「復活の主の証人」 ルカ福音書二四章三三ー五三節

 エマオの途上で、復活の主イエスにお会いしたふたりの弟子達は、自分たちの体験したことを仲間に知らせようとして、エルサレムにとって帰りました。すると「主はほとんうによみがえって、シモン・ペテロに現れた」といううわさで持ちきりでした。それでふたりは自分達の体験したことを仲間に話しているとき、復活の主イエスが彼らの中に立ちました。そして「やすかれ」と言われた。彼らは驚き恐れ、霊を見ているのだと思ったというのです。霊を見ている、というのは、日本で言えば幽霊をみているのだと思ったということだろうと思います。
 
それでイエスは「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足をみなさい。まさしくわたしだ。触ってみなさい。幽霊には肉や骨はないだろう。あなたがたの見ている通りに、わたしには肉や骨はある」そういわれて、手と足を見せました。彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスは何か食物はあるかといわれ、彼らが焼いた魚の一切れをさしだすと、イエスはそれをとってみんなの前で食べたというのであります。
 
 復活の主イエスが焼いた魚の一切れを弟子達の前でむしゃむしゃ食べている光景を想像してください。なんともユーモラスな光景ではないでしょうか。イエスはそのようにして、ご自分がよみがえったのだ、本当に肉体をもってよみがえったのだと弟子達に証ししようとしたのであります。

 復活の主イエスは、エルサレム神殿の荘厳な会堂の中でご自分姿をあらわしたのでもなく、また荘厳な音楽が鳴り響くなかで、なにか聖書の朗読したり、説教をしたわけでもないのです。弟子達が食事をしているなかで、その食事のなかで彼らが食べていた魚の一切れをむしゃむしゃ食べてご自分の復活を証しされたのであります。ヨハネによる福音書では、ガリラヤ湖畔の朝の食事の席で復活の主は弟子達と食事したという記事があります。復活の主イエスはわれわれの日常生活のただ中に来てくださっているということであります。
 
ここでは主イエスは、ご自分のからだは幽霊なんという得たいのしれないものではなく、からだをもった存在だということを、魚を食べることによって、彼らに手や足をさわらせることによって示そうとされました。しかし聖書をみますと、復活の主イエスのからだというのは、実に不思議なからだで、弟子達が戸を閉ざしている部屋の中にすっとまるで幽霊のように入ってきたりする、またエマオの途上の話では、ふたりの弟子がイエスがパンを祝福し、それを裂いている様子をみて、「あっイエスだ」とわかったとたん、その姿が見えなくなったというのですから、やはりまるで幽霊のような姿、霊の「からだ」としてしか思えない「からだ」だったとも記されているのであります。
 
実際に、焼いた魚の一切れを食べるという肉体をもったからだなのでしょうが、しかしそれはやはりただのからだではない、霊の「からだ」なのだと描く。実に自由なからだとして描かれているのであります。
 
イエスが聖霊について説明している箇所を思い起こさせます。ヨハネによる福音書にあるのですが、「だれでも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者はは霊である。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへゆくかは知らない。霊から生まれる者もみな、同じである」というのです。ギリシャ語では風という字と霊という字は同じなのです。それで霊というのは、風と同じように自由に動き回るのだというのです。
 
復活の主イエスのからだは、いわばそのように風のような存在、そういう霊的な自由な存在なのだということであります。しかしそれは幽霊ではない、ちゃんと焼き魚の一切れを食べることのできるような肉体をもった存在なのだというのです。

 この記事を読むときに、いつも思い出すことがあります。それは終戦後一時盛んに読まれた椎名麟三というクリスチャンの作家の書いた文章であります。彼は戦時中治安維持法という法律のために、つまり左翼活動をしたということで捕らえられて獄中生活を送るという経験もするのであります。ある時、聖書を読んでいた。そしてこの復活の主イエスが弟子達にご自分が本当によみがったのだということを証しするために、弟子の差し出す焼き魚の一切れをむしゃむしゃ食べている記事を読んでいて、目から鱗が落ちるようにして、イエスの復活を信じることができたというのです。こう書いております。

 「私はドストエフスキイを信頼して洗礼を受けた。だが、神やイエス・キリストが信じられていたわけではない。受洗して一年もたって、ある日、ルカ伝の復活のくだりを読んでいたとき、突然ショックとともに、必然性の壁が音を立てて崩れ落ちて行くの見た。つまり本当の自由を見たのだ。と言って、そこには大したことが書かれているわけではない。」と言って、このルカの復活の記事を引用するのであります。そしてこういいます。「これだけのことだ。

しかしショックはこれだけのことの間に私を襲ったのだ。それまでの世の中がちがった光で見え、わたしの生き方を変えてしまったのだ。私は生きているイエスをみていたからだ。しかしそのイエスは絶対に死んでいるはずのイエスである。しかも弟子のだれもそのイエスを信じることができない。むろん私もだ。だが、イエスは自分を信じない者のためにどんな奇跡をあらわされたか。とんでもない、くだらなくも焼き魚の一切れをムシャムシャ食ってみせられているだけである。そのイエスの愛が私の胸をついた。同時に死んで生きているイエスの二重性は、私が絶対と考えていたこの世のあらゆる必然性を一瞬のうちにうち砕いてしまったのである」と書いているのであります。 

 どうしてこの聖書の記事を読んで、復活を信じられるようになったのか。それは私が解説する必要はないのかもしれませんが、私なりに理解しますとこういうことなのではないかと思います。

その頃彼はすべてに望みを失っていた。まわりは固い壁に取り囲まれている。まるで牢獄の中にいるようである。もうこれで終わりだと思っていた。そういう絶望の中にいた。しかしそのときに、死んだイエスがよみがえって、魚をむしゃむしゃ食べておられる、もうそれは人間的には考えられないことがそこでは起こっている。自分がこれでもう終わりだ、それが絶対的な真理だと思っていることが、イエスのよみがりえという事実は、そうではないのだということを、われわれ人間に示している、死はもうすべての終わりだと思っている時に、その死をうち破るものとしてイエスの復活というものがあった、その一番象徴的な出来事、それがこの復活の主イエスが魚を食べている場面で描かれているということだ、そのように彼はこの記事を通して受け止めたということだろうと思います。
 
人間がこれが絶対だと思っていることが壊される、しかもそれが壊されることが絶望に導くのではなく、壊されていくことが救いに導かれる、なぜなら、人間が絶対だとも思っているものよりも、もっと絶対的なものが人間を超えて存在しておられるという事だからであります。

 自分が絶対だともおっていたものが壊されていく、自分自身が壊されていくこと、それをあるゆとりをもって見ていることができる、それをユーモアをもって受け入れることができるようになったというのです。そのようにして、彼は自分から解放されていくのであります。

 そのようにして、復活ということを受け入れ、信じた椎名麟三はこういうのであります。これで自分は安心して、じたばたして死ねる、というのであります。われわれは死ぬときには、立派に死ななければいけないと思っていた、大まじめにそう思っていた、一生懸命死に備えようとしていた、しかし死は人間が用意し、人間が準備するものではなく、神が準備し、神が用意してくださるものだし、死が最後の敵ではないし、死が最後の壁ではない、死を超えて神がおられる、それならば、もう一切を神に委ねることができるではないか、真面目に死のおうと、じたばたして死のおうとそんなことはあまり関係ないではないか、そのように思えるようになったというのであります。

 椎名麟三は、上原教会の赤岩栄という牧師から洗礼を受けたのですが、その赤岩栄が後に、非神話化の神学の影響で、復活などは実際に起こったことではない、それは弟子達の幻影にすぎない、大事なことは、復活の事実ではなく、その意味わ読みとることだと言い始めた時に、彼は赤岩栄のもとを去って、別の教会に行くようになったのであります。

 この弟子達の前で焼き魚の一切れをむしゃむしゃ食べる復活の主イエスの姿というのは、実に生き生きとしたイエスの姿であります。ここを読む時に、パスカルという哲学者が言った言葉を思い起こします。「わたしは哲学者の神を信じるのではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの神を信じる」という言葉です。彼はその言葉を自分の服に縫いつけて歩いていたそうです。「わたしは哲学者が信じるような観念的な死んだ神ではなく、イエス・キリストを通して示された生きている神を信じる」というのであります。

 死からよみがったイエスが、焼き魚の一切れをムシャムシャ食べているというようなことを、信仰のよく分からない人にこの話をすることはわれわれはためらうと思います。そんなことをいったら、お前はそんな荒唐無稽なことを信じているのかといわれそうだからであります。ですから、信仰というものがよくわからない人に対しては、われわれはもうすこし哲学者がいいそうな言い方をするかもしれません。しかしそれでは、パスカルがいうように、信仰とはいえないと思います。生きた神を信じたことにはならないと思います。従って本当に神を信じているとはいえないと思います。

 われわれが信じる神は、ちょうど子供が明日遠足というときに、あした晴れにしてくださいと素朴に祈れるような神様、そういう信仰でなければならないと思うのです。それは子供ではなく、われわれ大人もそれと似たような祈りはいくらでもしていると思うのです。子供が病気になった時には、われわれは神様に必死に祈ると思うのです。その時にわれわれがイメージするのは、神様が降りてきてくださって、子供の頭に手を触れて熱をさましてくださる、そういう神さまをイメージしていると思うのです。

 われわれはよく何かのキリスト教の集会が始まる時に祈る時に、遅れている人の足を速めてくださいと祈ると思うのです。考えてみたら、これは本当にこっげいな祈りなのです。いったいどうやって、神様が遅れてる人の足をはやめることを願っているのか、そんなことをしたら転んでしまうし、車に轢かれてしまうことになる、と思ってしまいます。しかしわれわれは信仰者の集まりのなかでは、平気でそういう祈りができるのです。そして改めて厳密に考えてみたら、大変おかしなことなのですが、しかしそういう祈りができないような信仰というのは、なんなのだろうかと思います。

 いつもきれいごとばかり、哲学者が想定しているような神に祈るということでは、本当に生きた信仰にはならないと思うのです。
 それではわれわれの信仰は、どこかの御利益宗教と同じなるのではないかといわれるかもしれません。この問題は大変微妙な問題であります。

 イエスもなんでも神様に祈りなさいとわれわれに勧めてりおますから、われわれは何でも神様に祈ります。しかしわれわれは御利益信仰の信者のように、この神社に祈っても何もかなえてもらえなかったから、今度は違う神様にお祈りにいく、そいうことはしないのです。つまり、自分を中心にして、どんどん神様を代えていく、そいうことはしないのです。自分の願いや祈りがそのままかなえられなくても、神に対する信頼はゆらがないのです。自分が中心ではなく、神を中心にしているからであります。

 そのかなえられなかった祈りのなかに神のみこころをうけとろうという信仰、そういう信頼のもとで祈っているということであります。ですから、われわれの祈りは、いつも御利益的な期待から始まりますが、しかし十字架と復活を通してしめされた神に祈るのですから、その神にすべてを信頼する、そういう期待から信頼へと変えられていく、そういう祈りをわれわれはしているのだと思います。

 弟子達は復活のイエスの手と足を見て、それがあの生前のイエスと同じだ、ということを知ったときに、「喜びのあまり、まだ信じられないでいた」と聖書は記しております。これは考えてみれば、不思議だと思います。「喜びのあまり」という心境に弟子達がただちになれたということは、不思議ではないでしょうか。自分達は主イエスが十字架で殺される時には、みなそのイエスを裏切って逃げていっているのです。そのイエスがよみがって自分たちの目の前に立っている時、そう手放して喜べるはずはないのではないかと思うのです。

 しかし聖書は、弟子達は「喜びのあまり」と、その弟子達の様子を伝えているであります。ヨハネによる福音書には、もう少しこの点では、微妙な描きかたがされています。ペテロはガリラヤ湖畔で復活の主イエスに気がついた時には、それまで裸であったために、あわてて上着をまとって海のなかにとびこんだと記しております。そして復活の主から「お前はこの人たちがわたしを愛する以上にわたしを愛するか」と三度にわたって問われた時には、さすがに心を痛めたと記されております。しかしそこでも彼らは復活の主イエスに再びお会いした時、大きな喜びに包まれていたことは確かなのであります。今度はもう逃げ出さなかったからであります。

 それはもうこの時、弟子達は自分たちの犯した罪、あやまち、自分たちの弱さを見つめて自分を責めるという自責の念よりも、もう一度イエスにお会いできたという喜びのほうが圧倒的に大きかったということであります。それほど生前のイエスの存在の大きさ、その人格のあたたかさ、その愛の大きさがあったということであります。

 われわれクリスチャンはともすれば、あまりにも真面目すぎて、反省ばかりしがちであります。いつも自分を責めてばかりおります。しかしわれわれはこの生ける神の前に立ったとき、この復活の主イエスの前に立たされた時には、「喜びのあまり」という喜びに圧倒されなくてはならないと思うのであります。

 イエスは一切れの焼き魚を食べたあと、弟子達にこういわれるのであります。「わたしが以前あなたがたと一緒にいたときに話して聞かせて言葉はこうであったと」と、あのエマオの途上で復活という出来事にとまどっていたふたりの弟子達にしたように、モーセの書からはじめて、メシアについて記されている予言を説き明かし、「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえる。そしてその名によって罪のゆるしを得させる悔い改めがエルサレムから始まってすべての国民に宣べ伝えられる。あなたがたはその証人になるのだ」といわれるのであります。

 ここでは、焼き魚をむしゃむしゃ食べるイエスから一転して、いわば教会堂の中に立って聖書を朗読する主イエスの姿をあらわすのであります。われわれを御利益信仰のままに放置するのではなく、福音の中心が「罪のゆるしを得させる悔い改め」にあることを示すのであります。
 
 「あなたがたはこれらのことの証人である」というのであります。それは復活の証人ということでありますが、それはただ復活が突出して、それだけを宣べ伝えられればいいというのではなく、聖書全体を通して、その最後に復活のメッセジーになることを証しする証人なるということであります。

 それから彼らをベタニヤの近くまで連れて行って手をあげて祝福し、祝福しておられるうちに彼らを離れて天にのぼられたというのであります。