「裁かれるイエス」 ルカ福音書二二章六六ー二三章二五節

 われわれは人を裁くことはいくらでもありますが、あまり人から裁かれる経験というのはないのではないかと思います。裁かれる前に逃げてしまうか、うまく手をうってさばかれないように逃れてしまうからであります。人を裁く時というのは、楽しいのです。自分では何か優位に立っているような気がしているからであります。しかし人から裁かれるということは、大変つらいものであります。われわれは実際に法廷に立たされたことはなくても、それに似た経験なら少しはしているかもしれません。
 
 イエスは今、神の子でありながら、裁かれる場に立たされているのであります。
 
 イエスは捕らえられ、大祭司の邸宅につれていかれて、夜を過ごしました。マルコやマタイによる福音書では、ただちに、つまり夜中に異常な裁判が行われたと記しておりますが、ルカによる福音書では、夜があけてから裁判が行われたと記されております。

 イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、目隠しをして「言いあてて見よ、打ったのは、誰か」ときいたりしたというのであります。まるで子供じみたことをやり出すのであります。

 夜があけた時、長老、祭司長、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き渡して、裁判をいたしました。「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」とイエスに質問します。キリストというのは、ヘブル語でいったら、メシアということ、「あなたは救い主なのか」と問うたのであります。それに対してイエスは「わたしがそう言っても、あなたがたは信じないだろう。わたしが尋ねても、答えないだろう」といいます。

この「わたしが尋ねても答えないだろう」という言葉はちょっとわかりにくい言葉であります。なぜこの時イエスはこんなことをいわれたのか。なにをイエスは祭司長たちに尋ねようとしているのか、よくわからないからであります。「わたしがキリストだといっても、あなたがたは信じないし、あなたがたはそれを信じるかとわたしが尋ねても、あなたがたは答えないだろう」というくらいの意味なのかもしれません。そしてイエスは決定的なことを言います。「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」といいます。「人の子」という言い方は当時、キリストと同義語で使われていた言葉であります。それで彼らは改めて「では、あなたは神の子なのだな」と、問います。

するとイエスは「あなたがたの言うとおりだ」と答えます。これは新共同訳聖書では「わたしがそうだとあなたがたが言っている」と訳されております。
 後に祭司長達はイエスを当時イスラエルを統治しておりましたローマから派遣されておりました総督ビラトのもとに送りますが、イエスはその時もビラトの前でビラトから「お前はユダヤ人の王か」と問われた時も、口語訳では「そのとおりである」と訳されておりますが、やはり同じように新共同訳聖書では「それはあなたが言っていることです」と訳されております。その訳のほうがどうも原文に近いようであります。

これは自分が神の子であるとか、ユダヤ人の王であるとか、イエスのほうからは答えていない、イエスみずから決定的な言質をあたえていないということをあらわしているのであります。つまり、この裁判が不当な裁判であることをあらわしているのであります。

イエスはこの一連の裁判の席で、これ以外のことはほとんど口をひらかないのであります。後にビラトはイエスがガリラヤ出身だと聞くと、ガリラヤを統治していたヘロデのもとにわざわざ送り届けて、イエスに直接かかわるのをさけようとしていますが、ヘロデもまた一度イエスに会ってみたいと思っていたので、イエスが送り届けられたことを喜び、興味津々でいろいろとイエスに質問しますが、もうこの時はイエスは何も答えなかったというのであります。
 
 ルカによる福音書にはありませんが、マルコとマタイによる福音書では、イエスは裁判の席で、ピラトが不思議に思うほどに何も答えなかったと記されております。この一連の裁判で印象深いことは、イエスの沈黙だ、この裁判ではイエスの沈黙がその裁判を支配していた、このイエスの沈黙に人々はいらいらさせられていたのだとある人が言っております。

 イエスは裁判の席で、全く沈黙していたわけではありません。言うべき事は言っているのです。自分が直接神の子であるとかユダヤ人の王であるといったかどうかはともかく、それらしいことはイエスは発言しているわけです。しかしそれを言ったあとはもう何もいわないのです。
 
 今日の裁判では、被告のほうに黙秘権というものが与えられております。自分に不利なことはいわなくてもいいという権利、自分が言いたくなければ言わなくてもいいという権利があたえられております。それは裁判というのは、昔は被告の証言が重用視されていて、そのために強制的に自白を強いられて、それでは真の正しい裁判は行われない、だから裁判は被告の自白によるのではなく、すべて証拠にもとずいておこなわれなてはならないということからできた被告の権利、それが黙秘権のようであります。
 
 このときのイエスはそういう意味での黙秘権的な沈黙でもないようであります。少なくもイエスは自分は神の子である、メシアであるということを認めているような発言をしているからであります。自分が不利な裁判を受けたくないから黙秘しているわけではないのです。
 
 われわれはこうして実際の裁判の席に立たされたことはないと思いますが、しかし裁判と同じような場に立たされることはあると思います。なにかのことでまわりの人から非難されたり、そのために弁明しなくてはならない場面に会うということは時々あると思います。多少自分に罪がある場合には、必要以上に弁明したり、なんとか自分のしたことを正当化するために多弁になると思います。決して沈黙などしない筈であります。

 またどんに自分が正しくて、いわばそれが濡れ衣だということになった時、不当な裁判を受ける時には、やはりわれわれは弁明する。あのヨブ記をみるとわかります。ヨブは自分は正しいのに、とんでもない災難を受けた時に、神に対して多弁的ともいわれるくらいに、神に喰ってかかり、神からの回答を求めてやまず、また友人たちの言葉に反論いたします。自分が正しければなおのことわれわれは多弁になるかもしれないと思います。
 しかしイエスはこの一連の裁判の席では沈黙しておられた。このイエスの沈黙はどこから来ているのか。
 
 このことで私が大変教えられたのは、竹森満佐一の説教であります。このキリストの沈黙は、神の意志の堅さをあらわしているのだというのであります。そして神もまたしばしば沈黙する。神の沈黙は神の意志の堅さをあらわしているのだというのです。こういいます。
「神がわれわれの祈りに答えてくださらない時、われわれは神の沈黙について、考えざるを得ない。神のみ心がよくわからない時もそうだ。神の沈黙はこの場合には神が何を考えているか分からないということだ。しかし、ほんとうを言えば、神の沈黙をもっとも感じるのは、神がわれわれの願いの通りに答えてくださらない時である。自分には神からしていただきたいことがある。それに対して神はお考えをはっきりお示しになられたのである。

しかし、それはわれわれが思っていたこととは違う、それでわれわれは満足できないので、何度も求める。しかし神のみこころは変わらない。こういう時に実はもっとも強く、神が沈黙されているように思うのではないか。神ははっきり語っておられる。ただ、われわれがそれを受け入れたくないというだけなのである。それは神が何も語られないのと同じであり、むしろ、それよりも、われわれにとってはつらいのである。神の意志ははっきりしている、それは動くことはない、その時にわれわれは神が沈黙されると思われるのだと
いうのであります。」そう言った後、結論のようにしてこういうのであります。

 「神の沈黙とは神の意志の堅さをいうことであり、人間のわがままさを示すのである。」

 この時のイエスの沈黙は、その神の沈黙、神の固い決意のあらわれであります。その前の夜イエスはゲッセマネの園で必死に父なる神に祈りました。イエスは必死に自分が十字架で死ぬことがあなのみ心なのかと迫りました。その時神はなんの答えもしないで、沈黙しておられたのです。神はただ沈黙することによって、「人間の罪を救うためには、神の子であるイエスが十字架で死ぬ必要がある」という神の固い決意を示したのであります。この裁判でのイエスの沈黙もそれを引き継いだのであります。

 自分を弁明しない、どんな不利な立場に立っても、自分を弁明しないということは、人を感動させるかもしれません。それは何か見事な自己否定に見えるからであります。自分を徹底的に否定する、自分を主張しない人をみると、われわれは自分にはそうしたことはできないだけに、なにか立派な人に見えます。イエスもしばしば自分を捨てなさい、自分を主張してはいけない、といわれてきましたから、自己否定がわれわれの最高の倫理、最善の道徳とか生き方のように思われるのであります。
 この時のイエスの沈黙もそうした自己否定の現れなのだろうか。

 われわれは自己を主張する人、自我のあまりにも強い人というのは、嫌いますし、そういう人とはあまりつきあいたくないものであります。そうかといって、あまりにも自己否定するばかりする人ともあまりつきあいたくないのではないかと思います。尊敬はするけれど、あまりつきあいたくないのではないか。それはそういう人は偽善的だというのではないのです。その人は一生懸命に自分を抑え、自分を否定しているのです。そこには少しも偽善的なところはないのです。しかしあまり近寄りたくないということがあるのではないか。それはなぜかといいますと、その人は一生懸命に自己を否定しておりながら、それによってかえって自己を主張しているように感じられるからではないかと思うのです。そういう人は大変立派な人格者といわれる人に多いのではないかと思います。クリスチャンの中にはときどきそういう人がいるのではないかと思います。
 
 このことで考えさせられたことがあります。ある牧師のことですが、その牧師は、教会員に、特に神学生には、自分を出してはいけない、自己を主張してはいけないということを厳しく指導いたしました。その牧師はその説教にも自分のことは絶対に語ろうとはしないのです。説教においては、自己を否定するということを徹底して教えられた。その牧師が亡くなって、数年後にその教会の何周年かの記念誌が編集されました。ところがわたしはその記念誌を見て、唖然としました。その記念誌のほとんどがその牧師に対する礼賛の文章で埋め尽くされていたからであります。それはその牧師が一番嫌っていたこと、一番避けてきたことが、見事に裏切られてしまっているような思いがしたのであります。わたしはそれを見た時に、人間というのは、自分をこのようにして否定して、否定しても、その必死に否定することにおいて、結局は自己を主張していたことなのだなということであります。
 
 クリスチャンの中には、そして立派なクリスチャンといわれる人の中にはしばしばそういうかたが多いのではないか。その自己否定の強さにおいて、結局は強烈に自己を主張している。そういう立派といわれているクリスチャンの父をもった子供から大変尊敬されるということはもちろんありますが、しかししばしば子供からは大変疎んじられる、疎んじられるだけならばいいですけれど、時には強烈に憎まれることもあるのであります。

イエスはどうだったか。イエスの自己否定もそういう自己否定だったのか。福音書にしかイエスの生きた姿は記されていないので、実際のところはわかりませんが、福音書を見る限りは、イエスはそれほど不自然なほどに自分を否定はしてはおられなかったのではないかと思います。特に権力者たちには、堂々とその偽善性を暴いておられます。イエスが語るとまるで権威ある者のように見えたというのですから、決してただ自分を否定しておられたわけではないようであります。イエスは多くの人と一緒に飲み食いしておられたようですし、そのために時にはイエスは大食漢だ、大酒のみだと陰口も叩かれたようであります。そういう意味ではイエスは大変人間らしい自然な生き方をしたのかもしれません。慕われたかただったのではないか。

 ですから、この裁判の席でのイエスの沈黙は、ただ自分を否定するというところから生まれたものではなかったのではないかと思います。さきほど、このときのイエスの沈黙は、神の沈黙を引き継いだ沈黙だといいましたが、それはもっと正確にいえば、この時のイエスの沈黙は、神の沈黙の中に示された神の固い意志に、そのみ心に、委ねきったところから来た沈黙だということであります。

 イエスはこの時には、もうすべてを父なる神に委ねておられた、何が正しいかは神が裁いてくださる、自分が裁判を受け、そして有罪が決定され、そうして十字架で殺される、それはそこに父なる神の固い動かすことのできない決意と意志がある、ここに神のみ心がある、もう自分はその父なる神にすべてを委ねようという決断がイエスにはあった、そこから出た沈黙なのではないか。
 
そのことをペテロの第一の手紙ではこう記されているのであります。
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」と記されているのであります。
 
ここにはイエスのこの時の自己否定、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」という自己否定、そしてその沈黙は、ただ自分で一生懸命自分を否定しようとする自己否定からでたものではなく、いっさいを父なる神に委ねたところから出た自己否定であり、沈黙だと語るのであります。
 
この主イエスの裁判の時の主イエスの沈黙を予言しているかのように歌われている「主のしもべ、苦難のしもべ」といわれているイザヤ書五十三章にはこう歌われております。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれていく小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」と歌われております。ほふり場にひかれ、毛を切られ小羊は、もうただあきらめきって口をひらかなくなっているだけかもしれませんが、この苦難のしもべといわれている主のしもべ、そしてここで予言されているイエス・キリストは、ただあきらめて、口をひらかないのではなく、いっさいを父なる神に委ねておられたのであります。そこではこう歌われるからであります。「彼を砕くことは主なる神のみ旨であり、主なる神が彼を苦しませようとしておられるのだ、そして自分の魂の苦しみによって、多くの人を義とし、彼らの不義を負うことができるのだ。そのことを思う時には、彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」と、歌うのであります。

 主イエスは、いっさいを委ねることのできるかたを信じていたのであります。だから主イエスはこの裁判のとき、必要なことを語った後には、もういっさい口をひらかないで、沈黙したのであります。ルカによる福音書には、主イエスが十字架のうえで息を引き取る前に、最後に言われた言葉は、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」という祈りだったと記すのであります。

 われわれも正しいさばきをしてくださる神を知り、信じております、そういうかたがおられることを信じております。それならば、われわれもただいたずらに自己を主張したりしないで、小さいながら、自分を否定することもできるのではないかと思います。黙らなくてはならないときに、黙っていることもできるのではないかと思います。

 ヘロデのところに送られたイエスは、ヘロデの期待を裏切り、何も口を開かないので、再び総督ピラトのところに送り返されてきました。ピラトはイエスに何の罪を見いだせずに、イエスを釈放しようとしますが、祭司長たちに先導された群衆はそれを許さなかった。ピラトは祭りの恩赦制度を利用して、イエスを釈放しようとしましたが、群衆はイエスではなく、バラバを釈放しろとい出す始末であります。それはまるで今日の日本の政治状況そのままであります。これについてもう説教する気にもならないのであります。
 そうしてピラトはイエスを祭司長たちに引き渡したのであります。