「イエスの最後の晩餐」  ルカ福音書二二章一ー二三節

 過越といわれる除酵祭の日が近づいた時、いよいよイエスは自分が捕らえる時が来たことを知ります。自分の弟子のユダがすで自分を祭司長たちに引き渡す準備をしていることを知ります。それでイエスは自分が捕らえられる前に是非とも弟子達と最後の食事をしたいと願って、その準備をしておりました。そのことは弟子達は知っていなかったようでありますが、恐らくイエスがあらかじめ準備をしていたようであります。
 
イエスは食卓につき、弟子達も席につきました。その時イエスは言われました。「私は苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過ぎ越しの食事をしたいと、切に望んでいた。あなたがたに言っておくが、神の国で過ぎ越しが成就する時までは、わたしは二度と、この過ぎ越しの食事をすることはない。」

 「過ぎ越しが成就する時まで」というのは、神の人間に対する救いが完成するまでということ、つまり、終末の時までということであります。過ぎ越しというのは、イスラエルがエジプトで奴隷の民として苦難にあった時、そのエジプトから脱出する時に、イスラエルの家の鴨居のところだけは、小羊の血がぬられていて、そこだけは、神は過ぎ越されて、その血がぬられていない家の長男と家畜の初子はみな神に裁かれていった。それによってエジプトの王パロは、とうとう降参してイスラエルがエジプトから出ていくことを許したという出来事から来ている祭りであります。つまり、イスラエルの人々は罪のない小羊の血、つまり、小羊の死によって、小羊が自分達の身代わりになって死んでくれたことによって、救われたということを思い起こす祭りであります。

 われわれが救われるのは、ただ救われるのではなく、その背後に罪のないものの死、その犠牲のあがないがあって救われるのだということなのでありす。今神の子であるイエス・キリストは、その罪のない小羊として、十字架で死のおうとしているのです。イエスはそのことを弟子達だけにでもわかってもおうとして、この「過ぎ越しの食事」を切に望んだのであります。パンとぶどう酒を渡し、「わたしはあの過ぎ越しの小羊として、今自分の肉を裂き、血を流そうとしているのだ」ということを弟子達に示そうとするのであります。その過ぎ越しの食事を弟子達として、なんとかして、ご自分の十字架の死の意味を弟子達に分かって貰おうと切実に願ったのであります。

 「神の国で過ぎ越しが成就するときまで、わたしは二度と、この過ぎ越しの食事をすることがない」というのは、今この晩餐はいわば一期一会ともいうべき、ただ一度の、ただ一回かぎりの食事なのだから、お前たちは心してこの食事の臨んで欲しいということであります。

 ルカによる福音書では、今日われわれがいたします聖餐式とは少し違って、パンとぶどう酒の前に、杯を取り感謝して、「これを取って互いに分けて飲め」といっております。つまり二度ぶどう酒を分けております。これはこの晩餐が普通の食事の中でされたことをあらわしているとある人が説明しております。

 そしてイエスは、パンをとり、感謝してこれをさき、弟子達に与えてこういいます。「これはあなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するために、このように行いなさい」といいます。このイエスの言葉、いわば命令によって、今日、われわれ教会は、主の晩餐の出来事を思いだすために、礼拝のなかで聖餐式をするようになったのであります。

「わたしを記念するために、このように行いなさい」という日本語の訳はどうもあまりいい訳とは思えないのです。「記念するため」と言う表現だと、なんか軽い感じがしてしまわないか。「記念」という日本語は、今では記念行事とか、記念日とか、何か行事化してしまって、内容のないものになってしまわないかということなのです。新共同訳聖書も同じ訳ですが、岩波書店から出ております新らしい聖書の訳では、「わたしを思い起こすために、このように行え」となっていて、このほうがいいような気がいたします。

 大事なことは、記念などという、何か年中行事のようなことではなく、「思い起こす」ということなのです。何を思い起こすのか、それはイエス・キリストのこと、特に肉体をもったからだのイエス・キリストのことを思い起こすことなのであります。このあと、ぶどう酒を差し出して、「この杯はあなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と言って、ぶどう酒を分け与えることによって、これは「わたしの血」なのだいうのです。これを覚えておいて欲しい、これを決して忘れないで欲しい、それをイエスは今弟子達に切実に望んでおられるのであります。

 これは言ってみれば、「わたしのことを決して忘れないでほしい」ということであります。これは少し異常なことではないでしょうか。
 ある人がここのところをこう言っております。「主のご生涯を読んで、ひとつ気がつくことは、どの場面においても、主がひたすら、ご自分を隠そうとなさった、ということである。その意味では、押さえに押さえた一生であったということができる。どこでも、ご自分をあらわそうとはなさらず、かえって、隠そうなさったのが、主のご生涯の大きな特色である。そして、最後の晩餐は、そういう意味からいうならば、その隠しに隠しておられたことを、一挙に、ここで明らかにしようとなさったことだ」と言っております。

 これはわれわれ日本人のいわゆる美学というか、感覚にはあまり合わないのではないか。われわれの感覚からいうと、たとえば、ある人に親切にしたら、そのことを隠し通している、それが本当の親切であり、愛なのだと考えるところがあるのではないか。実際のところは、なんとかして、自分が親切にしたことを自分の口からではなく、誰かからいってもらいたくてうずうずしている、そうなってもらいたくて仕方ないのですが、自分の口からは言わない、いってしまったら、自分の親切や愛は偽物になってしまうと思うところがあるのではないか。

親切や愛を施して、知らん顔しておくのが本当の親切だと思っているところがあるのではないか。そういうことも確かに一理あるし、イエスも人に施しをするときには、宛てにしないで、隠れてしなさいと言っているのであります。
 しかし主イエス・キリストはここでは今はそうしないのです。「わたしはおまえたちのために肉を裂き、血を流して、死んでいくのだ、そのことを絶対に忘れないで欲しい、絶対に忘れるな」と、弟子達に告げている。弟子達だけは知っていて欲しい、だからこのことを覚えておくためにこれからずっとこのことをし続けて欲しいというのであります。

 イエスは人を愛するときに、愛し放しにはしないのです。愛された人間は、誰に自分が愛されたかをしっかりと知らなくてはならない。そしてそのかたに感謝しなければならない、その愛に応答しなければならない。そうならないと、その愛は完成しないということであります。イエスがある時、十人のハンセン氏病にかかっている人をいやしてあげました。その時にただひとりのサマリヤ人だけが自分がいやされたことを知ると、神をほめたたえながら、イエスのところに帰ってきたのであります。その時イエスは「きよめられたのは、十人ではなかっか。ほかの九人はどこにいるのか。神を褒め称えるために帰ってきたのは、この他国人のほかにはいないのか」といわれて、その帰ってきたサマリヤ人に対して「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」といわれるのであります。愛というのは、愛し放しではだめなのです。自分を愛してくれた人に対して、感謝して、その愛に応答できるようになって、はじめてその愛が有効に働いたということであります。

 愛というのは、交わりなのです。互いに愛し合うことのできる関係なのです。われわれが救われるということは、自分を愛してくれたかたが誰であるかを知り、そのかたに感謝し、そのかたと人格関係を結んでいくということなのです。愛というのは、愛をあたえてくれる人と切り離すことはできないのです。

 イエス・キリストは今自分が十字架の上で、ご自分の肉を裂き、血が流す時、この自分の死を絶対に忘れないでほしい、いや絶対に忘れるな、と弟子達にいい、それを強烈に印象づけるのであります。

ルカによる福音書には、復活したイエスがエマオの道で、イエスの弟子に会うところが出てきます。このふたりの弟子はそれがイエスだとはわからないで、死んだイエスの死体が無くなっているということで、町中が大騒ぎになっているという事を、その当のイエスに話すのです。すると復活のイエスは「ああ、愚かで心の鈍い者達よ、聖書がキリストは必ず苦難を受けたあと、栄光に入る、つまりよみがえるということが予言されているではないか」といいます。それでもこのふたりの弟子はそれが復活のイエスだとは気がつかないのです。そして夜一緒の宿で食事をしている時、イエスがパンをとり、祝福して裂き、これを彼らに渡したとき、彼らの目が開かれて、「あっ、このかたはイエスだ」とわかったというのです。このふたりの弟子は、あの最後の晩餐の席でのイエスのふるまいを理解しておりませんでしたが、しかしあのイエスのふるまいは、彼らの心に深く刻まれていたということであります。

 大事なことは、ここで彼らが思いだしたのは、イエスなのです。それがイエスであるとわかったということなのです。彼らがこの時わかったのは、十字架と復活という出来事ではなく、イエスという生身の存在を思い出したということなのであります。

 聖餐式で大事なことは、この事を通して、十字架と復活という教理をただ理解することではないのです。イエスがご自分の肉を裂き、ご自分の血を流して、われわれ人間を救おうとなさったということ、十字架ではりつけにされて死んでいったわたしのことを絶対に忘れないために、「このことをしなさい」ということなのであります。聖餐式で大事なことは、十字架という教理とか教えではないのです。十字架にかけられて死んでいったイエスという存在なのです。

 大江健三郎がノーベル文学賞を受けるために、ストックホルムに行くときに、彼の義兄でもあった伊丹十三からこういわれたというのです。「君がストックホルムにいったら、かならず外国人記者から、どうしてお前は広島の原爆にこだわるのか、戦争で沢山の人が広島以外でも死んでいるのに、どうして広島にこだわるのかと質問を受けるだろう。そのための答えを準備しておいたほうがよい」といわれて、彼はこういう答えを用意したというのです。「自分が広島や長崎の原爆にこだわるのは、原爆による死というのは、死んでいく人とその死を記憶する人も同時に死んでしまうということだからのだ、それがどんなに悲惨なことか。だから自分は特別に原爆の死ということにこだわるのだ」という答えを用意した、そして実際にその質問を何度も受けたというのです。

 死んでいく人にとって、この自分の死を誰かが記憶してくれる、それが人間の死というものだというのです。原爆はそれを奪ってしまう、だからそれがどんなに非人間的なことかということであります。

 死んでいく人のことを記憶しておくということ、そのことは生き残っている者の責任であり、義務だというのです。われわれは死んだ人のことを思い起こす時には、誰でも多少は感傷的になります、センチメンタルになります。わたしも息子の死のことを思い出す時に、今でも感傷的になります。そしてそれは当然のことだし、必要なことだと思います。

主イエス・キリストは、ご自分が死ぬ前に、弟子達に「これはあなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、わたしのことを思い起こすために、絶対に忘れないために、このように行ってほしい」といわれたのです。これは「わたしのからだだ、わたしの血なのだ」というのです。

 ですから、われわれは十字架の救いというものをこの生身のイエス・キリストから切り離して、ただこれを教理化して、論理化して、十字架の救いの構造を語っても、それは救いにはならないのです。キリストの十字架の救いの論理は、仏教にもある、仏教の浄土真宗にもあるということをいいだすキリスト教の学者がおりますが、それでは救いにはならないのです。それが救いであるならば、礼拝するという行為は必要なくなってしまうのです。われわれの救いにとっては、神を礼拝し、その礼拝において、イエス・キリストこそ我らの救い主と告白することがどんなに大事か、それがなければ救いにはならないのです。

 聖餐式で大事なことは、この生身のイエス・キリスト、十字架にかけられたイエス・キリストを思い起こすことであります。よく外国旅行をなさったかたが、外国の教会にいって、そこになまなましいイエスのはりつけの十字架像をみて、すこし異様に感じられるようであります。あまりにもなまなましい。それは日本人の感覚に合わないというのです。わたしは外国にいったことはありませんが、絵でもあるいは、テレビや映画でもそうした十字架像を何度もみていて、確かにそう感じます。日本の教会の場合には、大変象徴的な十字架像であります。そこには十字架だけがあって、はりつけにされているイエスの姿はないのです。大変抽象化された十字架になっております。

 今までわたしはそれでいいと思っておりましたが、しかし今あらためてこの主イエスの最後の晩餐の記事を読む時に、この時イエスがどんなに「わたしのことを覚えておいてほしい」といわれたかということを考えるときに、われわれはもっと生身のイエス・キリストのことをこの聖餐式においても思い起こさなくてはならないのではないかと思うようになったのであります。

 聖餐式をあまりにも儀式化してしまうと、いつのまにか、肉を裂き、血を流したイエス・キリストという生身の存在から切り離されて、抽象化されたキリスト像しか思い起こせなくなってしまわないか。そしてそれはいつのまにか観念的な十字架理解になってしまっていないか。

 われわれの信仰にとって大事なことは、この地上に生きたイエス・キリストなのであります。そのイエス・キリストにあくまでこだわらなくてはならないのです。わたしのために、実祭に肉を裂き、血を流したかたがおられる、そういう生身の人間がおられたということ、そのかたが実は神の子であったということ、神が派遣なさった神のひとり子であったということ、その信仰が曖昧にされますと、われわれは罪から救われないのです。いつのまにか罪からの救いということをなにか論理的な操作で、あるいは、心理的な操作で、自分の心のうちで処理してしまうことになってしまわないか。

 われわれを救うためには、ひとりの罪なき神の子の死があったのだということ、それはもう自分の心のなかで悟るとか、心理的操作をするとかということではなく、自分の外部に客観的な事実として、歴史上の事実として、イエス・キリストの死というのがあったのだということを絶対に忘れてはいけないのであります。
 
 このイエスの最後の晩餐の席には、イエスをすでに売り渡そうとしておりましたイスカリオテのユダもおりました。イエスはこのユダにもご自分の死のあがないに預からせようとして、パンを与え、ぶどう酒の杯をわたしております。
 そしてユダについてこういいます。「ここにわたしを裏切る者かわたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は定められたとおりに去っていく。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。」

ユダの心にサタンが入ったのだとルカによる福音書は語ります。イエスの十字架の死はまるでサタンが計画したかのように、聖書は記します。しかしイエスは、どんなにサタンがわたしの死を計画していようと、「人の子は定められたとおりに去っていく」といわれて、「わたしの死は神のご計画の中にあるのだ」ということを弟子達に告げているのであります。サタンの計画よりももっと先行して神の救いの計画があるのだと告げているのであります。
 
 今日の世界の情勢をみますと、いまだにサタンの計画のほうが強力に働いているような気がするかもしれません。しかしこのイエス・キリストの十字架においてしめされた神の救いの計画は、そのサタンの計画を充分承知しながら、それに先行して、その背後に働いていることを示しているのであります。それはずいぶん遅い救いの計画かもしれません。しかし愛というのは、いつでも遅れをとるのではないでしょうか。人に罪を犯させないということでは、おどしのほうが一見有効にみえるのです。しかしそのようなおどしは、結局は脅しに対して反発を引き起こし、テロリズムを引き起こすのではないか。

 愛とか赦しというのは、本当に遅いようでいて、しかしそれだけが世界から悪を克服するただ一つの道でしかないです。十字架の救いは、一見神の子が死に、神が敗北するかのような計画に見えるかもしれませんが、しかしそうすることが神の救いのご計画なのだということをわれわれは信じていなくてはならないと思います。この十字架の死こそ、神の救いのご計画であることを信じ、この方向に生きるということにわれわれは世界の救済への望みをもたなくてはならないと思います。