「神の意志が実現するように」 ルカ福音書二二章三五ー四六節

 今日は三五節から学びますので、その「ゲッセマネの祈り」について学ぶ前にその箇所を学んでおきたいと思います。イエスは弟子達との最後の晩餐、過ぎ越しの晩餐をしたあと、弟子達に「わたしがお前たちにかつて伝道にいくときには、財布も袋もくつももっていくなと言って、派遣したことがあるが、その時、なにか困ったことがあるか」と聞きますと、弟子達は「何も困ったことはなかった、みな親切に自分たちを受け入れてくれた」と答えます。するとイエスは「今は財布のあるものは、それを持ってゆけ」といいます。それどころかイエスは「つるぎのない者は自分の上着を売ってそれを買うがよい」とまでいわれます。「なぜなら、お前たちに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』とイザヤ書にしるされている言葉がわたしの身に成し遂げられねばならないからだ、つまりわたしはこれから十字架で殺される道を歩もうとしているからだ」というのであります。

 神の子である自分が捕らわれて、殺される、そういう大変な時をこれから迎えようとするのだ、だからお前たちもそれなりの覚悟が必要だという意味をこめて、「財布をもっていきなさい、いやつるぎをもっていけ」というのであります。お前たちの先生が捕らわれるというのだから、今までのように、みんなが優しく迎えてはくれない、と警告する意味でそういわれたのであります。ですから、イエスはここで文字どおりの意味で、「つるぎを用意しなさい」といわれたわけではないようであります。

 しかし弟子達はその意味を悟らず、「主よ、ここにつるぎが二振りあります」と答えるのであります。もちろんこんなつるぎは役にはたたないのです。

 確かにイエスが捕らえられた時に、弟子のひとりがイエスを捕らえにきた祭司長の僕に斬りつけ、その耳を切り落としたのであります。つるぎをもっていた効果はあったわけです。しかしすぐイエスはその耳をいやしてあげたというのですから、「つるぎをもっていきなさい」ということは、なにも文字どおりにそうしなさい、といわれたのではなく、そういう覚悟でこれからの時を迎えなさいということであります。

 イエスは、ふたりの強盗と共に十字架につけられるわけです。そのことをマルコによる福音書では、「こうして『彼は罪人のひとりに数えられた』と書いてある言葉が成就したのである」と書かれております。これはイザヤ書五三章の「苦難のしもべ」の歌に出てくる言葉ですが、マルコによる福音書では、第三者がイエスの身にこういうことが起こったと記しているのに対して、ルカによる福音書では、この言葉をイエスみずから引用して、この言葉が自分の身に起こるのだと言っているのであります。
 
 主イエスは、弟子達との最後の晩餐の席でも、自分はこれから死ぬということをいわれるのです。その死は「罪人のひとりにかぞえられる」ような死なのだとイエスはお考えになっておられたのです。

 これは神の子イエスにとって、どんなにつらい思いをしたことだろうかと思います。イエスが十字架で死ぬということは、殉教者のように正義のために堂々と死ぬとか、そういう死をとげるのでなはいのです。殉教者は世間の人がなんと思おうと、殉教者本人はあくまで、自分は正しいことをして死ぬのだという自負と誇りをもちながら死ぬわけです。だからどんなに屈辱的な死であっても、肉体的に苦しい死であっても、そういう誇りをもちながら死ねるわけですから、堂々と死ねるかもしれません。

 しかしイエスはそうではなかった。イエスにとっては、自分が十字架で死ぬということは、罪人のひとりになりきって、罪人のひとりに数えられて、死ななければならないのです。イエス自身がそのように今自覚しているのです。

罪人のひとりになりきって死ぬということは、罪人としての罰を受けて死ぬということなのです。罪人として死ぬということは、自分を殺すということです。罪というものが、自分が自分がと自分を主張するということですから、その自分を殺すことが罪人としての罰を受けるということです。そして自分を殺すもっとも徹底的な殺しかたは、敵の手によって殺されるということであります。だからかっこいい死に方などは許されないのです。よく戦場で兵士がいうことは、敵の手によって殺されるくらいなら、その前に手榴弾で自害するといいますが、イエスは今そういう死にかたもできないで、許されないで、敵の手によって捕まえられ、殺されるという死にを迎えようとしているのです。自害とか切腹はゆるされないのです。

 イエスにとって十字架で死ぬということは、そういう死を死ぬということですから、それが本当に自分が歩むべき道なのかと迷うのは、とうぜんかもしれません。それがこれからオリブ山に行って、イエスが血の汗を流してまで祈られたイエスの祈りなのです。

 イエスは、弟子達から少し離れたところについて、ひざまずいて祈られました。ユダヤ人の習慣では、祈る時には、立っているのが普通でした。イエスも「あなたがたが立って祈る時は、人の罪を赦してあげなさい」といわれておりますから、ユダヤ人は普通は立って祈るのです。立って祈るというのは、天に向かって目を開いて、つまり神にしっかりと目を向けて祈る、ある意味では、堂々と祈るというのが、ユダヤ人の祈る姿勢だったということであります。しかしここではイエスは跪いて祈っているのです。どんなにイエスが打ちひしがれているかがわかるのです。

 そしてこう祈ります。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころがなるようにしてください」と祈ります。
イエスは、「わたしの思いではなく、みこころがなるようにしてください」と祈っておりますから、もし自分が十字架を負わなくてはならないのでしたら、それが神のみこころならば自分は十字架を負いますと祈っておりますから、ここだけを見ますと、イエスはそれが神のみこころとしての十字架ならば、自分は喜んで負っていきますと祈られたように思うかもしれません。

 しかしよく考えてみれば、このゲッセマネの祈りのイエスの祈りはそうではないのです。つまりこのゲッセマネの主イエスの祈りは、神のご意志でない十字架ならば、自分は負いたくはない、しかしそれが神のご意志ならば、わたしは喜んでこの十字架を負いますと言う祈りのようにみえまずか、そうではないのです。十字架が神のみこころなのかどうかを、ただ確認するための祈りではないということなのです。そんななまやさして祈りではなく、もっと激しい祈りなのです。つまり、神のご意志を変えてください、自分が十字架につかないことを神の意志にしてください、それを神のみこころにしてください、という祈りであります。なぜならイエスはこう祈っているからであります。「みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください」という祈っているのであります。

 つまり、イエスは自分が十字架につくことは、どうしても避けたかった、つきたくなっかったということなのです。言葉は悪いですが、もうはじめはやいやでしょうがなかったということなのです。しかしそれが結局は神のみこころなのだと知って、最後にはいわば仕方なく、しかし、いさぎよく、イエスは覚悟を決めて、十字架を負っていったということなのです。

十字架を負うということはそういうことなのです。みずから進んで、喜びいさんで、堂々と十字架を負うようなことではない、そんものは十字架でもなんでもなく、単なる自己満足的なヒロイズム、英雄主義的な十字架でしかないということなです。それは主イエスが祈ったような「わたしの思いではなく、みこころがなるように」という十字架ではなく、「わたしの思い」がかなう十字架でしかないということなのです。つまり、十字架というのは、自分が「よしこれを担っていこう」と、自分が選ぶのではなく、十字架というのは、必ず他から負わされるものであります。運命のようにして、宿命のようにして、自分が負わされる、それが十字架を負うということなのであります。それが「わたしの思いではなく」ということであります。
 
 森有正という人は長い間ひとりでフランスにパスカルを学ぶために留学して、初めは一年、二年くらいで日本に帰ってくるつもりでいったのですが、結局は最後までパリでその生涯を終えた哲学者ですが、そういう意味では大変孤独な生涯を送った人であります。日本に妻子がおりましたが、そんなわけで、とうとう離婚までしてパリに居続けたのであります。彼は自分の生涯をふりかえってこういうのであります。「自分は孤独を実現しよう思ってやったことは一ぺんもないし、また孤独になろうとし思ったこともない。ただ自分は自分の『内的な促し』に従って忠実に歩んでいく時に孤独としかよべないような事態が自分の中に生まれてくるだけだ」といいのす。つまり、孤独というのは、自分から選ぶものではない、自分から自分は孤独が好きだといって、自分が選ぶような孤独は真の孤独などてはない。そんなものはセンチメンタルなものだ、わがままに過ぎない、単に人嫌いで孤独になっているに過ぎない。

 こういうことをいいます。「わたしは孤独など大嫌いです。だれであろうと、孤独というのものはほとんうにまじめに考えたら孤独が好きになれるはずはないと思う。孤独というのは本当に恐ろしい。孤独にあこがれるというが、そんなのは孤独ではない。まして、すねて孤独になる人などというのは、孤独でもなんでもない。人の同情をひくために孤独を装う、そういうのは絶えず他人を意識している孤独であって、真の孤独ではない。本当の孤独というのは、本当に恐ろしい。ですから、本当の孤独がどういうものか、ほんのわずかでも経験しているひとだったなら、もう、孤独から逃げ出すために、あらゆる方法を講じるはずだ」と言っているのであります。

十字架を負うということもそうだと思います。自分でみずから、よしこれから十字架を負うなどといって負う十字架などは本当の十字架なんかではないのです。それは自分が選んだ十字架、自分に見合った十字架であって、それはイエスが祈ったような「わたしの思いではなく」という十字架ではなくて、「わたしの思いにかなった」十字架でしかないのです。それは自己満足的な十字架でしかないのです。主イエスが「自分を捨て自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」といわれた十字架は、自分が選んだ十字架ではなく、他から運命的に負わされる十字架であります。それを担いなさいというのです。そうでなければ、それを担うことによって、自分を捨てるなんてことはてぎないのです。十字架を担いながら、十字架を担って英雄的な気分でいたら、それはひとつも自分を捨てたことにはならないのです。

イエスはまず「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯を、この十字架をわたしから取りのけてください」と祈るのであります。そして苦しむのです。そしてイエスは、「どうしてもそれがゆるされないならば、しかし、わたしの思いではなく、みこころがなるようにしてください」と、ようやくこの祈りの言葉を出すのです。ですから、「みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」という祈りと、「しかし、わたしの思いではなく、みこころがなるようにしてください」という祈りとの間には、大変な距離がある筈であります。イエスは一気にこの祈りを続けておりますが、この「しかし」と言う言葉の中にどんなに苦渋に満ちて、この「しかし」を発せられたかをわれわれは知らなければならないと思います。

 この時、ルカによる福音書には、御使があらわれてイエスを力づけたと記すのです。しかしこの御使は、イエスから苦しみを取り除くために現れたのではなく、この天使があらわれてイエスを力づけると、イエスは「苦しみもだえて、ますます切に祈られた」というのです。天使はイエスが「わたしの思いを捨てて、神のみこころに従って歩むように」と力づけるために、イエスを励ますために天から降りてきたのであります。そしてイエスはますます苦しみ、その汗が血のしたたりのように地に落ちたのであります。

 しかし、神はこの必死のイエスの祈りになにひとつ答えないのであります。沈黙している。かつては、イエスがヨハネから洗礼を受けた時には、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と、聖霊を通して語りかけた神であります。また、あの山上の変貌といわれる出来事の時にも天から声があって、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」という言葉が語られているのであります。それなのに、イエスにとっては今一番、神からの言葉が欲しい時に、父なる神はなにも答えないのです。しかしイエスはその神の沈黙の中にかえって、神の固い決意を受け止めるのであります。自分が十字架で死ぬということが、神のみこころだと信じたのであります。

 なぜイエスはこの時そう受け止めたのか。それはそれまでのイエスの父なる神に対する対話と、人間の罪についてのイエスの思索とを合わせて、これが結論だと思ったのであります。

 われわれが何が神のみこころなのかと探ろうとして、必死に神に祈って、これがそうだ、今自分はこの十字架を負わなくてはならないのだと決断するのも、この時のイエスと同じではないかと思うのです。祈ったからといって、何か天から幻があらわれたり、天から声が聞こえるわけではないと思います。しかし祈っているうちに、これしかないというものが聞こえてくる、それはそれまでわれわれが教会の礼拝を通して、あるいは自分の密室で聖書を読み、聖書のみ言葉を聞いてきた、それが積み重なって、その全体を通してあらわれてくる神の答えだろうと思います。

 そうしてイエスは、今これが「神のみこころなのだ」と受け止めて、あとはすべて神に委ねよう、このあと自分がどうなるかはまったくわからないけれど、すべては神に委ねようと決断して、祈りを終えて立ち上がるのであります。

 弟子達のところに行ってみると、弟子達は悲しみの果てに寝入っていたのであります。本当に弟子達は悲しみの果てに寝入っていたのか、それともただ疲れて怠惰の果てに、眠っていたのか、はわかりませんが、イエスはそのように弟子達のことを見てくださったということであります。そしてその弟子達にこういいます。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。祈るということは、いろいろとその内容やその効果はあると思いますが、祈るということの一番の効果は、祈ることによって、最後はすべては神にお任せしようという気持ちにさせられるということであります。よくはわからないけれど、これが神のみこころなのだから、この道を歩もう、どうなるかはわからないけれど神に委ねようという思いをもてるようになるということであります。そしてそれが一番誘
惑に勝つ道であります。

われわれは自分で誘惑に勝つなんてことはできないのです。自分で自分を捨てるなんてことはできないのです。自分で十字架を負うなんてことは到底できないのです。ただ神に委ねよう、神にいっさいお任せしよう、それならばできるのではないかと思うのです。ルカによる福音書では主イエスの十字架の最後の言葉は、「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」という言葉だったと記されているのであります。これが罪人のひとりに数えられ、罪人として死ぬイエスの最後の祈りなのであります。これが罪を克服するただ一つの道なのであります。