「父よ、彼らをおゆるしください」 ルカ福音書二三章三二ー三八節

 イエス・キリストはゴルゴダの丘で十字架につけられました。その十字架の下では、人々はイエスの着物をくじ引きで分け合って取り合いをしておりました。それを民衆はみておりました。そして役人達は十字架の上のイエスを見上げてあざ笑っておりました。「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」と言ってあざ笑いました。

 自分自身を救うことができない者がどうして他人を救うことができるか、どうしてそれが救い主といえるのかというのであります。人々が考えている救いというものは、まず自分を救うこと、そしてその余力をかって他人を救うことでなければ、その救いは信用できないということだったのであります。

 ちょうどお医者さんが自分の健康管理ができていないで、病気ばかりしている医者だったならば、患者はそういう医者を信用できないということなのかもしれません。しかし本当の医者というものは、自分のことをうっちゃってまでして患者のことに献身的につくすのだと思いますが、お医者さんの場合には、そういう医者をわれわれは尊敬するかもしれませんが、救い主の場合には、どうもわれわれはそういう救い主はいやなのではないかと思うのです。
 なぜかといえば、そういう救い主にわれわれが救われたならば、救われたわれわれは、今度はやはり自分自身を救わないで、まず他者を救うことに献身的にならないといけないと思わせられるからであります。

 われわれが求めている救いは、まず自分自身が幸福になること、救われることであります。そうしてまず自分を安泰にして、それからその余力で他人を救うことにとりかかる、そういう救い主なのです。そういう救い主にわれわれは救われたいのです。そうでなければ、救われたわれわれは安心がいかないと言うことがあるのではないか。

 ところが、イエス・キリストは他人を救ったが、自分自身を救おうとはしないで、今黙々と十字架で死んでいこうとしているのであります。イエスは、本当の命を得たいと思うならば、まず自分を捨てなさい、自分を十字架につけなさい、そして他人のために自分の命を捨てるまでして、愛しなさいと勧めたのです。もう自分の命のことはいいというくらいに、自分に対する執着から解放されないと本当の救いはないといわれたのであります。

 兵卒どもはイエスをののしり、近寄ってきて酸いぶどう酒をさしてだして「お前がユダヤ人の王ならば、自分を救え」とあざ笑った。この酸いぶどう酒は死刑囚のための麻酔的な役割を果たすぶどう酒ともいわれております。
 
 十字架の下では、人々が自分の思いのままにふるまい、自分の求める救いを暴露しておりました。

 そしてその十字架の上では、イエスはこう祈っているのであります。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈っておりました。処刑者を前にして、みんな恐らく興奮していたし、喧噪の中にいたと思います。そうした中でどうして、そんなイエスの祈りの声が聞こえたのかと思われるかもしれません。これは後の人の創作、福音書記者の神学的な創作ではないかと思われるかもしれません。

 しかし考えみれば、この時、人々はやはり十字架の上のイエスに何かが起こるのではないかと異常な期待をもっていたのではないかと思います。劇的な奇跡が起こって、神のみ手が働いて、イエスがその十字架からいきなり天の上っていくのではないか、そんなことまで期待していたようなのであります。預言者のエリヤが現れるのではないかとも期待していたようなのです。

 確かにあたりは喧噪のるつぼであったかもしれません。しかしその中でやはり人々はイエスに注目していた。イエスの一挙手一投足に注目していたのではないか。ですから、イエスが唇を動かすと、あたりは一瞬しーんとなったのではないか。そうした中でイエスが何を語りだすか、何を祈るかは、みんな耳をそばだてていたのてばないか。

 イエスはこう祈ります。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。ここでイエスが祈っている「彼ら」、なにをしているのかわからないという「彼ら」は、ただ十字架の下でイエスの着物をくじ引きで分け合っている人々、イエスをあざ笑っている人々だけのことではないと思います。そうした人々の背後にあるすべての人々、そのなかには、イエスを銀貨三十枚で売り渡したイスカリオテのユダのことも含まれていたでしょうし、自分の弱さのためにイエスを三度否んだペテロも含まれていると考えてもいいと思います。

 そして彼らは酒に酔っているわけでもないし、いわゆる精神障害者でもないのです。十分責任能力のある人々であります。彼らは自分がなにをしているのか十分わかって行動を起こしている人々であります。イエスもそのことはよくわっかている。しかしそれでもあえて、父なる神にとりなすために、「彼らは何をしているのかわからずにいるのですから、ゆるしてください」と、とりなしているのでもないと思うのです。

 親は自分の子供が何か犯罪を犯した時に、その自分の子供をかばうために、本当はあの子はそれがそんなに悪いことだとはわかっていなかったのですとかばうようなことを、ここでイエスは祈られたのではないと思います。
 これはイエス・キリストが本当にそう思っておられることであります。
 
われわれの犯す罪というものは、それが罪だとよくわかって犯す罪と、それがそれほど重大な罪だとわからないで犯す罪と二種類あって、今イエスを十字架につけている人々の罪は、よくわからないでしている罪だ、だからゆるしてくださいとイエスはこの時祈っているのでもないと思うのです。

 そう考えるよりは、イエス・キリストはおおよそわれわれ人間の犯す罪というのは、イエス・キリストの目からすれば、神の目からすれば、みんな自分で何をしているのかわからなくなって犯す罪なのだ思って、こう祈られたのではないかと思うのであります。

パウロは、コリント人への手紙の中で、「不品行を避けなさい」と勧めるなかでこういうのであります。「不品行を避けなさい。不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分のうちに宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではない。あなたがたは代価を払って買い取られたのだ」というのであります。パウロは「あなたがたは知らないのか」といって叱るのです。どんな人も、そのからだは神から愛されている神の聖霊が宿っている宮なのだ、その神の愛を無視していいのか、汚していいのか、あなたがたはそれに気づいていないというのであります。不品行に陥っている者は、自分がなにをしているのかわからないのだということであります。それによってどんなに神を悲しませ、神の与えられた聖霊の宮を汚しているかを知っていないということであります。

 イエスは、小さい幼子をつまずかせてはいけないと言うとき、こういいます。「わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められるほうが、その人の益になる」といわれるのです。われわれは小さい者をつまずかせることをごく軽い気持ちでやってしまうかもしれません。しかしイエス・キリストの目からすれば、大きなひきうすに首かけられて海に沈められるほうがその人にとって益になるというくらい大きな罪だということに気づいていない、わかっていないということであります。
 
 われわれの犯す罪というのは、わかって犯す罪とわからないで犯してしまう罪と二種類あるのだということではなく、よくよく考えてみれば、それはみなよくわからないで犯してしまう罪なのだということなのです。イエスが十字架の上で祈られたように「彼はなにをしているのかわからないで」犯している罪なのではないかと思います。

パウロはクリスチャンになって、次第次第に自分の罪というものを考えた時に、こういうのであります。「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって、自分の憎む事をしているからである。わたしの欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている」と嘆くのであります。もうなにがなんだかわからなくなったというのであります。
 
 パウロはクリスチャンになる前には、律法主義者でした。律法によって生きておりました。その時には、何が悪で、何が善がはっきりしていたのです。しかしクリスチャンになって、自分が何か善いことをしようとすればするほど、そのことによって自分を誇りだしている自分に気がつくのであります。イエスが話した「自分が義人だと自任して、他人を見下げているパリサイ人の祈り」のたとえのように、「わたしはほかの人のような貪欲な者、不正な者ではなく、取税人のような人間でもないことを感謝する。わたしは一週に二度断食し、全収入の十分の一をささげている」と祈りながら、自分のことを誇らしげに神に自分の正しさを押しつけていることにパウロは気がついたのであります。

それではひとつも神の義に服する、神の正しさの前に頭を垂れるのではなく、いつもいつも自分の正しさを主張しているに過ぎない、それは罪の中でももっとも罪の姿なのだということにパウロは気がついたのであります。そしてそこから脱却しようとして、もがけはもがくほど、ますます神から遠ざかっていく自分に気がついて、「わたしはなんという惨めな人間なのだろう。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と嘆くのであります。
 
 律法的に生きている時には、善悪の基準ははっきりしていた。自分がなにをしているのかよくわかっていた。しかしクリスチャンになってからは、もう自分のことがわからなくなった。自分のしていることがわからなくなってしまったのであります。

 なぜわからなくなってしまうのだろうか。それは自分の問題は自分ひとりで、処理しなくてはならないからだと思いこんでいるからであります。また自分の問題は自分ひとりで処理できるんだと思いこんでいるからであります。自分の存在、自分のからだはただ自分ひとりのものだと思いこんでいるからであります。

 ちょうど、子供がある程度大きくなると、もう自分ひとりで大きくなったと思い込んで、自分ひとりでなにもかもできるんだと思いこむ、そして自分ひとりでなにもかもしなくてはならないのだと思いこむ、そうしては、それができなくなった時には、もう自分の責任で自分を殺して、自殺でもすればいいだろうと高をくくっているようなものであります。

 われわれの根本的な罪、根元的な罪は、人間は神によって創られ、神によって支えられている、神に愛されている者であるという事実を認めない、それを無視して、それを拒んで生きようとするところにあるのであります。
 事実に即して行動をしようとしないならば、われわれはなにがなんだかわからなくなるのは当たり前であります。

 われわれの罪は、本当はみな、イエスが祈られたように、「なにをしているのかわからずにしている」罪なのではないか。これが罪だとわかってしている罪なんていものは、本当はたかが知れているのではないか。われわれの罪の恐ろしいところは、自分でなにをしているのかわからないことをしている罪、それが実は一番恐ろしい罪なのではないか。

 自分のからだが自分だけのものではなく、神の愛を受けている聖霊の宮であることを忘れて、自分勝手にしたいほうだいにしてしまう、そうしては行き詰まった時には、自分で自分を処理すればいいだろうと高をくくっている罪、神はいと小さい者をどんなに愛しているかということを知らないで、軽い気持ちで小さい者をつまずかせている罪、ひとりひとりがみな神の愛を受けている、自分自身を含めて、神の愛を受けている。その神の愛と神の導きを受けなければ、われわれは一日たりとも生きていけないものであることを無視し、それを拒んで生きる時に、われわれの行動はなにをしているのかわからなくなってしまうのであります。

 イエスは、そのために「父よ、彼らをおゆるしください」と、祈ってくださっているのであります。

その十字架の上で祈られるイエスは、人間の罪をはっきりと見つめて、その人間の罪に対して怒るのではなく、なによりも悲しんでおられるのであります。怒っているのではなく、悲しんでいる。そうでなければ、「父よ、彼らをおゆるしください」とは祈れないのです。
 われわれは自分の罪に気づいた時に、神はこの自分の罪に対して怒っている、お怒りになっていると思うかもしれませんが、実は神はそれ以上にこのわたしの罪について悲しんでおられる、そのことになかなか気がつかないのではないか。大切ななことは、この十字架のうえで、主イエスは人間の罪をみつめて、怒っているのではなく、何よりも、嘆いておられる、いやそれ以上に悲しんでおられる、そのことに気がつかなくてはならないのではないか。
 
 イエスは十字架につくためにエルサレムに入った時、そのエルサレムのためにこういって嘆くのであります。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ、ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、お前たちは見捨てられてしまう」と深く嘆くのであります。ここにはイエス・キリストの深い悲しみがあります。

 神は悲しむのです。われわれはただ神の怒りだけに目をむけていては、本当の悔い改めはできないのではないか。神はただ怒るのではなく、悲しんでおられる、そのことに気がつかなければ、われわれは悔い改めは、悔い改めにはならないのです。
 
 詩篇の七三編にこういう神の悲しみにふれているところがあります。「幾たび、彼らは野で神にそむき、荒野で神を悲しませたことであろうか」と歌われてりおます。エペソ人への手紙では、パウロは「神の聖霊を悲しませてはいけない」と言われております。神は悲しむという表現は、あまりにも人間的だということでその表現は避けているのかもしれませんが、しかし数はすくないのですが、このように神の悲しみについて述べられているところがあります。

 親は子供が罪を犯した時に、なによりも悲しむのではないでしょうか。怒るよりも悲しむのではないでしょうか。そして子供はこの親の悲しみに気がつくまでは真の悔い改めはできないのではないか。

 受難節の中でわれわれは神のこの悲しみに気がつきたいと思のであります。