「仕える者として」 ルカ福音書二二章二四ー三四節

 主イエス・キリストはご自分の死の時がいよいよ来たと自覚した時、弟子達と最後の食事をしようと切に望まれました。それは過ぎ越しの食事といわれる特別の食事でした。その席で、イエスはご自分をあの「過ぎ越し祭り」の時にながされる罪のない小羊として、今十字架で死のおうとしているのだと弟子達に告げるのであります。弟子達は誰ひとりそのことを理解しておりませんでした。しかしそれでもイエスは、今こうしてパン裂き、ぶどう酒を注ぎ、「これはあなたがたに与えるわたしのからだ」「これはあなたがたのために流すわたしの血だ」と言って、パンを与え、ぶどう酒を注いでおいたら、自分が死んだあとになって、彼らが集まって食事をした時に、この言葉を思い起こし、自分のことを思い出してくれるだろうと思ってそうするのであります。
 
 今日学びます二四節からのところは、そのイエスとの最後の食事の席での話の続きであります。二四節をみますと、「それから、自分たちの中でだれが一番偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に起こった」というのであります。

 「それから」というのは、すぐその前の言葉を受けております。イエスが「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は、つまり自分はということですが、自分は定められた通りに去っていく、しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」といいます。すると弟子達の間に「自分たちのうちのだれが、そんな事をしようとしているのだろう」と、互いに論じ始めたのです。

 すぐその後を受けての「それから」であります。イエスを、自分たちの先生を裏切って、捕らえさせ、そして死なそうとしている、そういう人が自分達の仲間の中にいる、それはいったい誰なのか、そんなひどいことをする奴がここにいるとはどういうことなのか、と言い合いが始まったのです。それは当然なことであります。他の福音書では、「まさか自分ではないだろう、まさか自分がそんなことをすることにはならないだろう」とまず、自分のことを怪ぶんだとなっておりますが、ルカ福音書は、自分達のうちの誰が、と自分以外の仲間をまず疑いだしたとなっております。

 いずれにせよ、そいつを探しだし、突き止めるのは今急務の筈であります。ところがその追求は、うやむやのうちに中断されて、「それから、自分たちのうちで誰がいちばん偉いか」という議論になったというのです。これは実に恐ろしいことであります。

 誰が一番偉いか、これは男が集まるといつも話題になる議論かもしれません。サラリーマンにとっての最大の関心事は、だれが最初に課長になるか、部長になるかということのようであります。誰が一番はやく出世するかが、一番の関心事なのであります。

 イエスの弟子達も彼らが集まるといつもそのことが話題になり、その話になると口角泡を飛ばして議論したのだと福音書は記しております。その議論を自分達の先生が今死のおうとしていると深刻に告げたその席でし始めたというのであります。
 考えてみれば、その前の議論、「自分たちのうちだれが、そんな裏切りをしようとしているのか」という議論だって、結局は「自分たちのうちだれが一番偉いか」という議論とあまり違わない議論ではないかと思います。

 今イエスは「お前たちの中でわたしを裏切ろうとしている」と言われているのです、それならば、それを聞いた弟子達は、すぐその裏切る仲間を捜し出して、イエスを裏切らさせない算段をすべきであります。今一番しなくてはならないとは、自分達の先生を死なせないことの筈であります。しかし弟子達の関心事は、イエスのことではなく、自分達のうちだれかがそんなことをするのかといこと、つまり自分達の身の潔白を証することでしかなかったということなのです。自分はそんなことはしない、それさえ明らかにされさえすれば
、イエスが裏切られて捕らえられ、殺されようが、かまわないということであります。

 自分の潔白が、自分の清さがいちばん問題なのであります。イエスが死ぬことが問題なのではなく、自分の正しさが一番の問題なのであります。自分さえ正しければ、人が死のおうとどうなろうとたいした関心事にはならないということであります。

 だから、弟子達は自分たちのうちだれが、そんなことをしようとしているのかという議論をある程度すると、それは途中てうち切られてしまい、すぐそのあとで、「それから」自分達の中でだれが一番偉いかという議論に移ってしまったのであります。もうイエスが自分たちのうちの仲間のひとりの裏切りによって、大変危険な目に会おうとしているということはすっかり忘れてしまっているのであります。

 イエスがこの弟子達の一連の議論をどのような思いで聞いておられたのだろうか。ますます自分は死ななければならない、この弟子達のためだけにでも自分は死ななければならないと思われたのではないだろうか。自分が自分が、と自分のことばかり考えるわれわれ人間、自分が一番偉いのだと考えたいわれわれ、自分がいつでも主人公になりたいと思っているわれわれ、そのわれわれの罪をうち砕くためには、まず自分が死ななければならないと思われたのではないか。
 
 イエス・キリストはこういうのであります。「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれている。しかし、あなたがたはそうであってはならない。かえって、あなたがたのなかで一番偉い人は一番若い者のように、指導する人は仕える者ようになるべきだ。食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人のほうではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で給仕する者のようにしている。」

 「一番偉い人間になるなどということは考えないで、仕える人になれ」というのであります。主イエス・キリストご自身が、神の子という、いわば、トップの座にいながら、その神の子であることを固守すべきこととは思わず、神の子の座を捨てて、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になり、そのありさまは人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に生きたのであります。

 おのれを偉くするのではなく、自分を低くしなさいというのであります。自分を低くするということは、謙遜になることですが、謙遜になるということは、自分ひとりで謙遜になることではないのです。自分ひとりでは謙遜にはなれないのです。よし、これからは自分を低くしよう、謙遜になろうとしても謙遜にはなれないのです。おのれを低くするということは、誰かに具体的に仕えることなのです。自分以外の誰かに、他者に仕える、それが自分を低くすることであるし、それが謙遜になるということなのです。

 主イエスは、何よりも父なる神に仕えました。自分ひとり謙遜になって、ご自分の人格をみがくとか、そんなことをしたのではないのです。父なる神という具体的な他者がいて、そのかたに仕え、そのかたに従順になったのです。たえず、父なる神のみこころはなにかということを祈りつづけたのです。自分の思想とか、自分の正義感とか、それを第一にしたのではなく、父なる神のみこころはなにかを知ろうとして、祈りつつげ、そのかたに従順に生きました。

 イエスの謙遜は、何か山の中に入って修養して、自分の自我を殺して謙遜になったのではないのです。自分を超えたかたに仕え、従い、従順になることによって謙遜になり、自分を低くしたのです。そのようにして、自分を偉い人間になろうとする思いを断ち切ったのであります。

 そしてまたイエスは、自分は父なる神に仕える、神にだけ従順にしたがうのであって、他の人間には従わない、そういう生き方をしなかったのです。

 神に仕えるということは、具体的には、自分の目の前にいる人にも仕えるということであります。
 よく偉い牧師のなかでも、自分は目に見えない神には仕えるが、目に見える人間には仕えないという生き方をしている人がおりますが、それでは、本当に神に仕えているとはいえないのです。神に仕えるということは、神が愛しておられる人間にも具体的に仕えるということであります。

 もちろん、仕えるということは、人に対して卑屈になるということではりあません。なんでもその人のいいなりなるということではありません。奴隷が主人に仕える仕えかたとは違います。奴隷はただ主人が恐いから、なんでも絶対服従しているだけですが、それでは仕えことにはならないのです。形の上では、仕えていても、心の中では主人をうらんでいるというのでは、仕えているとはいえないのです。仕えるということは、相手を本当に尊敬していなければ仕えることにはならないのです。かたちの上で奴隷のように仕えても、心のなかでは、いつかは復讐してやろうとおもっていては、本当に仕えたことにならないことは明らかです。

 仕えるということは、相手を尊敬していなければ仕えるということにはならないのです。尊敬と言う言葉が少し、奇異に聞こえるならば、相手を愛するということです。仕えるということは、愛するということであります。

ペテロの第一の手紙では、繰り返し繰り返し、仕えるということが勧められております。奴隷は主人に心からのおそれをもって仕えなさいと勧められ、妻は夫に仕えなさいと勧め、そして夫に対しては、妻を尊びなさい、といいます。尊敬しなさいということは、結局、内容的には、仕えなさいということであります。そしてそれは愛しなさいということであります。主イエスが教えた愛、主イエス・キリストが身を持って示した愛は、仕えるという愛でした。確かにイエスは、見た目にはいばっているかのように見えたかもしれません、イエスの言動には権威があったというのですから、いばっいるように見えたかもしれないし、威厳があったかもしれません、しかし根本的にはそれは仕える愛でした。仕えるということがいささかもないような愛は、愛ではないのです。

「自分たちのうちで誰が一番偉いか」ということで争論に夢中になっている弟子達に、イエスは「仕える者になれ」と言われたのであります。

 そのあと、イエスはわれわれからみれば少し奇異に聞こえることをいうのです。二八節からこういいます。「あなたがたはわたしの試練のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで、わたしの父が国の支配をわたしに委ねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせる」といわれます。おまえたちにご褒美をあげるといわれるんです。そのご褒美とはお前たちに天国での一番上座につかせるというご褒美だというのです。つまり一番偉い席につかせるというのです。こんなことをいったら、イエスが今までいわれてきたことが、全部否定されてしまうようなことをイエスはいわれるのです。

 こうでもいわないと、弟子達は人に仕える気にもなれないからかもしれません。自分を低くくできないということかもしれません。
 イエスはときどきこういういいかたをしました。人には何もあてにしないで、施しなさい、無報酬の愛を施せ、というのです。そうしたら、その何倍もお返しがあるから、というのです。人を裁くな、そうしたら人からも裁かれないから。そういう言い方をするのです。イエスは決して高尚な倫理などいわないのです。そういう意味ではきわめて庶民的です。われわれ人間の弱さをよく知っていて具体的に人を愛すること、人に施しをすること、人に仕えることを勧めるのです。

 ここもそういう面もあると思います。しかしここでは、それ以上にイエスの弟子達に対する感謝の思いが込められているのではないかと思います。「お前たちはわたしの試練のあいだわたしと一緒に最後まで忍んでくれた」と言って、これから自分が死のおうとしているイエスが、ここで弟子達に感謝の気持ちをあらわしているといってもいいと思います。この弟子達は決して完全無欠の人間ではないことはイエスは充分承知しているのです。すぐ「自分たちのなかでだれが一番えらいか」という議論で夢中になる愚かな弟子達であることをイエスはよく知っているのです。しかしだからといって、イエスはこの弟子達が自分に今までついてきてくれたことを決して意味がなかったとか、無駄だったとか、偽物だったとか言って、けなさいのです。その人間がどんな欠点があっても、弱さがあっても、一度失敗したからといって、イエスは否定しない、イエスはその人間の全体を見つめておられる、そして評価してくださってくだるのです。
 
 そして最後にペテロにこういいます。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」というのです。
 「サタンが麦のようにふるいにかける」というのは、麦の中に実のある麦と空麦とをわけるように、サタンは弟子達の信仰がほんものか偽物かをふるいにかけるということです。そして弟子達の信仰はみな偽物だったと証明してみせるとサタンは神に願いでたというのです。ちょうどヨブの信仰が御利益信仰かどうかをためしてみるのと同じであります。

 そして、みごとにこのサタンの作戦は成功したかのように見えたのです。このペテロをはじめ、弟子達はみな十字架につくイエスを見捨てて、みな逃げ去ってしまったからであります。ペテロはそのことに気がつかずに、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」といいます。するとイエスは、「ペテロよ、お前に言っておく、きょう、鶏が鳴くまでに、お前は三度わたしを知らないと言うだろう」といいます。
 そしてペテロはその通りにイエスを三度否定してしまうことになるのであります。

 そのペテロを立ち直らせてものは何か。それがこのイエスの言葉でした。「わたしはお前の信仰がなくならないように、お前のために祈った」という言葉であります。ペテロは、自分が捕らえられまいとして、懸命になってイエスを知らない、イエスなんか知らない知らない、と言った時、鶏が鳴き、そしてこのイエスの言葉を思いだしたのです。そして外に出て、激しく泣いたのです。
 
 イエスは、ペテロに対して「お前の信仰がなくならいように祈った」といわれるのです。「お前がどんなことがあってもくじけないように、祈った。お前の性格が強くなるように祈った」というのではないのです。あるいは、「お前がわたしのことを裏切らないように祈った」というのでもないのです。「お前の信仰がなくならいように祈った」というのです。

 信仰とは自分の信念とか確信とかというものではなく、信仰とは徹頭徹尾、神に対する信頼です。どんなに自分の意志が弱く、いわゆる自分の信仰がだらしなく、なんどでもイエスを裏切り、神を裏切っても、それでも神はこの自分を見放さない、それが信仰であります。神は自分の罪を赦しくださる、かならず救ってくださる、支えてくださる、それが信仰であります。その「信仰が無くならないように祈った」というのです。イエスが、これから自分がイエスを三度も裏切ってしまおうとする自分のことを承知しながら、自分のために祈ってくれている、その信仰であります。その信仰がなくならないように、イエスが祈っている、いやもうすでに祈ってしまったというのです。こんなに心強いことはないのです。

 ペテロが後に教会の中心になれたのは、この信仰に支えられてであります。それはペテロの信仰とか人格とか、そんなものによってではないのです。「お前の信仰がなくならなように、お前のために祈った。それで、お前が立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」というイエスの言葉を受けて、その励ましを受けてペテロは自分の仲間を励まして、教会を造っていったのであります。

あの「自分たちの中でだれが一番えらいか」という議論に夢中になってしまう弟子達をイエスは、見放さないで、天国で一番の上座に座らせてあげようといい、そして今自分を三度も裏切ることを知っているペテロをイエスは見捨てないで、そのペテロの信仰がなくならいように祈っているイエス・キリストがおられるのです。
 
 イエスは、われわれに対しても「お前の性格がつよくなるように、お前が罪を犯さないように」祈っているといわれたのではないのです。「お前の健康が維持されるように、お前が病気にならないように祈っている」と言われたのではないのです。「お前の信仰がなくならないように祈った、祈っている」といわれるのです。このイエスの祈りをわれわれはいつも思い出さなくてはならないと思います。イエスに対するこの信仰がありさえすれば、われわれはたとえ死の陰の谷を歩まなくてはならない時にも、病気になった時にも、手術を受けなくてはならない時にも、この信仰さえ失われなければわれわれはやっていけるのではないでしょうか。