「うちひがれている者に自由を」ルカ四章一四ー三一節

 イエス・キリストは荒野で悪魔の試みを受けた時、「ただ主なる神を信頼する」という仕方でその試みをことごとく退けられたあと、御霊の力に満ちあふれてガリラヤに帰られました。そのうわさはその地方全体に広まった。イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬を受けられました。それから自分の育った故郷ナザレに行き、安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとした。すると預言者イザヤの書が手渡された。当時の聖書は一巻ずつ巻物になっていたようであります。イエスはイザヤ書を手渡されますと、すぐその中にあるイザヤの言葉を読みました。
 
 それはイザヤ書の六十一章一節と二節の箇所です。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせのである」と書いてあるところを読まれました。そしてイエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席につかれた。会堂にいる人々はこれからイエスがどのような説教をするのかと待ちかまえていた。するとイエスは「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と宣言し、説き始められたのであります。すると人々はみなイエスをほめ、またその口から出てくる恵みの言葉に感嘆したというのです。
 
 「主のめぐみの年を告げ知らせる」という「主のめぐみの年」とはイスラエルでは、ヨベルの年とも言われている年のことであります。ヨベルというのは牛の角笛のことで、そのヨベルを吹き鳴らして、これから「めぐみの年が始まる」と宣言する、それで「ヨベルの年」といわれているのですが、それは解放を告げる年の始まりを宣言するのです。イスラエルの社会では初めは土地というものは、神からの授かりものであるから、売買の対象にはならなかったようですが、それが崩れだしてきた、社会のなかで、土地の所有者とそうでない人との間に階層の差ができてきた。社会のなかに裕福な者と貧しい者との階層ができてきた。その格差をなくすために五十年に一度ヨベルの年というのをもうけて、この年には自分が買った土地を無償でもとの土地の所有者に返還しなくてはならない、またすべての奴隷が解放される、すべての借金はもう返さなくてもいい、そういうヨベルの年をもうけて、社会の格差をなくそうではないということで設定されたようであります。実際にそういうことがイスラエルの社会では行われなかったようであります。これは理想に終わったようであります。
 
 そしてその理念がもっと精神化されたのがイエスが引用したイザヤ書の六十一章の一節二節の言葉なのであります。やがてイスラエルにもそういうめぐみの年を告げる使者があらわれるとイザヤは預言しているのであります。もとのイザヤ書のほうを見ますと、ルカにある言葉と少し違います。イザヤ書のほうではこうなっております。「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心いためる者をいやし、捕らわれ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日を告げさせ」となっております。
 
 そこでは「主のめぐみの年を告げる」ということは、その裏面にある「われわれの神の報復を告げる」ということがセットになっているのであります。しかしイエスは、そのイザヤ書を朗読する時に、「主のめぐみの年を告げ知らせる」と朗読したあと、すぐその巻物をおいてしまったのであります。つまり「われわれの神の報復を告げる」という箇所はもう読もうとはされなかったのであります。もとのイザヤ書のほうには、その年は恵みの年であると共に、神の報復、復讐の年でもあることを告げておりますが、イエスはその神の復讐についての箇所は朗読しないで、聖書を閉じてしまった。そしてその後の解き明かしもイエスはただひたすら神の恵みの解き明かしに終始したのであります。それで人々は「その口から出て来るめぐみの言葉に感嘆した」というのであります。
 
 ルカによる福音書によれば、イエスの宣教の開始の言葉がこのヨベルの年、主の恵みの年がわたしが来たことによって、「この日に成就した」ということであります。このヨベルの年が単に理想で終わるのではなく、わたしが来たことによっていよいよ実現するのだというのです。これはあのバプテスマのヨハネの宣教の開始の内容とは随分違います。ヨハネは人々に「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから逃れられるとお前達は思っているのか」といって悔い改めを迫ったのであります。それに対してイエスは人々に無条件でまず神のめぐみの年が来たことを告げ知らせて、人々に悔い改めをせまったのであります。イエスはもう神の報復については告げないのであります。

 これはイソップの物語に出てくる「北風と太陽」の話しに似ております。北風は激しい冷たい風で旅人の着ている外套をはがそうとして失敗いたします。しかし太陽は旅人の着ている外套を脱がすことに成功するという話しです。激しい風が吹けば吹くほどわれわれは自分の身をちぢこませ、自分の着ている外套で自分を防御するのであります。しかし太陽の暖かい熱を受けるとき、われわれのかたくなな心はやわらぎ自分の外套をぬいで、自分から解放されていくのであります。
 
 イザヤ書で預言されている「主のめぐみの年」には、まず「貧しい者に福音が宣べ伝えられる」ということだと宣言されます。貧しい人がただちに金持ちになることではないのです。福音が宣べ伝える、福音とはなによりも、貧しい者が抱えている借金がもう棒引きにされる、もう借金を返さなくてもいいということです。いきなり貧しい者が金持ちになるのではないのです。なによりも借金が取り消されること、赦されることなのです。
 
 ゼロから出発することが許される、こんなうれしいことはないのです。それはいきなり金持ちになることよりももっと喜ばしいことなのではないか。もっと張り切れること、生き甲斐が与えられることではないか。ここで言われている「貧しい者」とはただ経済的な意味のことだけではないでしょう。ここで言われていることは、やはりわれわれの罪が何よりも言われていることであります。

 われわれ罪に苦しんでいるものにとってなによりもの福音は、罪が赦されることであります。それはわれわれがいきなり聖人にされてしまうことよりももっとうれしいことなのではないかと思います。自分の罪を知っているもの、そうしてそれに苦しんでいる者にとってなによりもうれしいのは、もう自分の罪で思い悩まなくてもいい、神様から「わたしは罪のあるお前をそのまま受け入れてあげる、お前の罪を赦す」と言われることなのではないかと思います。それはいきなりわれわれが聖人になることではないのです。自分を見つめればちっとも清くなんかなっていない、それはよくわかっている、それでもいい、と言われることくらいわれわれにとって福音はないと思います。そこからわれわれは立ち上がることでできるのではないか。清さに向かって一歩一歩自分の足で、自分のペースで歩み出せるのではないか。
 
 そしてそれは言葉を変えていうと、「囚人が解放され、盲人の目が開かれ、そうして打ちひしがれている者に自由が与えられる」ということなのであります。罪が赦されるということは、われわれに自由が与えられるということなのであります。われわれはどんなにいろいろなものに、捕らわれているか。「うちひしがれている者に自由を」というところは、新共同訳聖書では「圧迫されている人を自由にし」となっております。なんに圧迫されているか、そしてそれによって打ちひしがれているか。それは人々に圧迫されているのかもしれません。お前なんかだめな人間だ、役に立たない、そういって圧迫されている、そしてそういう圧迫に対してわれわれはそれに反論し、反発する気力もなく、本当にそうだと思ってしまう、そのためにわれわれは打ちひしがれているのではないでしょうか。

 ここに出てくる「貧しい人々」「囚人」「打ちひしがれている者」というのは、他の人々から圧迫されている人々であるかも知れません。ここに出てくる「囚人」も正しいことをいったために捕らえられた人かもしれません、あるいは冤罪のために捕らわれている人かもしれません。他の人の罪のために打ちひしがれている、他の人からお前はだめな人間だといわれ、そうして自分もまた本当にそうかもしれない、自分はだめな人間だと思ってみじめなってしまってている人々であります。われわれが打ちひしがれて惨めになるのは、自分の罪によってそうなることもあるし、他人の罪、他人の圧迫によってそうなる場合もあると思います。しかしそれでも他人の罪、他人からの非難とか迫害に負けてしまうという意味では、やはり自分の弱さ、自分の罪が問題なのであります。
 
 そういう人々に、そういうわれわれに自由があたえられる、そういう圧迫から解放してくれる、もう他人の評価など、他人の圧迫など気にする必要はない、他人の圧迫から自分を守るための厚い外套を着る必要はない、もう自分を重い外套で身を包まなくてもよくしてくださる、外套から解放してくれて、われわれをもっと身軽にしてくれる、それがめぐみの年が告げられるということなのであります。
 
 イエスは、この聖書の言葉を朗読した時に、「この聖書の言葉はこの日に成就した」と宣言するのであります。 すると人々は喜んだ。「その口から出て来る恵みの言葉に感嘆して言った、『この人はヨセフの子ではないか』。こんな大胆なことを言うイエスはわれわれがよく知っているヨセフの子だ、大工の子だ、と言って感嘆したというのであります。しかしその感嘆する人々のなかで、「いや、これはわれわれがよく知っているヨセフの子ではないか、われわれと一緒に育った大工の子ではないか」と言って、イエスの言葉を信用しない人々も出てきた。「これはヨセフの子ではないか」と言って、軽蔑する人々が出てきたようなのです。
 
 このところは解釈が分かれるようであります。リビングバイブルなどは、「この人はヨセフの子ではないか」と言った人々は、イエスのめぐみの言葉に感嘆した人々ではなく、この言葉を言った人々は、イエスのこの宣言を疑ったり、軽蔑した人々なのだという解釈をとってそう訳しております。最近出ました新しい聖書の訳もそのようになっております。
 
 しかし口語訳聖書も新共同訳聖書も、「感嘆して言った『この人はヨセフの子ではないか』」となっていて、初めは感嘆して、次に疑い出した人々がでてきたように訳しております。

 どちらの解釈が正しいかよくわかりませんが、しかし口語訳聖書、新共同訳聖書の解釈もよく理解できるのではないかと思います。イエスに対して人々はいつも二通りの反応を示すということはよくあることだからであります。一方の人々は、あのヨセフの子、あのわれわれと一緒に生活を共にした大工の子がこんなことを宣言していると言って、感嘆している、しかし一方では、あの大工のせがれがあんなことをいっていると軽蔑するということはありそうなことであります。そしてそれに影響されて、一度はイエスの言葉に感嘆した人も、身を引いていくということであります。
 
 それでイエスはイエスの言葉をそのまま素直に受け取ろうとしない人々の心を読みとって、こういうのであります。
 「あなたがたはきっと、『医者よ、自分自身をいやせ』という言葉を引いて、カペナウムで行われたと聞いていたことをあなたの郷里のこの地でもしてくれ、と言うであろう」といい、そして「よく言っておく、預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」と言われたのであります。この意味はこういうことではないかと思います。
 「医者よ、自分自身をいやせ」ということわざは、医者は他人の病気はいやすけれど、自分の病気については無頓着で、病気になってしまう、それでは医者の信用はなりたたないということわざのようです。
 
 ある人が、それはちょうどイエスが十字架にかけられた時に、群衆が、「おまえは他人を救ったが、自分自身を救えないのか。もしおまえが神にたよっているというのならは、神のおぼしめしがあれば、今十字架からおりてみよ、今救ってもらえ、そうしたら、われわれはおまえが神の子だということを信じよう」と言って、なじったことに通じるというのです。つまり、「あなたがカペナウムというよその町で、いろいろと病気をいやしたり、悪霊を追い出したり、しているが、あなたの生まれた町、このナザレでもしてみよ、そうしたら信じよう」といってイエスを信用しなかったということのようであります。

 イエスは「貧しい人には福音が、打ちひしがれている者には自由が与えられ、恵みの年が始まる」と、宣言したわけですが、それを聞いて、ある人々は感嘆したのですが、他の人々、あるいは一度は感嘆した人々も含めて、そんなめぐみの年の宣言をいうことよりも、もっと自分達の町で奇跡を行ってみせてくれ、とイエスに要求したのであります。それは今の日本でも国会議員に求めることは、国の政治をどうするかということよりも、おらが村に橋をかけ、鉄道を引いてくれ、選挙で一票を入れてあげるから金をもって来いというようなことを国会議員に要求するようなことであります。カペナウムで行った病気のいやしという奇跡を、自分達の町でもやってみよという、他人をいやす前に、自分をいやせ、自分たちをいやせ、ということで、これはわれわれ人間がいかに自分中心のことしか考えていないかということを暴露していることであります。
 
 十字架の上のイエスに対して「他人を救ったが、自分自身を救えない、そんなものは神の子ではない」とののしった人々の考えている神の救いであります。それは自分中心の救いしか考えないということであります。しかしイエスは、そういう自分だけが幸福であればいいという救いをもたらすために、神の子でありながら、ヨセフの子になったのではないのです。そういう自分中心のことしか考えないところから、この世には貧しい人がうまれ、正しいことを言ったために捕らえられる囚人がおり、圧迫されて打ちひしがれている人々がいるのであります。イエスはそういうわれわれの自己中心的な思いを、そういう罪をうちくだくために、この世に来たのであります。「他人を救ったが、自分自身は救おうとしないで、今自分は十字架で死のおうとしている」それがイエスの思いであります。

 「預言者は自分の郷里では歓迎されない」というのは、郷里の人は預言者という偉い人を自分の小さな目線でしか人を見ようしないからそうなるのではないかと思います。自分と同じ釜の飯を食べた人間がそんなに偉くなる筈はないと自分の立場からしか人を見ようとしない。自分の怠慢を棚に上げて、自分の卑しさからしか人を見ようとしないのであります。これも人間の自己中心的な思いのあらわれであります。イエスに対して、よその町でした奇跡をこの自分の故郷でもしてみよ、といったりするのは、彼らがいかに自分中心的かということなのであります。

 そしてイエスは更に、ザレパテのひとりのやもめと、シリヤのナアマンの例を引いて、多くのやもめがいたのに、また多くのらい病人がいたのに、このザレパテのひとりのやもめ、シリヤのナアマンだけがいやされたというのです。これはどちらも旧約聖書に出てくる人ですが、詳しいことは省きますが、どちらの人も異邦人で、どちらの人も謙遜にさせられて、救われた人であります。
 ナザレの町の人は同じ自分たちの町から出たイエスならば、まず自分達の町で奇跡を示せと自分達の特権を主張した、それに対してイエスは救いは自分の選民性を誇ったり、自分達は特別に救われる価値があるとか、権利があるとか、資格があるなどと主張する人には、いやしもあたえられなければ、救いもないのだと、イエスはこのザレパテのやもめとナアマンの記事をひいて言ったのであります。

 すると人々はイエスを町の外へ追い出し、その町の建っている丘のがけまでイエスをひっぱっていって突き落とそうとしたというのであります。

  イエスが「主の恵みの年」が、「あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と宣言した時には、感嘆した人々も、その恵みがいざ自分たちに直接与えられないとわかった時には、そんな救い主なんか用はないと言って、崖から突き落とそうとするのであります。