「復活の主と共に歩く」 ルカ福音書二四章一三ー四三節

 ふたりの弟子がエルサレムからエマオという村へ歩きながら話しておりました。そのうちの一人はクレオパという人でした。もうひとりの名前は記されておりませんので、あるいはもうひとりはその奥さんだったのではないかとも言われております。ふたりは夫婦だったのではないかというのです。これはよく絵の題材にもなっているようですが、その絵では、ふたりの男性の弟子として描かれているうであります。
 
それはともかく、ふたりは歩きながら、イエスが葬られた墓にその遺体がなかったいうことで、今町では大騒ぎになっていることを話していたのであります。そこに復活の主イエスが近づいてきた。「歩きながら互いに何を語り合っているのか」と尋ねた。その時、彼らは彼らの目が遮られて、それがイエスだとはきづかなかったというのです。このふたりはあの十二弟子のひとりではなかったようです。十二弟子のなかにはクレオパという名前はないからであります。ルカによる福音書には十二弟子のほかに、七十二人の弟子が宣教に派遣されたという記事がありますので、そのうちの一人であるかもしれません。彼らは十二人の弟子ほどには、イエスと密接に行動を共にしていなかったので、イエスが傍らに来てもその人がイエスだとは気づかなかったのかもしれません。
 
 しかし、聖書は「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」と記しております。それは神が彼らの目を遮っていたということであります。リビィングバイブルでは、はっきりと「しかし、二人にはイエスだとはわかりません。神がそうなさったのです」と、訳されております。

 なぜ神はふたりの目をわざわざ遮ったのでしょうか。それは復活の主イエスを見る目は、神様のほうで用意してくださるということなのだ、つまり復活ということは、われわれが人間の力で、人間的な知性とか理性とかをどんなに積み重ねても見ることはできないことで、そうしたことは返って妨げになるのであって、復活ということは、自分の力で信じることができることではなく、神から信じさせてもらって始めて、われわれは主イエスの復活を受け入れ、信じることができるようになるということであります。

 ふたりは、イエスから「歩きながら互いに語り合っているその話はなにか」と尋ねられますと、彼らは悲しそうな顔をして立ち止まったというのです。新共同訳聖書は、「二人は暗い顔をして立ち止まった」と訳されております。

 彼らはイエスに言います。「あなたはエルサレムに泊まっておりながら、あなただけが、この都で起こっていることをご存じないのですか」といいますと、イエスから「それはどんなことか」と尋ねられて、今エルサレムの都で起こっている大騒ぎのことを述べます。「それはナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちはイスラエルを救うのはこの人であろうと望みをかけていたのに、そうなってしまった。しかもその上に、この事が起こってから、きょうが三日目なのです。ところがわたしたちの仲間である数人の女がわたしたちを驚かせた。彼らが朝早く、墓に行くと、イエスのからだが見あたらないので、帰ってきましたが、そのときに御使があらわれて、『イエスは生きておられる』と告げられたというのです。それで私達の仲間も数人、墓に行ってみると果たして女たちのいった通りに、イエスは見当たらなかった」、それで今都の中は大騒ぎになている、と話すのであります。

 彼らはなぜ暗い顔をしていたのか、なぜ悲しそうな顔をしていたのか。自分達の先生が、救い主だと期待していた人が十字架で殺されてしまった、そのことで暗い顔をしていたのではないのです、悲しい顔をしていたのではないのです。その死んだ筈のイエスの遺体がなくなっている、そのことで街中が大騒ぎになっている、そのことで暗い顔をし、悲しい顔をしているのであります。

 自分達の先生の遺体が墓にはない、そして御使から「イエスは生きておられる」と墓に行った婦人達が告げられたということを聞かされても、それはひとつも喜びとはならなかった、それは返ってもっとなにか悪いことを引き起こすことになるのでないかと恐れていたのであります。
 
 死人がよみがえる、それ自体はひとつも喜びとならないで、かえって人々を不安にさせたようであります。あのナインの町のやもめのひとり息子が死からよみがえった時、またヤイロの娘がよみがえった時は、人々は手放して喜んだと思います。しかしイエスの場合にはそう単純ではなかったようであります。

それは、イエスの場合には、なにしろ祭司長たちの手によって殺された者の復活であります。自分達が殺した人間がよみがえる、それは殺した側に立つ者にとっては、なによりも恐怖であったに違いないし、そのおびえが都中に伝染していったのではないかと思われます。

 祭司長たちは、イエスが墓に葬られた場所にその死体がなかったということを、ただちにイエスはよみがったのだとは受け取らなかっただろうと思います。弟子達がその遺体を盗んで、妙な宣伝をし始めたと思ったかもしれません。マタイによる福音書には、もうそのことはあらかじめ予想されていて、偽装工作の手はず
は整っていたようであります。そうなりますと、祭司長たちは弟子達を逮捕するようなことになるかもしれないのであります。

祭司長たちはイエスの遺体が墓にはなかったということを、ただ単純にそれをすぐイエスのよみがえりとは受け取らなかっただろうとさきほどいいましたが、弟子達がその遺体を盗んだのだとも思ったでしょうが、しかしそう思いつつも、その一方で、もしかしたら、という思いを捨てきれなかったのではないか。本当にイエスはよみがえったのかもしれないという恐れは否定できなかったのではないかと思います。そのためにそれを隠すために、それは弟子達が盗んだのだということにしたかったのでないかと思います。
 彼らにとって、自分たちが殺したイエスがよみがったということは、自分たちの犯した罪が暴露されることで、それは大変な恐怖だったと思います。

 そういう権力者たちの不安と恐れがエルサレムの都をおおっていたのであります。それは場合によっては、弟子達の逮捕につながることも予想されますので、弟子達はイエスが生きているということを単純には喜べなかった、むしろそれは不安であり、暗い思いに満たされることであり、悲しみであったのだろうと思います。弟子達にとっては、復活などということはなく、イエスの死をただしみじみと自分たちだけで密かに悲しみたかったに違いないと思います。

 復活の主は、彼らから話しを聞いたときに、ただちに、自分がよみがえりの主だ、自分がイエスだと言わないのです。その代わりに、こういうのであります。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」といわれて、モーセやすべての預言者からはじめて聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを説きあかしされたのであります。
 
 なぜこの時イエスは自分がよみがえりの主だと言わなかったのでしょうか。そればかりではなく、この後も彼らがいこうとした村に着いて、彼らが宿に入ろうとしますと、復活の主イエスは、彼らから離れて、なお先に進もうとされたというのです。そして彼らが強いて引き留めたので、彼らと一緒に食卓についた。そのとき、イエスはパンをとり、祝福して裂き、それを彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開き、それがイエスであることがわかった。すると、その姿が見えなくなったというのであります。

 この時イエスはなぜご自分が復活したのだということ、自分が復活の主であることを彼らにただちに分からせようしなかったのか、イエスのほうから積極的に示そうとしなかったのか。ここをみますと、イエスは彼らが宿に入ろうとすると、イエスは彼らと離れて先に進もうとしているのですから、イエスは最後までご自分のことを彼ら明らかにしようとはしなかったということであります。

 更に不思議なことは、彼らがそれがイエスだとわかったとたんに、イエスの姿は見えなくなったというのです。なぜイエスはこの時もっと親しく彼らと交わり、ご自分が復活の主イエスなのだと彼らに示そうとなさらなかったのか。
 
 どうして復活の主イエスは、この時、もっと単純にというか、端的にこのふたりの弟子達に「わたしはよみがえったのだ」と告げようししなかったのかということなのであります。これはわれわれがイエスの復活という事実を受け入れ、それを信じるようになるためには、大事なことをわれわれに示そうとされていることなのではないかと思うのであります。

イエスは、彼らにただ単純に自分はよみがえったのだと明らかにしようとはしませんでした。そうする代わりに、「ああ、愚かで心の鈍いために預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ずこれらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」といわれて、モーセから始めて聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてあることを説きあかしされたのであります。つまりイエスはご自分がよみがえったということを、単なる一大奇跡のように弟子達に示そうとはしなかったということであります。
 よく新興宗教の教祖が人々を驚かすようにして、空中遊泳してみせるとか、手品のような奇跡をしてみせるとかをいたしますが、イエスは、そんなことをして、自分が救い主であることを示そうとはしなかった。復活という奇跡はそんなふうにして人を驚かすような奇跡として受け取られたくなかったということであります。

 それは聖書に示されているように、長い長い歴史を通して、神が深い配慮とご計画をもって、このわれわれ人間を救うために御子を派遣し、そして十字架につけ、そういう神の救いのご計画の最後に御子のよみがえりという出来事、復活という出来事があったのだということを示そうとしたということであります。
 
これはこの次の週に学ぼうとしているところでありますが、十一人の弟子達にも復活の主イエス・キリストは聖書全体にわたって説明したと記されております。四五節をみますと、「そこでイエスは聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」いわれたというのであります。

 イエスの復活を信じるということは、それだけを突出して、お前はイエスの復活を信じるか、と問うても何の意味もなさいないということなのです。そのようにして死人のよみがえりという奇跡を信じるかどうか、それを信じられないならば、お前の信仰はだめだ、偽物だというようなことではないということなのです。イエスの復活を信じるためには、それを正しく信じるためには、正しく信じるということは、それが本当にわれわれ人間の罪の救いのための復活として信じるためにはとううことですが、復活を正しく信じるためには、旧約聖書からずっと預言されていることを学び、特にそれは集中してメシアについて預言されていることを通して学び、そうしたうえで、神の子の十字架の死とその復活と言うことを理解し、信じるのでなければ、復活という奇跡を信じたことにはならないということなのであります。

 そうでなくて、そういう聖書全体の預言と切り離して、ただ死人のよみがえりがあったとかなかったとかいっても、どこかの教祖様が空中遊泳したということと同じことになってしまうということであります。

 イエスはあのふたりの弟子に、ご自分が復活の主イエスだとは明らかにしようとはしなかったのです。聖書の話をなさった。特に聖書のなかでご自身について記している所を心をこめて説き明かされた。そのようにして、もう彼らから離れてもきっとあとで自分が復活の主イエスだったと思いつくに違いにないと確信していたに違いないと思います。だから、主イエスはいわば安心して彼らを宿に残し、自分は彼らは離れて先に進もうとしたのではないかと思います。

 しかし彼らは強いてイエスを引き留めた。彼らももうその時には、この人はただの人ではないと思い始めていたのだろうと思います。それで無理に引き留めたのだろうと思います。

 そして一緒に食事をした。イエスがパンさいて彼らの与えた。その時に彼らの目が開いたので、それがイエスだとわかったのであります。このふたりはあのイエスが十字架に着く前に最後の夜を過ごされた晩餐の時には居合わせなかったようであります。しかしイエスはそれ以前にもしばしば弟子達と一緒に食事をした時に、パンさいて祝福して弟子達に与えていたのではないかと思われます
。そしてこのふたりは、あの十二人の弟子達から最後の晩餐の様子をあるいは聞いていたかもしれません。彼らもまた祝福してパンを裂く様子から、イエスの十字架の死の姿を想像することができたのかもしれません。

 それまでイエスから聖書全体にわたり説き起こされ、そして最後にパンを裂く様子からイエスの十字架を思い起こされ、そしてその時にはじめて、彼らに復活ということがわかった、自分の目の前にいるかたが復活の主イエスだと分かったのであります。

 つまり、神はそのようにして主イエスの復活を理解し、信じるまで、じっと彼らの目をさえぎっておられたということであります。神があえて彼らに復活の主イエスをわからせなかったということであります。

 イエスの十字架は受け入れることはできても、復活ということは信じられないとよくいいます。あるいは、一度は信じたつもりでも、またわからなくなるということもあると思います。 それは復活ということだけを切り離して信じようとしたり、信じられないと思うからではないか。復活を信じるということは、聖書全体から信じようとしない限り信じられないということであります。
 
 ふたりはそれがイエスだとわかったとたん、そのみ姿がみえなくなりました。その代わりに彼らは互いに言ったというのです。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明かししてくださった時、お互いの心がうちに燃えたではないか」と思いだしたというのです。イエスから直に説き明かされている時には、自分たちの心が燃えていたとは気がつかなかつたようなのです。あとから思いだしてみると、心が燃えていたというのであります。この感激の仕方というのも面白いと思います。

 信仰というものは、あとでじわじわとわかってくるというわかりかたではないか。もちろん、熱狂的に感激することもあるかもしれませんし、そういう感激は偽物だというわけではありませんが、このふたりのように、あとになってそういえば、あの時、心が熱くなったね、と思いだすというわかりかた、感激の仕方というのも、なかなかいいものだと思います。

 イエスの語りかたというのは、人々にただ熱狂的に分からせようとするのではなく、人々が自分たちの心のなかで納得するまでじっと待ってくださる、そういう語りかたをするということではないかと思うのです。

 ある人が「人に話をする時に『説得』と『納得』という方法があると言っております。説得は相手に反論を許さない、説得されたからといって、納得したとは限らないということがある。納得していないのに、説得されたというのは、非常に不愉快なものだ。相手を説得するのではなく、相手に納得してもらうほうを自分は選びたい」といっております。

 イエスの語りかた、特に復活の主イエスがこのエマオ途上のふたりに語りかけるとき、復活という事実を彼らに分からせようとしたときに、主イエスは説得ではなく、納得してもらうまでじっと待っておられる、そういう納得という語りかけをなさったのだということではないかと思うのであります。

 ふたりがそれがイエスだとわかったとたん、そのみ姿が見えなくなったというのも、イエスはあくまで彼らを自分に引き寄せようなさならない、実にさわやかな交わり、人格的な交わりを求めておられたということではないかと思います。われわれのほうからいいましたら、復活の主を自分の手のなかに、自分の観念の中に閉じこめしまおうとすることは許されないことであって、復活の主は実に自由にふるまわれるかたとして受け入れなくてはならないということであります。

 復活の主イエスは、ご自身のよみがえりという事実を、われわれを説得しようとしてではなく、われわれが納得するまで、聖書全体から説き話そうとして、今もわれわれと共に歩んでくださっておられるのではないか。