「わたしを思い出してください」 ルカ福音書二三章三九ー四三節

 イエスと共にふたりの犯罪人も十字架につけられました。そのうちのひとりは「あなたはキリストではないか。救い主ではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスをののしったというのであります。しかしもうひとりの犯罪人は、それをたしなめてこういいます。「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」と言ってたしなめたというのであります。

 この犯罪人がどういう犯罪を犯した人たちだったのかはわかりません。マルコによる福音書、マタイによる福音書には、「ふたりの強盗」と記されております。ヨハネによる福音書には、「ふたり」と記されているだけで何も記しておりません。多くの聖書の注解者はこのふたりはローマからの独立をかちとるための熱心党の一味だったのではないかと説明いたします。当時はそういう人々を「強盗」とも言っていたからだというのであります。しかしもしそうだとしますと、彼らはいわば確信犯であります。つまり自分たちは正義のために闘って来た者だという自覚があって、そういう自分たちを処刑するのは不当であるという自覚を強烈に持っていた筈であります。そうであるなるば、「お互いは自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」という言葉はでてこないはずであります。

 また、マルコによる福音書では、「イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた」と記したあと、「こうして、『彼は罪人のひとりに数えられた』と書いてある言葉が成就したのである」と記しているのであります。つまり、もしこの犯罪人たちが、強盗というような犯罪ではなく、正義のための確信犯という犯罪、政治的な犯罪人だとしたら、イエスは「こうして、彼は罪人のひとりに数えられた」ということにはならないことになってしまうのではないかと思います。ですから、ここでイエスと共に十字架につけられた犯罪人は、やはり本当の罪人の筈であります。

 その犯罪人のうちのひとりは、最後まで、この期に及んでまで、自分の罪を悔いないで、イエスに悪態をついている始末ですが、もうひとりの犯罪人はイエスにこう訴えたというのであります。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と訴えた。これは新共同訳聖書では「イエスよ、あなたの御国においでになる時にはわたしを思い出してください」となっていて、この訳のほうが原文に忠実で、これのほうがいいと思います。それに対してイエスはただちにこういいます。「よく言っておくが、あなたはきょうわたしと一緒にパラダイスにいる」といわれるのであります。

この箇所でわたしがいつも思いだすのは、ずっと昔読んで本の中で、この犯罪人についてこう記してところであります。クリュソストモスという古代の大主教が記しているということなのですが、こう書いているのです。
 「キリストは数限りない悪徳を身に負うた強盗を、パラダイスに引き入れたもうた。だれよりも先に、使徒たちよりも先に、かれをパラダイスへとひき入れたもうた。信仰によってのみ、彼は入れられた。彼の主に対する愛が、彼のためにすべてのことをしたのである。彼は泣いただろうか。断食をしただろうか。自分の衣服を引き裂いただろうか。ながながと自分の回心の現実性を証明しただろうか。そんことは、少しもしなかった。まさに、十字架の上で、彼は堕罪から至福へと移されたのである。」という文章であります。
彼はあの十二弟子よりも先にパラダイスにイエスと共に入れられたのだというのであります。パラダイスという言葉は珍しい言葉ですが、これは今のわれわれにとっての天国と考えていいと思います。

 イエスと共に一番最初に天国にいったのは、この罪人だというのです。しかも彼は何か優れた悔い改めをしたわけではない、ただ「わたしを思い出してください」と言っただけなのです。彼ははっきりと「自分は悪いことをしました、赦してください」とイエスに告白したわけではないのです。多少それを伺わせる言葉は言ってはおります。傍らの犯罪人がイエスに悪態をついたときに、彼をたしなめて、「自分たちがこうして処刑されるのは、当然だ、お互いは自分のやったことの当然の報いを受けているのだから」と言っておりますので、少なからず自分の罪は認めているわけであります。しかし彼はそれをイエスに向かって告白して、自分の罪の自覚と告白を盾にして、「だから、自分の罪は罪として認めますから、わたしの罪を赦してください」とは訴えてはいないのです。
 
彼はただ「わたしを思いだしてください」と訴えているだけであります。考えてみれば、これは不思議な言葉ではないか。これはどういう心境から出た言葉なのでしょうか。「わたしを赦してください」とか、「わたしを救ってください」とか、「わたしを地獄に落とさないでください」という言葉ではないのです。ただ「わたしを思いだしてください」というのです。

 もちろんこの「わたしを思い出してください」という言葉の背後には、「あなたが天国にいらした時には、わたしのことを思いだして、わたしを天国にひきあげてください」という思いが込められているのかもしれません。だからイエスもそれに応えて「きょう、おまえはわたしと一緒にパラダイスにいるよ」といわれたのかもしれません。

 もちろん、そういう意味を含んでの言葉でしょうが、それにしてもこの言葉「わたしを思い出してください」という言葉は、改めて考えてみれば、不思議な言葉だと思います。「わたしを救ってください」とか、「わたしを地獄に落とさないでください」と訴えてもよさそうなのに、そうは訴えなかった。そんなことはとてもおこがましくて言えないという思いだったのかもしれません。自分の犯して来た罪を思ったら、とてもそんなことは言えないという思いだったのではないかと思います。だからせめて、「わたしのことを思いだしてください」いうのがやっとだったということなのかも知れません。

 「イエスよ、わたしを思い出してください」という言葉は、この犯罪人にとって、死んだあと、自分のことを覚えてくれる人がいる、自分のことを思いだしてくれる人がいる、もうそれだけで、自分は救われると思いだったということを示しているのではないか。
 それは逆にいいますと、死んだあと、もう自分のことを誰も覚えてくれる人がいない、だれひとり自分のことを思いだしてくれる人がいないということは、耐えられないという思いだったのではないか。

 旧約聖書にただ一回でてくる言葉に「忘れの国」という言葉があります。それは詩篇八八篇の一二節にでてまいります。新共同訳聖書では、それは「滅びの国」と訳されてしまっていて大変残念ですが、それは死者の国のことなのです。その前後をみますとこうなっております。「あなたの慈しみは墓の中に、あなたのまことは滅びの中に宣べ伝えられるでしょうか。あなたの奇跡は暗闇に、あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか」となっているのであります。それは詩篇の三一篇の一二に「わたしは死んだ者のように人の心に忘れられ」とありますので、当時の人々の間には、死んだ人々はやがて忘れられていく、そして暗闇の国にいくのだと考えられていたということであります。死んだ者は人々に忘れられてしまう、そこから死というのは、「忘れの国」に行くということになったのではないかと思われます。

 死んでいく人にとってなによりも耐えられないのは、もう自分のことを誰も記憶してくれる人がいない、自分が忘れられてしまうということなのではないか。

 たびだび紹介して来たと思いますが、大江健三郎がノーベル文学賞をもらいにストックホルムに行くときに、義兄の伊丹十三からこういうことをいわれたというのです。「あなたがそっちにいったら、きっと外国の新聞記者からこう質問されるから、その答えを用意しておいたほうがいい。それは『お前はなぜ広島と長崎の原爆にそれほどこだわるのか。戦争の悲惨さというのは、広島と長崎の原爆だけではないのに』という質問を受けるだろう。だからその答えを用意したほうがいい」といわれたというのです。それに対して、大江健三郎は、こういう答えを用意した。「原爆の残酷さは、死んで行く者が自分の死を記憶してくれる人も同時に死んでしまうということだからだ。それが死んでいく者にとってどんなに残酷なことであるか」という答えを用意して、そして実際に外国の記者からそういう質問を何度も受けたというのであります。
 
 死んで行く者にとって、その自分の死を記憶してくれる人も同時に一瞬のうちに死んでしまうということが、どんなに悲しいことか、悲惨なことかというのです。わたしはこの大江健三郎の言葉を最初読んだときには、なかなかおもしろいこというな、なにか深いことをいうな、くらいにしかうけとめていなかったのですが、一昨年、自分の息子を三十三歳の若さで失った時に、この言葉を身に沁みて思い出したのです。

 彼が死ぬ一週間の間だにみせた親をみる目がやきついているのです。面会時間が終わって帰ろうとしますと、もう少しいてくれとしきりに訴えましたが、その間、親の顔を代わる代わるじっと見つめる、わたしはそのまなざし、その凝視に耐えられないで目をそらしたことが何度もありましたが、その凝視を感じるようになって、それまでは必ず回復すると信じてうたがいませんでしたが、何かあるのではないか、もしかすると死が近いのではないかと思うようになったのであります。

死んで行く者にとって、自分の存在というものをせめて親だけにでも、覚えておいてもらおうとしていたのではないか。彼はこれといって何一つ社会に貢献するようなことはしていない、だから世間の人にはなにひとつ記憶に残らないままこの世を去って行かなくてはならない、今までの三十三年自分が生きてきたということはなんだったのだろうかという思いがあったのではないか。

死んでいく者にとって、この自分の死を記憶してくれる人が同時に死んでしまうということがどんなに悲惨なことか。死んでいく者にとって、それまで自分が生きてきたということ、自分の存在そのものが忘れ去られてしまうということがどんなにさびしいことか、どんなに耐え難いことか。生き残った者はその死んだ者を記憶しておくということが、生き残った者の責任であるし、義務であるかもしれないとわたしは思うようになったのであります。

 イエスと共に十字架につけられたひとりの犯罪人は、イエスにただ「わたしを思い出してください」と訴えただけなのです。今までの罪を悔いますとも、だからわたしを天国にひきあげてくださいとも言わなかった。言えなかったのかもしれません。十字架で処刑されるくらいの罪を犯した人間であります。本当なら、もう自分の生涯をすべて消したいくらいの思いがあっただろうと思います。もう誰にも記憶されて欲しくないと思うのが本当だろうとわれわれは思いたくなるのです。しかし彼はイエスに「わたしを思い出してください」と訴えたのです。

 これはやはりイエスに対してだから、こう訴えのではないかと思います。裁判官にこんな訴えはしないだろうと思います。このかたは何も悪いことはしたのではないのに、今自分と一緒に十字架の上で死のおうとしておられる、そこに彼は何かをイエスの中に感じたに違いないと思います。「だからあなたが御国に入る時には、わたしを思いだしてください」と訴えたのではないかと思います。「あなたが御国に入る時、神さまと共にわたしのことを思い出してください」と訴えのであります。犯罪に犯罪を重ねて来た自分の恥ずかしい生涯ではあるけれど、それでもこの自分の存在そのものが誰にも忘れられてしまうということは耐えられなかったのではないか。

 イヌという動物は、飼い主に無視されるということが一番耐えられないそうです。イヌと人間と同じにするのは、おかしいかも知れませんが、われわれもそうではないでしょうか。小さい子供はだれも自分に関心を寄せてくれる人がいないということは耐えられないのです。だからいろんな人の関心を引こうとしていたずらをする、先生がいやがることをわざとするということであります。しかし親に守られているということをしっかりと知っている子供はそんなことはしない、そんなことをしなくてすむからであります。
 
 自分という存在が無視される、自分に誰ひとり関心をもってくれる人がいないということは耐えられないのではないか。そのためにわれわれは必要以上にゆがんだ形でいろいろと自己主張をしているのではないか。そこから罪を犯すようになっているのではないか。

イエス・キリストは、その十字架の上で、「わたしを思いだしてください」と訴えた犯罪人に対して「よく言っておく。あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」といわれたのです。「わたしと一緒に」であります。ただお前をパラダイスに放り込んであげるといわれたのではないのです。「わたしと一緒にパラダイスにいる」といわれたのです。この言葉を聞いた時にこの犯罪人はどんなに慰められたかわからないと思います。

 主イエスはある時、弟子達にこういわれました。「からだを殺しても、そのあとでそれ以上何もできない者どもを恐れるな。恐るべきものが誰であるか教えよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れよ。そのかたを恐れよ。五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみ前で忘れられてはいない」というのです。殺したあとで地獄に落とすという絶大な権威を持っている神は、どういう神かというと、あの価値のないすずめの一羽すら決して忘れていないかただというのです。地獄に落とす権威を行使しないで、われわれを救うことに全力を傾けかただ、だからそのかたを恐れなさいとイエスは迫害にあうかもしれない弟子達を励ましているのであります。
 
 あの雀ですら、神のみ前では忘れられていないというのです。この言葉はマタイによる福音書ではこうなっております。「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」といわれたとになっております。あの名もない一羽のすずめが地に落ちる時、つまり死ぬ時です、その死に父なる神は関わっておられるというのです。父なる神の許しがなければその一羽も死ぬことはないというのです。

 父なる神はどんな人の死にも関わっておられる。どんな犯罪人の死にも無関心ではない、その父なる神のゆるしがなければ地に落ちることはないというのです。神のみ前では忘れられてはいないというのです。
 
 もうなにもかもがいやになって絶望して、神にも絶望して、神からも逃れようとして、海の果てに逃れよう、いや陰府に床をもうけようという気持ちになった人が、もう自分で自分の命を絶とうとした人が、どこまでも自分を追いかけてくる神の御手を知って、神を誉め称えるようになった詩篇が一三九編であります。そこで詩人はこう神を賛美するのです。「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしきかただからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます」と歌います。

 絶望している者にとって、この自分のことに関心をもっている人がいる、いや、神がわたしのことを一番よく知っていてくださっている、そのことを知ることがどんなに慰められ、救われることかということであります。

 われわれは、死ぬ時に、この世を去る時に、「わたしを思いだしてください」と訴え、祈ることができるかたを知らされているということはなんと慰められることか。