「よみがえられたのだ」ルカ福音書二四章一ー

 今日は主イエスの復活、よみがえりを記念する礼拝を守っております。復活日礼拝の説教のメッセージはただ一つであります。「主イエスはよみがえられた」ということ、この一つのことであります。ですから、復活日の礼拝の説教は、本当はながながと説教する必要はないのです。ただ一つのこと、「主イエスはよみがえられたのだ」ということさえ、伝えられれば、もうあとはなにもいう必要はないのです。そしてこのことが伝えられなかったならば、あとどんなことをいっても空しい説教になってしまうのではないかと思います。

 主イエスの復活ということは、福音書をみますと、イエスがなさった奇跡とあるいは同じような一つの奇跡であると思われるかもしれません。現にイエスはヤイロという会堂司の娘をその死からよみがえらせてりおます。あるいは、ナインの町ではやもめ女なの一人息子を生き返らせております。ラザロの復活の記事があります。イエスは難病といわれている病気をいやしたり、悪霊を追い出したり、さまざまの奇跡を行っております。イエスの復活というのは、そうしたイエスがなさった奇跡の一つなのでしょうか。そうではないのです。

 そうではないというのは、こうした奇跡は、その出来事そのものももちろん大事ですけれど、ある意味では非神話化できることであります。非神話化というのはどういうことかといいますと、非というのは、非ずという字です、神話を神話でないものにするという意味です。たとえば、イエスが湖の上で歩いて渡ったという奇跡は、実際にそうしたことをイエスがなさったということをそのまま信じることが大事なのではない、そんなものは古代にあった神話なのだ、偉人といわれる人によく伝承される神話なのだ、だからその神話を神話的でないものにする、その神話を通してわれわれに語ろうとするメッセージを、その意味をわれわれが読みとればいいのだという議論であります。

 非神話化というと、いかにも、難しそうで、またそんなことは不信仰だといわれそうですが、実際には、われわれが聖書を読むときにだれでもやっていることであります。たとえば、男だけでも五千人の人に五つのパンと魚二匹でその空腹を満たしたという奇跡、そしてあまりの者を集めたら、十二のかご一杯になったという奇跡、それをわれわれそんなことが文字どおり起こったこととしてとろうとしないで、そのことを通して神の恵みの豊かさという意味をとっているだろうと思います。それが非神話化ということであります。
 
しかしイエスの復活だけは、そのようにして、非神話化してしまったら、復活ということの意味がなくってしまうのであります。復活のメッセージは、なによりもこれが事実としてこの地上で実際に起こったことだと信じるかどうかなのです。復活ということは、それが実祭におこったのだ、それが復活の意味なのです。それを受け入れることがなければ、われわれのキリスト教信仰そのものが崩れてしまう、むなしくなってしまうというものなのであります。

 使徒行伝をみますと、ペテロをはじめ最初の教会の宣教の中身は、十字架で死んだイエスを神がよみがえらせた、この事だけを証言しております。ペテロの最初の説教はこうです。「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである」と語り、その結びの言葉は「だから、イスラエルの全家はこの事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」と結んでおります。「お立てになった」ということは、「よみがえらせた」ということであります。その次にペテロがした説教もその中心は「神はこのイエスを死人の中からよみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」ということであります。

 ここには十字架の死がわれわれの罪のあがないのためであるとか、そうしたことは何一つ語られていないのです。ただ、あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神がよみがえらせた、自分達はその復活したイエスと直接お会いした、その証人である、そのことだけを述べているのです。そしてそのことだけを宣べ伝えさえすれば、もう十二分に福音の宣教になったのであります。そこでは復活の意味についてすら、述べようとはしていない。その意味についてのただひとつの説明らしい説明は、「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されるはずはなかったからである」ということ、つまり「イエスが死に支配されるはずはなかった」ということ、その証が復活だったということであります。

 パウロになって、始めて復活の意味ということが語られるようになっております。使徒行伝に記されております、パウロの最初の説教は、その中心は繰り返し繰り返し、「しかし神はイエスを死人の中からよみがえらせたのである。イエスはガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人々たちに、幾日もあいだ現れ、そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている」と語り、その最後のほうで、もう一度「しかし、神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかったのである。だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が今や、あなだかたに宣べ伝えられている」と、ここで「罪のゆるしの福音」という十字架と復活の意味について語りだしております。しかしパウロの説教でもその中心は、神は十字架にかけられて死んだイエスをよみがえらせたという事実であります。
 
特にペテロの説教で明らかなことは、復活の意味について語るのではなく、復活の事実について語る、それが福音そのものの内容であった、神はイエスをよみがえらせた、そのことを語ることが、その事実そのものを語ることが、人々を悔い改めに導いたということなのです。

 ですから、復活という出来事だけは非神話化してはならないことなのです。たとえば、復活という出来事は、弟子達のイエスに対する強い思いが生み出した弟子達の幻覚体験なのだというように非神話化してしまって、その復活ということで示されている意味だけを読みとればいいのだ、それが事実として起こったどうかはどうでもいいことなのだということでは、復活の意味をなくしてしまうことなのであります。

 問題は、死人のよみがえりなんてことがあるかということであります。そんな荒唐無稽なことなんか信じられるかということであります。昔ならともかく、今の時代にそんなことを信じられるかということであります。しかしこれは今の時代には信じられないということではなく、イエスが生きていた時代にもこんなことは荒唐無稽のこととして、愚かなこととして人々に信じられなかったのであります。パウロが当時の文化の中心ともいうべきアテネで説教をしたときに、アテネの知識人たちは、パウロがイエスの復活について述べているといううわさをききつけて、それは大変珍しいことで、もっと詳しく聞きたいということで、アレオパゴスの評議所で説教させられます。そこでパウロが最後に、イエスの復活に話しが及びますと、人々は「死人のよみがえりの事を聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは「この事については、いずれまた聞くことにする」といって、パウロは立ち往生してしまったというのであります。

 死んだ人間がよみがえるなんてことは、今日だけではなく、いつの時代でも信じるなんてことはできないことだったのであります。

 イエスの復活を信じるということは、まず一番大事なことは、それはわれわれには信じがたいことが起こったのだということをはっきり自覚することであります。自分には復活などは、到底信じられない、この事をわれわれがまずしっかりと認めなくてはならない、認めることがむしろ一番大事なことなのです。
 
 イエスが十字架で死んで三日目、なすわち、週の初めの日、女達はイエスの死体に香料を塗ろうとしてイエスの墓にいったところ、そこにはイエスのからだは見あたらなかった。そこで途方にくれておりますと、天使たちがいて、女達にこう言ったというのです。「あなたがたはなぜ生きたかたを死人の中にたずねているのか。このかたはここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話になったことを思いだしなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」と、告げられます。そこで女達はその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。ところがそれを女たちから聞いた弟子達は、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかったというのです。

 あの弟子達ですら、主イエスの復活は信じられなかった。信じられないという自分達の不信仰の前に立たされたのであります。その弟子達がイエスの復活を信じたのは、復活したイエスが自分達の目の前に立ったからであります。トマスもイエスのよみがえりなんかとても信じられませんでした。自分の仲間たちはその復活の主イエスにお会いしたという話をしてるなかで、ちょうどトマスはその現場に居合わせなかったので、そんなことは信じられなかったのです。「自分はその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れて、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」と言っていたのです。そのトマスに復活の主が現れた。そしてトマスに「お前の指をここにつけ、わたしの手をみなさい。手を伸ばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」といわれたのです。その時にトマスは「わが主よ、わが神よ」といって信じたのです。
 
 トマスだけでなく、弟子達みんな復活の主イエスを目の当たりにして、始めて復活という出来事を信じたのです。彼らは、言ってみれば、自分たちの力で、自分たちの信仰の力で、復活という出来事を信じたのではないのです。復活を信じたいから信じたのでもなく、理詰めで信じるようになったのでもなく、まず復活なんか到底信じられないという自分の姿勢をしっかりと見つめさせられた上で、しかし「信じない者にならないで、信じる者になれ」と主イエスに促されて、始めて信じたのです。いわば、自分から信じたのではなく、信じさせられて、信じたのです。復活信仰を信じるということはそういう信じ方をするということです。
 
 ですから、軽々しく、わたしは復活を信じますといとも簡単に口先に出して言う人の信仰をわたしは信じたことはりあません。そういう人を軽蔑は決してしませんけれど、あまり信用することはできないのです。むしろ、復活信仰をわたしはどうしても受け入れられません、信じられませんと正直に言う人の信仰のほうをわたしは牧師としてずつと信用しております。もちろん、キリスト教信仰から、その復活という事実を切り離してしまう人の信仰を信用してるというのではないのです。それは繰り返すようですが、もうキリスト教信仰ではないのです。復活を信じられないといって、苦しんでいる人、なんとか信じたいのだけど、信じられないといって、なやんでいる人、そういう人の信仰的姿勢というものをわたしは信用しているということなのです。

 しかしその信じられないという不信仰をどこかで吹っ切らなくては、信仰にならないことも確かなのです。病気の息子がいて、なんと治してもらいたいと言って、イエスに向かって「自分の息子は病気です、できますれば、私どもを憐れんでください」と訴えました。そのとき、イエスは「もし、できればというのか、信ずる者にはどんな事でもできる」と、一喝されて、その父親は「信じます、不信仰なわたしをお助けください」というのです。その父親の信仰の姿です。
 
 自分は信じられない、ということで苦しみ続けるというのは、やはり自分ということにまだまだ執着していると言うこと、自分の理性とか自分の知性というものに、執着しているということです。その「自分」、その「自分の人間的誇り」というものをどこかで投げ捨てなくてはならない、自分を捨てて、神を信じる、自分を信じるのではなく、神を信じるほうに自分を投げ捨てなくてはならないのであります。

よみがえりの主イエスに直接じかに会ったあの弟子達と、そうでないわれわれとは、復活を信じる信じ方には、落差があります。ですからわれわれが復活を容易に信じられないのは仕方のないことであります。パウロ自身も直接よみがえりの主にお会いしていないのです。だから彼は復活を信じることに苦闘しているところがあります。ピリピ人への手紙のなかでいっていることです。わたしは「キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとかといのではなく、ただ捕らえようとして思い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである」というのです。

 もし、イエス・キリストがよみがえらなかったとしたならば、それが事実でないとしたらどうでしょうか。パウロはこういっております。「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたはいまなお、罪の中にいることになる。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちがこの世の生活だけのことで、キリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちはすべての人のなかで最もあわれむべき存在となる」と言っております。

 もしキリストの復活というものがなかったならば、われわれの信仰もわれわれの生活も全く空しいものになり、それどころか、いまなお罪の中にとどまっていることになる、というのです。それはどういうことでしょうか。「空しいものになり」ということはわかるとしても、なお罪の中にとどまっているとはどういうことでしょうか。

 もしイエスが十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになつたのですか」と、絶叫して息を引き取っただけだとしたら、どうでしょうか。イエスの弟子達は、その十字架の前では逃げだしてしまったかもしれませんせんが、そのあといろいろと考えをめぐらして、特にあの最後のイエスとの晩餐のことを思い出して、イエス様は自分達の罪のために死なれたのだ、ご自分の命を犠牲にしてくださったのだ、自分の命を犠牲にしてまで自分達を愛してくれたのだということは、わかるようになるかもしれません。そのように十字架の死の意味を理解できるようになったかもしれません。

 しかし、その十字架を理解したときに、確かにイエスに感謝はするようになると思います。しかしそこに喜びが生じるだろうか。かえって、重い重い負担、重い愛の負担を感じてしまうのではないでしょうか。彼らは一生イエスに対してすまない、申し訳ないという気持ちを抱き続けることになるのでないか。それだったならば、決して救われたという気持ちにはなれないのではないか。

 たとえば、自分が酔っぱらっていて、いい気になって線路の上を歩いていた、その時に電車がきた、その時に誰かが自分を突き飛ばして救ってくれた。しかし自分を突き飛ばして救ってくれた人は、自分の代わりに電車にひかれてしまった。そういう救われかたをした時に、われわれは本当に救われた思いがするだろうか。返って、ますます、自分の罪の重さの中に落ち込んでいくだけではないか。
 
 変な言い方になるかもしれませんが、わたしを救ったくださったかたが、自分の命を賭して、犠牲にしてすくってくださったかたが、神様のもとで今本当にしあわせになっておられる、神様から報われている、そのことをわれわれが知らさせないならば、われわれは決して救われたことにはならないと思います。

 今交読で読んでおりますイザヤ書五三章の「苦難のしもべ」の歌の最後は、そのように、われわれの罪を担って、人々に侮られ捨てられて死んでいったしもべは、最後には、神さまから報われると歌われているのであります。そのしもべ自身も「彼は自分の魂の苦しみにより、光を見て満足する」といわれている。「義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義として、また彼らの不義を負う。それゆえ、それゆえというのです、それゆえ、神は彼に大いなる者と共にものをわかちとらせる」というのであります。それがキリストの復活ということなのであります。

 イエスの死体に香料を塗るに来た女達に向かって天使はいうのです。「あなたがたはなぜ生きたかたを死人の中に尋ねているのか。そのかたはここにはおられない。よみがえられたのだ」と言われるのです。われわれを救ったかたが死に支配され放しではないというのてす。今イエス・キリストはよみがえられて、天に上り、神の右に座しておられ、しあわせてになっておられる、だから、ペテロも安心して、心から自分は救われたと確信することができたのです。
 
 また息子の死のことを持ちだして申し訳ありませんが、息子を亡くしてから多くの人がわれわれを慰めてくれます。そして牧師であるわたしをなんとかして慰めようとして、多くの人がその経験は牧師として貴重な経験になりますといいます。それはもちろんそういって慰めようしてくれる気持ちはありがたいとは思うのですが、しかしそういわれればいわれるほどそれは慰めにはならないという気持ちなるのです。ある牧師がご自分が息子を亡くした経験をふまえて言っているのでしょうが、牧師はひとりやふとりの子供を亡くしていないと、ほんものの牧師にはなれないといっているそうです。直接わたしがその話を聞いたわけではありませんが、わたしはその話を聞いた時には、子供を亡くさないとほんものの牧師になれないのならば、ほんものの牧師になんかなりたくないと思ったことでした。子供の死が自分に取って貴重な財産になる、そんなことを言われたってひとつも慰めにはならないのです。

 親にとってただ一つの慰めは、奇妙ないいかたかもしれませんが、少しセンチメンタル過ぎるいいかたになるかもしれませんが、死んだ子供が天国にいって、幸せであって欲しい、そのことが確信できるときなのです。その死が生き残っている者にとって、なにか意味があるとか、貴重な財産になるとかというのではなく、その死が、死んでいった者にとって、決して無意味ではなかったという思いにたたされない限り、慰めにはならないのです。
 
 そういうわれわれに対して、ペテロはいうのです、「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせた。イエスが死に支配されるはずはなかったからである」、われわれはイエス・キリストの復活を信じるとき、われわれもまた死に支配されるはずはないという信仰をあたえられるのであります。
 
 それでは死んだものは天国においてどのように幸福なのか。それはわれわれにはわかりません。聖書はそのことについては、具体的なことはなにひとついいません。ただひとつはっきりしていることは、イエスが復活などはないというサドカイ人との論争のなかで最後に言われた言葉であります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」と言う言葉であります。

つまり天国での具体的な様子はわかりませんが、「人はみな神に生きるものだ」ということであります。「神に生きる」というところを、新共同訳聖書は「すべての人は神によって生きているからである」と、訳されてしまっていて、これでは面白くないと思います。神に生きる、という表現がはっきりしないから、神によって生きるというようにしたのだと思いますが、ここはやはり口語訳のように、神に生きる、神に向かって生きる、それはみんなが、死んだ者がみんなが神を中心にして生きる、そしてその中心に、イエス・キリストが神の右に座しておられる、天国というところはそういうところだというのであります。もはや人間が中心ではない、もはや自分が中心ではない、神とイエス・キリストが中心におられるということであります。復活を信じるということはそういう信仰を与えられるということなのであります。