「終末への備えかた」 ルカ福音書二一章五ー

 終末というのは、大地震が起こったり、戦争が起こったり、天変地異が起こったりして、この世が混乱し、滅亡してしまう。それが終末というのではないのだと主イエスはいうのであります。それは終末の前兆にすぎない。終末はそこから始まるのだというのであります。なぜなら、終末というのは、ただこの世が終わる日だというのではなく、この世が終わったあと、神が神として立ってくださる時が来る日だからであります。

 三一節をみますと、「これらの事が起こるのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」というのであります。
ですから、主イエスは、終末がくるというたとえを、木がこれから枯れていく冬にたとえるのではなく、すべての木が芽をだす夏に譬えるのであります。

 また、主イエスは「これらの事が起こり始めたら、身を起こし頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから」といわれるのであります。

 終末というこの世の破滅の時に、なお希望をもつことができるのだというのであります。われわれには神が神として裁きの座にたってくださる、そして神が本当の救いをわれわれすべての人に与えてくださる時なのだ、だからわれわれにはこの日は希望の日なのだというのであります。

 宗教改革者のカルヴァンはこういうのであります。「希望は黙して主を待つことによって、信仰が余りにも急速に没落することがないように留めおくのである。希望は、神の約束を疑って動揺し、あるいは約束の真実さを疑わしめないように、信仰を固くする。希望は、信仰が疲れ果てないようにこれを元気づける」と言っております。

 希望は信仰が弱り果てないように、支えるのだというのであります。希望も信仰も結局は同じではないかと言われるかも知れませんが、しかし信仰という時には、どちらかといえば、神を信じていこうとするわれわれ人間の心の意志とか決意とか、持続性とかを表現しております。つまりわれわれ人間側の心の状態を表します。それはわれわれの心の状態というものですから、浮き沈みの激しいものであります。そういう意味では、われわれの信仰は本当に不安定なものですし、頼りないものであります。

 それに対して希望は、与えられるものであります。望みというのは、望むことができるものを与えられて、望むことができるようなものであります。なにもないところから希望というのは、起こりようがありません。一縷の望みという言葉がありますが、望みというのは、ごくわずかな頼りない細い糸でもそこに望みを与えてくれるものがないと起こりようがないのであります。そのか細い糸を頼りにして、こちらがそれをふくらませて大きな望みにしてましうということはあるかもしれませんせん、従ってしばしば希望というのは、われわれの幻想になりやすいということはあるかもしれません。そういう幻想によって希望をふくらませてしまうということがあるかもしれませんが、しかしその根拠は一縷のもの、一本のか細い糸がなくては希望は生じようがないのであります。

 希望というものは、向こうから与えられるものであります。終末の望みというのは、神が最後には神として明確に立ってくださるということであります。神が最後には公平な裁きをしてくださるということであります。そして救ってくださるということであります。イエス・キリストを通して神というかたを知ろうとしない者にとっては、その神は閻魔大王のような、何か恐ろしい裁きとしてしか想像できないかもしれませんせんが、われわれを救うためにひとり子を贈ってくださった神、われわれの罪をあがなうためにひとり子を十字架につけてくださった神を信じてるわれわれには、神が裁きをなさる時は、神がまたわれわれを本当に救ってくださる時だと信じることができるのです。
 そういう希望がわれわれの信仰を支えてくれるのであります。

 この世の混乱とか危機の時に、われわれの信仰を支えてくれるのは、われわれの意志とか決意とかというものではなく、希望なのであります。

 ドイツのヒットラーよって造られた強制収容所のアウシュビッツでの過酷な中を生き延びる人は、なんらかの意味で希望をもっていた人だと、その体験を記したフランクルという心理学者が記しております。それは強力な体力の持ち主がその過酷な中を生き延びたのではないというのです。希望をもっていた人が生き延びたというのです。どんなに弱々しそうな体つきをしている人でも、その人が何か希望できるものをもっていたら生き延びたというのです。その希望はたとえば、愛する妻との再会という希望ということかもしれない。そういう希望をもてる人が生き延びたというのです。そういう希望をもてなくなっている人はどんなに体力があっても、気力が衰えて死んでいったというのです。

 愛する者ともう一度会いたいという希望が、過酷な中で生活している人を支えたというのです。しかし、フランクルが書いているのですが、その時には、もうすでにその愛する妻はナチによって殺されているのです。だから、愛する妻と再会できるという希望は幻想でしかないのです。しかし、実際には幻想になってしまっている希望が、人を支えたというのです。確かに、妻と再会できるということは、幻想であったかも知れません。しかし、妻と再会したいという愛そのものは、幻想ではなかったのであります。

 パウロが愛について書いている箇所が、コリント人への第一の手紙の一三章にありますが、そこで、パウロは結論のようにいっていることは、「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」ということです。ここでは愛は忍耐だというのです。なぜ忍耐することができるかといえば、それは愛がすべてを望ませることができるからだといいます。「愛はすべてを望み、すべてに耐える」というのです。愛が希望を与えるのだというのであります。そしてその箇所の結びの言葉は、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうち、最も大いなるものは愛である」というのです。愛がすべての基礎だ、土台だというのです。
 
 愛はすべてを耐えるというのは、人を愛する時に、忍耐が必要だということですが、なぜ忍耐できるかといえば、その人を忍耐づよく愛していれば、かならずわたしの愛は分かってもらえるという思いがあるから忍耐できるのだと思います。忍耐をもって愛していれば、必ず愛をもって返してもらえるということであります。愛というのは、こちらがただ一方的に愛するだけではないのです。ある一時は、そういう時もあるかもしれないし、またそういう時も必要なのですが、しかし、そのようにこちらが一方的に愛し続けることによって、必ず愛される時が来るというものであります。この愛はいつか必ず報われるという望み、愛される望みをもって愛し続けるのであります。だから愛がわれわれに希望を与え、そしてその希望はわれわれの信仰を支えるのであります。愛がすべての土台なのです。だから信仰と希望と愛のなかで、もっとも大いなるものは愛だというのであります。

 神が最後の時に、その神の真実の愛がわれわれに明らかにされる、今以上に明らかにされる、だからわれわれは終末を望みをもって待つことができる。そしてその望みがわれわれの頼りない神に対する信仰を支えてくれるというのであります。

 主イエスは、終末に対してどのように備えるべきかということで、一五節をみますと、「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう」といいます。耐え忍ぶことが一番大切だというのです。耐え忍ぶということは、自分を主張してばたばたしないということであります。じっとしているということです。なぜそれができるのかといえば、その前の言葉は「またわたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはない」というのです。神がおまえを救ってくれるからというのです。

 さらに、その前のところには、イエスは弟子達が迫害されるだろうと予告します。「人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。それは、あなたがたのあかしをする機会となるであろう。だから、どう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心を決めなさい。あなたの反対者のだれも抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを、わたしは授けるから」と言って励まします。

 「前もって考えておかないことに心にきめなさい」というのです。
 われわれの思い煩いというものは、いつでも前もって考えることから起こるのではないでしょうか。明日がまだこないうちから、明日について考えようとする時に、思い煩いというものが起こる。まだ死なないのに、死んだらどうしようか、死ぬときはどんなに苦しいか痛いか、不安か、と、まだ死の時がこない内に考えようとする時に、思い煩いというものが起こるものであります。だからもう「前もって考えておかないことに心にきめなさい」というのです。「心にきめなさい」という表現もおもしろいと思います。明日のことを考えまいとしたって、われわれはどうしたって、明日のことをいろいろと心配しだすのであります。そのときに、「そうだ、もう明日のことは前もって考えておかないことに心に決めよう」と、決断しておくことであります。そうしたら、思い煩いが起こってときに、いつもその決断に立ち返ることができるのではないかと思います。
 
 主イエスが「反対者のだれも抗弁も否定もできないような言葉と知恵とをわたしが授けるから」と約束してくださっているのであります。「言葉も知恵も」ということがありがたいと思います。ただ言葉だけでなく、知恵も授けてくださるというのです。
 われわれの髪の毛一筋も失われることはない。だからわれわれは忍耐できるのであります。耐え忍ぶことができるのであります。

われわれは終末に備えようとするとき、なにか今から立派な生活をしておかなくてはならないのではないかと思うかもしれません。たとえば、善行をつんで置かなくてはならないのではないか。愛の善行をしておかなくてはならないのではないかと思うかもしれません。マタイによる福音書には、いと小さい者のひとりに小さな愛をしている者が羊のほうにわけられたという主イエスのたとえ話を思い出すかもしれません。そこでは信仰などひとつも問題にされないで、ただ愛が、具体的な愛の行為が問われているとある人が言っております。たしかにそうかもしれません。そこでは観念的な信仰、口先だけの信仰など問題にされないのであります。

 しかしそこでいわれている愛というのは、どういう愛でしょうか。主イエスから「お前はわたしが病気の時に見舞ってくれた」といわれた時、そういわれた人は、「ええ、いつそんなことをしましたか」とびっくりして、イエスに尋ねるほどに、彼は自分が終末の時に救われるために、小さな人に親切にしたわけではないのです。彼は愛の善行を積み重ねておいて、救われようなどとはひとつも思っていない人であります。

 それに対して、逆にイエスから山羊のほうにわけられた人、つまりいわば悪魔のために用意されている地獄に落とされるといわれた人々のほうこそ、自分は終末の時に救われようとして、天国にいけるように、いつでも愛のわざを実践しようとして待ちかまえていた人々であります。イエスから「お前たちはわたしが病気の時に見舞ってくれなかった」と、非難されたときに、「え、いつそんなことをしませんでしか。いつあなたが病気でしたか、あなたが病気だったならば、まっさきにかけつけましたのに」と、いわんばかりに驚いたというのです。つまりこの人々こそ、自分は終末の時に救われるために、愛の善行をつもうと待ちかまえていた人だ、そして実際にはそんな人は愛のわざを行うことはできないし、そんなふうに終末に備えることはできない、と主イエスは語るのであります。

終末というのは、いつやってくるかわからないのであります。そうであるならば、終末がいつくるか、その前兆はなにかと、終末に備えて、晴れ着を着るようにして、なにか改めよう、などと、そんなことばかり考えるのてはなく、いつ来てもいいように、今の日常の生活において、この平凡であるかも知れないこの毎日の生活において「絶えず目を覚まして祈っている」ということが大事なのだというのであります。あの羊のほうに分けられるとイエスに言われた人々は、ひとつも大げさな愛をした人ではないのです。ごくごく日常の生活において、われわれがしているようなこと、自分の目の前に困っている人がいたら小さな親切をしてあげる、どこか難民がいるところに出かけていって命がけの愛の実践をしにいく人のことではないのです。病気の人がいたら、ただ見舞いにいくだけ、そんなことはわれわれが今日常の生活においてできることであります。

われわれはこの地上において、兄弟を愛することができない人は、目に見えない神を愛することはできない、と、ヨハネの第一の手紙にありますが、人と人との愛の交わりにひとつも喜びを感じられない人は、神との愛の交わりにも喜びを感じられないと思います。もちろん、実際には、人を愛せないということに悩んでいる人はいくらでもいると思います。どうしても自分は人を愛することがうまくできない、そして従って人からも愛されないといって苦しんでいる人はいると思います。だから神の愛を求めるということかもしれません。しかしそれは人からの愛を受けたい、人を愛したい、だけとそれができない、といって苦しんでいるのであって、全然人なんか愛したくも、人からも愛されることを望まないということではない筈であります。
 「現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである」というのであります。

 愛はすべてを望み、すべてに耐えるのです。愛していれば、愛は必ず報酬を与えてくれるます。祝福をあたえてくれます。何よりも神からの祝福が与えられます。だからわれわれは愛において望みをもつことができ、だからこそ、耐えることができるのであります。
 神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日には確信を持って立つことができる。終末の日にその終末の裁きに確信をもって立つことができるというのです。愛には恐れはないからだ。完全な愛は恐れを取り除くと聖書は告げるのであります。

 終末に備えるには、われわれはまずこの神の愛を信頼し、望みをそこから与えられて、耐え忍ぶということであります。耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取る、救われる、というのであります。耐え忍ぶということは、ある人が自分からじっとしている、動かないことだと、ここを説明しておりますが、しかし、二○節からをみますと、「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げよ。市内にいる者は、そこから出ていくがよい。」と言われております。ここでは「逃げなさい」といわれています。何もじっと忍耐していなさいとはいわないのです。耐え忍ぶということは、何か我慢することではないということであります。我慢して自己を主張したり、我を張ることではないのです。そんなかたくになってはいけない。逃げなくてはならない時にはさっさっと逃げなくてならないのです。

 つまり、忍耐するということは、我慢して歯を食いしばって我慢する、我を張るということではなく、あくまで、神の愛を信じて、神が守ってくださるのだから、われわれの髪の毛一筋も失われないことはないということを信じていけということなのであります。
 神の愛をどこまでも信じていきなさいということであります。それが耐え忍ぶということなのであります。 

 愛と信仰と希望、それがわれわれが終末に耐えさせる力なのであります。、