いが始まる時なのであります。だからわれわれは身を起こし頭をもたけなくてはならないのです。なぜなら、終末というのは、「天地は滅びても、神の言葉は決して滅びることがない」ということが明らかにされる時だからであります。

 旧約聖書にイザヤ書という預言書がありますが、その四○章から普通弟二イザヤといわれるところがありますが、そこでは、イスラエルの民が遠い遠い異教の地バビロンで捕囚生活を強いられていた時に、そのバビロンから解放される救いの時がきたと預言するのであります。その時にその預言者はこう語るのであります。

 神がこう言われるというのです。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終わり、そのとがはすでにゆるされた」と慰めを語れと神から告げられたというのであります。そしてこういいます。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぽむ、たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし神の言葉はとこしえに変わることはない」というのです。

 これは人を慰める言葉として大変不思議な慰めかたです。つまりいってみれば、人間は所詮死ぬ運命にある、野の花が枯れてしぼむように、人間はやがて枯れ果てるというのです。そういって、慰めを語りだすのです。不思議な慰めかたであります。所詮人間は人間に過ぎない、そう言ったあと、しかし神の言葉はかわることはない、というのです。つまり、神ご自身の愛の言葉は変わることはないということであります。それがこの預言者の慰めの言葉なのであります。

 終末というのは、ただこの世の終わりの日なのではなく、神が神として立ってくださる時、神がご自身をすべての人々に明らかにしてくださる時なのであります。神が神として立ってくださるとき、それならば、その神が裁きをなさるとしても、神がなさる裁きならば、われわれは安心してその神の裁きに自分をさらすことができるのではないでしょうか。なぜならば、その神がわれわれを救うために御子イエス・キリストを派遣してくださった神だということをわれわれは知っているからであります。
 
 終末の前兆はあるのか、というのが人々の問いでした。人々がそのように前兆を知りたがるのは、終末というものがただなにか悲惨なことが起こる日と考えているから、その悲惨さから逃れようとして、その前兆をしりたがるのであります。しかし主イエスは、終末というのは、この世の滅亡のあとに本当に救いが始まる時なのだというのであります。それならば、ずるがしこく、その前兆を知ろうとするのではなく、絶えず目を覚まして神の救いの日を待ち望みたいと思うのであります。そのために祈りたいと思うのであります。