「わたしの霊をみ手に委ねます」 ルカ二三章四四ー五六節

 時はもう昼の十二時ごろでした。太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そのとき、十字架の上でイエスは「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と声高く叫んで、ついに息を引き取られました。昼の十二時だというのに、全地が真っ暗になるということは、この一帯ではしばしば起こることだったそうです。それはシッコロと言って砂漠の砂嵐が吹くとそうなるのだということであります。この時もそうであったかもしれません。それは神の子が死ぬということにふさわしい光景でありました。

 そしてその時、聖所の幕が真ん中から裂けたというのです。この聖所はエルサレム神殿の中にあるところで、その幕とは、至聖所とそれ以外のところを隔てる幕のようであります。つまり至聖所は大祭司だけが入ることができる神聖な場所で、普通の人間、つまり罪を犯している人間は入ることが赦されない所です。それをへだてるのが幕なのです。その幕がイエスが息を引き取る時に、裂けたというのです。

 イエスが処刑されたゴルゴダとエルサレム神殿とは遠く離れておりますから、この事は後で確認されたことなのかもしれません。あるいは、あとからそういう伝承がうまれたのかもしれません。つまりイエスが死ぬことによってわれわれの罪が赦されて、われわれの罪と神とを隔てる幕が切り落とされたのだという象徴的な出来事として理解されたわけです。

 ルカによる福音書では、イエスが十字架の上で最後に発した言葉は「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」という言葉だと記されております。マルコ福音書やマタイによる福音書にある「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てなったのですか」という、あの痛切な叫びのような言葉は記されていないのです。

 なぜそうなのか。それはルカによる福音書がマルコやマタイによる福音書とは違う面からイエスの十字架の死をみようとしているからと思われます。マルコやマタイによる福音書では、イエスの十字架の死はわれわれ人間の罪に対するあがないの死としてみております。あがないというのは、いわば罪を赦してもらうためのお金ということで、お金を支払ってその罪をあがなう、今日のわれわれの言葉でいえば、つぐないという言葉のほうがわかりやすいと思います。
 
 イスラエルでは、罪を犯した者は傷のない子小羊をほふって、それを身代わりにして神に捧げて自分の犯した罪のつぐないをしたのであります。そこでは人間は自分の罪が、ただで、無償で赦されるとは考えなかった。罪というものは、そんなになまやさしいものではないと考えたのであります。自分の犯した罪を考えたら、とてもただで赦されるとは考えられなかったのであります。

 しかしそれではどれだけの代価を払ったら罪は赦されるのか。ただ動物の小羊をほふって、その血を流したら、それだけで自分の罪は償われるのか。そういう儀式をしていくうちに、その儀式しさえしていれば、罪は赦されるということになってしまった。その儀式は、やがて形式化していって、中身のない形骸化をひきおこしていったのであります。今度は逆にそういう傷のない小羊を捧げるという儀式をしておけば、どんな罪でも赦されるのだ、それならば、罪を犯しても大丈夫だということになっていくのであります。われわれ人間の罪というのは、どこまでいってもどうしようもないものであります。

 それで旧約聖書をみますと、そういう祭司が行う宗教的祭儀というものを批判して、預言者は「神はそのような儀式を喜ばれない。動物の犠牲の供え物など喜ばれない。神が喜ばれるのは、われわれ人間の砕けた魂だ。悔いた魂だ」といって批判するようになつたのであります。
 
 イエスもまた、そういう神殿で行われる祭儀的な儀式を批判しました。器の外側だけを清めても、人間は清められない、大事なのは、器の内部だ、人間の魂を清めることだといって、祭司とか律法学者の偽善性を批判したのであります。

 しかしイエスは、イスラエルの人々がずっと考えてきた罪のあがないとか、罪のつぐないという考えそのものを否定はしていないのです。罪に対してはそういう償いが必要だということは否定していないのです。問題は誰がつぐなうか、誰があがなうのかということであります。動物があがなうのか。傷のない小羊をほふりさえすれば、それであがなうことになるのか、つぐなうことになるのかということであります。

 イエスはそのことを考えつづけていって、神の子であるご自分がその罪のない小羊としてあがいなの供え物となろうとしたのであります。自分が、罪のない自分が、傷のない小羊として、血を流して、罪のあがないの小羊として死のおうとしたのであります。それはご自分がただ思いついたことではなく、旧約聖書のイザヤ書五十三章にあるあの「苦難のしもべ」と言われているところで、すでに預言されていることだったのであります。

 自分が来たのは、その傷のない小羊として死ぬことだ、そのようにしてご自分が神から捨てられ、神の罰を受けて死ぬことによって、人間の罪のつぐないをしようとしたのであります。

 それがマルコによる福音書、マタイによる福音書の十字架理解であります。それがイエス・キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びであります。

 主イエスは弟子達にこう語るのであります。「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるために来たのである」とはっきりというのであります。自分はあがないの小羊として来た、そのために自分は十字架で死ぬのだということであります。

 ところが、ルカによる福音書には、このイエスの言葉、「多くの人のあがないとして自分の命を与える」という言葉は、ないのです。この言葉はイエスの弟子達が自分たちは誰が一番偉いかということで争論が起こった時に、イエスがその弟子達を叱って「お前たちは偉くなりたいなら、しもべになれ、仕えるものになれ」と言われた中で、最後にいわれた言葉であります。

 この論争はルカによる福音書にもあるのです。それに対してイエスはやはりこういうのです。「あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕えるようになるべきだ。食卓につく者と給仕する者とどちらが偉いのか。食卓につく人のほうではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕する者のようにしている」と言われているのです。マルコとマタイはそのあとで、「わたしが来たのは仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分命を与えるために来たのである」という言葉が続くのですが、ルカによる福音書にはその言葉はないのです。

 その代わりに、シモン・ペテロが三度イエスを知らないというだろうという警告の言葉が続き、そしてイエスは「しかし、わたしはそのお前のために、お前の信仰がなくならいように祈っている」と言う言葉が続くのであります。

 そこでイエスは、「自分はあがないとして自分命を与えるために来た」という言葉の代わりに、「わたしは徹頭徹尾、お前たちのあやまちを赦す、お前たちの罪を赦す」という言葉がつづく、「お前たちを愛してやまない、お前たちの信仰がなくらないように祈っている」と言う言葉が続くのであります。

 ルカによる福音書には、「あがないの思想」というのはないのです。これはルカによる福音書がイスラエルの人々を対象にしたのではなく、異邦人を対象にして書かれた福音書であるということと関係があるかもしれません。異邦人、つまりイスラエルの以外の人々の中には、罪に対するあがいなという思想はない、だから、あがないなどいうことをもちだしても、理解できないだろうという思いがあったのかもしれません。

 イスラエルの人々は、自分の罪に対して誰が身代わりになって、犠牲になって
死んでくれて、自分の罪は赦される、そのことを知って、われわれ人間は悔い改めることができる考えていました。それに対して、ルカ福音書が伝えようとしていることは、父なる神は徹底的にわれわれ人間を愛し抜く、その父なる神の愛に気づきなさい、その父なる神の徹底的な愛に気づく時、われわれは悔い改めるのだということであります。

 これはルカによる福音書ではなく、ヨハネによる福音書の言葉ですが、「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛した」という愛であります。死ぬまで、死を賭してまで愛し抜く神の愛に気づきなさい、それに気づくことによって、人間は悔い改めに導かれるというのであります。

 ルカによる福音書だけにある「放蕩息子の話」で語るイエスの父なる神の愛はまさにそういう愛であります。
 マタイやマルコによる福音書には、放蕩息子の話はでてこないのです。その放蕩息子の話は、なんの償いをも求めず、そしてなんのつぐないもなく、罪が赦されるという父なる神の愛というものが語られております。マタイやマルコは、このような父なる神の愛は到底語れなかったのではないかと思います。
 
 それでは、マタイやマルコの立場は、放蕩息子を無条件に赦す父に不満をもらす放蕩息子の兄と同じになってしまうではないかと言われるかもしれませんが、マタイやマルコはその放蕩息子が本来しなくてはならない償いを神自らがなさってくださったのだ、それがイエスの十字架の死だと語るので、それは放蕩息子の兄の立場とは全く違うのであります。

ルカによる福音書には、あがないの思想はないといってもいいと思います。ルカによる福音書の続編ともいうべき、使徒行伝にも「つぐない」という思想はないのです。たとえば、聖霊を受けたペテロが初めて人々に福音を語りますが、そのなかで最後にイエスの十字架について語るのですが、こういうのです。
「ナザレのイエスは、神が彼を通してあなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されるはずはなかったからである。このイエスを神はよみがえらせた。そしてわたしたちは皆その証人なのである」と語るのであります。

 ここではイエスの死がわれわれ人間の罪のあがないの死であるということにはひとつもふれないのです。そしてここで強調されていることは、イエスは人間の手によって殺されたが、神はそのイエスをよみがえらせたということであります。十字架よりも復活であります。

 またそのあと、ステパノが説教しておりますが、そのステパノの説教でもイエスの死は実にあっさりと語られております。「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者になった。あなたがは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」と説教するのです。そこまで説教すると、イスラエルの人々の怒りをかって、彼はついに石で殺されてしまうのであります。

このステパノ説教でも、イエスの死は預言者のひとりの死と同じ扱いを受けているだけであります。十字架が罪のあがないの死という考えはでてこないのです。 

 その使徒行伝で、ただ一回だけ「あがない」という言葉がでてくるところがあります。それはパウロの説教として出てくるのです。「聖霊は、神が御子の血であがないとられた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」というところで出てまいります。教会というところは、御子イエスの血であがいなとられたのだいうのです。パウロが「あがない」について言及するのは、当然でであります。パウロはイエスの十字架こそ、あがないとしてとらえた人だからであります。

ルカにとっては、イエスの死は神の愛の深さをあらわすものとしてとらえられております。そしてそれはその死んだイエスを神がよみがえらせたのだということで、十字架の死は復活のひとつのプロセス、課程として、いわば神の愛と神の全能を示すひとつの手段としてとらえられております。

 むかしはやった歌に「骨まで愛して」という歌があったと思いますが、いってみれば、神は「死ぬまで愛した」ということであります。
 ところがマタイやマルコでは、十字架の死は復活に至るひとつの課程とかプロセスとか、手段というものではない、十字架の死そのものが神の救いの目的なのだという理解なのです。復活はその十字架の死こそ、神の勝利だということ、イエスの十字架の死をよりいっそうスポットライトをあてるためのものとしての復活なのであります。復活がなければ、十字架の意味がわれわれにはわからなくなってしまうからであります。

 ルカにとっては、イエスの十字架の死は、放蕩息子のたとえにありますように、どこまでもつらなく神の愛のあらわれとして、とらえられております。ですから、その十字架の上でイエスは「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈ったという言葉を記しております。またイエスと一緒に十字架のつけられたひとりの犯罪人に対して、「よく言っておく、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」と約束するイエスの言葉を記すのであります。そのような仕打ちにあってもなお父なる神の愛はつらなかれるのだ、神の愛の徹底的な深さをイエスは、そののようにして語るのであります。

 ところがマルコやマタイには、そんなことを祈るイエスの姿は記そうとしない。十字架にかけられたのが朝の九時、そして息を引き取ったのが午後の三時、そして最後に「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫して死んでいくのであります。それまでの間、イエスはその十字架のうえで沈黙を守り通すのであります。そして最後にその沈黙をやぶるようにして、「わが神わが神、どうしてわたしを見捨てなのでか」と、絶叫のような言葉を吐いて息を引き取ったと記すのであります。そこではひたすら罪人のひとりとしてほふられていく小羊、われわれの罪を一身に背負って死んでいく神の子の姿を示すのであります。もはやそこでは「彼らの罪をおゆるしください」とか「わたしと一緒にパラダイスにいる」とかを語る余裕などのない、ひとりの罪人、罪人のひとりになりきった神の子イエスを示すのであります。

 マタイやマルコは、十字架のうえで父なる神に捨てられていく神の子イエスが示されている。それに対してルカによる福音書が語るイエスの最後の言葉は「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」という言葉だったことを記すのであります。一方は人間の罪を背負って神に捨てられていく神の子イエスの姿、そして一方はあくまで神の愛を信じ切って、自分の死を、自分の霊を、父なる神に委ねきるイエスの姿が示されるのであります。

 そしてわれわれの罪と、それに対する神の愛とゆるしを考えたときに、われわれにとっては、このどちらも必要なのではないかと思います。聖書はあらゆることを通して、われわれ人間の罪の重さを語り、そしてそれ以上にあらゆることを通して、神の愛を語っているということであります。

 われわれは自分のさまざまな人生の場面において、自分の罪の重さを考えさせられる時には、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てなったのですか」と叫ばざるを得なくなるだろうと思います。そしてその時に、その自分の代わりにイエスが死んでくださった、私達がまだ弱かったとき、私達が罪人であった時にキリストは死んでくださったというパウロの言葉が身にしみてありがたいと思うだろうと思います。

 そしてまたある時には、ただひたすら、そのようにして示された神の愛を信じ切って、「父よ、わが霊をみ手に委ねます」と、いっさいを神に委ねることができるようになるのではないかと思います。

このイエスの最後の言葉「父よ、わが霊をみ手に委ねます」という祈りの言葉は、後に同じルカが書いた使徒行伝では、やはりステパノが殉教の死を遂げるときに「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」という祈りになっているのであります。そこではステパノが人々の怒りをかい、石で打ち殺されるところであります。その時ステパノは天をみつめていた、するとイエスが神の右に立っておられるのが見えたというのです。ふだんは神の右に座しているイエス、神の右でどっかりと座っているイエスが、石で打ち殺されていくステパノをみて、心配のあまり立ち上がってステパノをみつめている、そういうイエスの姿をみた。その時にステパノは励まされ、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈り、そしてそのあと「主よ、どうぞこの罪を彼らに負わせないでください」と、あのイエスが十字架の上で祈られた同じ言葉を祈ったと記されているのであります。

 イエスの祈り、「わたしの霊をみ手に委ねます」という言葉と、このステパノ言葉、「わたしの霊を受け取ってください」とは同じ言葉のようにみえますが、すこし違うのではないかと思います。イエスの祈りの言葉「わたしの霊をみ手に委ねます」という言葉、これはもうすっかり父なる神の愛を信じ切って神に委ねている言葉であります。それに対して、ステパノ言葉は「主イエスよ、わたしの霊を受け取ってください」という祈りの言葉は、痛切なお願い、叫びであります。訴えであります。

 われわれは最後の時に、死を迎える時に、イエスのようにすべてを神に委ねきって、「わが霊をみ手に委ねます」とはなかなか祈れないのではないかと思います。しかし、われわれはステパノように、「わが霊を受け取ってください」と訴えることはできるのではないか、しかも「主イエスよ」と、主イエスに、われわれの罪をとりなしてくださる主イエスに、そのように祈ることはできるのでなはいかと思います。