「信仰の完成」 フィリピ一章一ー一一節


 フィリピの信徒への手紙はパウロの獄中からピリピの教会の信徒に宛てた手紙であります。それは一章の一二節からみるとわかります。「兄弟たち、わたしの身に起こった事が、かえって福音の前進に役立ったと知って欲しい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」と書いているのであります。

 この獄とはどこなのか。いろいろな推測がなされているようですが、多くの学者の意見では、フィリピに近いエペソで書かれたのだろうと推測されております。書かれて時期はいつ頃かといえば、西暦五十二年から五十五年位が想定されています。

 獄中といいましても、今日の獄中とは違って、比較的自由が許された状態だったのではないかと思われます。それはこの手紙のなかにも記されていますが、パウロは獄中のなかにいながら、自分の仲間であるテモテを送りたいと記しておりますし、フィリピの教会からパウロの窮乏を助けるためにエパフロデトが送られてきているとも書かれておりますので、獄にとらわれているといいましても、一種の軟禁状態だったのではないかと思われます。しかし使徒行伝をみますと、パウロはフィリピ伝道したために、ユダヤ教徒から迫害を受け、騒乱罪のかどで捕らえられていますが、その時には、鎖で縛られていたようですから、やはり不自由な生活を強いられていたことは確かであります。

 パウロは自分がこうして獄に捕らわれているのは、福音の前進のためには役立つことになるのだと言っております。また、このフィリピの信徒への手紙は、「喜びの手紙」ともいわれているくらいに、「喜びなさい」という「喜び」という言葉が沢山てくる手紙なのであります。パウロは獄に捕らわれていながら、少しもへこたれていないのであります。獄に捕らわれていながら、なお自分は喜んでいるといい、どんな時にも喜びなさい勧めるパウロと言う人は、われわれと違ってなにか英雄の人のようにわれわれは思うかもしれません。

 ドイツのナチズムに反対して、多くの牧師達が捕らえられたり、処刑されたりしましたが、その中で連合軍によって解放され、危うく処刑を免れた牧師にニーメラーという牧師がおります。この人は戦後ドイツの教会の指導的立場に立った人ですが、またキリスト者の世界平和の会議などでも指導的立場に立った人ですが、この人がこういっております。

 「人はナチに抵抗して捕らわれて、それに屈しないで抵抗したわれわれのことを戦後まるで英雄のように見ようとしているが、獄に捕らわれたわれわれは、自分たちのことを一番よく知っている。その獄のなかで、自分達がどんなに惨めであったか、どんなに弱い人間であったか、自分達が一番よく知っている。自分達はただ一日一日を自分達の大牧者イエス・キリストに支えられて来ただけである」と言っているのであります。

 自分達は英雄ではないと言っているのです。パウロも同じだったと思います。パウロはこの手紙の終わりのほうで、口語訳で引用しますが、「どんな境遇にあっても足ることを学んだ。わたしは貧に処する道も知っており、富みにおる道も知っている。わたしは飽くことにも飢えることにも、富む事にも乏しい、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くしてくださるかたによって、何事でもすることができる」と言っているのです。

 パウロもまた英雄なんかではなく、一日一日をわれわれを強くしてくださる大牧者であるイエス・キリストに支えられて、この獄の中で過ごしているに違いないのであります。だから喜ぶことができたのだし、どんな境遇の中にいる人にも、「喜びなさい」と勧めることができたのであります。

 パウロはその手紙の発信者を「キリスト・イエスの僕たち」と複数にしております。即ち「パウロとテモテから」と書くのであります。パウロの手紙はローマの信徒への手紙とエフェソの信徒への手紙を除いて、みな発信者は複数です。実際に書いているのは、パウロ一人だろう思います。パウロは目が大変悪くて、極度の近眼だったともいわれておりまして、口述筆記で手紙を書いたのではないかといわれておりますので、必ずしもパウロ一人とは言えないかもしれませんが、しかし実質的にはやはりパウロ一人が書いていると思います。それなのに発信者は複数なのです。これは福音を宣べ伝えるという事から言えば大事なことではないかと思います。

 イエスは弟子を派遣するときに、二人づつ組んでいかせたようであります。二人ずつ組んで当たらせるという事は、確かに理にかなったやりかたであるかもしれません。一人よりは二人の方が心強いからであります。しかし、また二人で組んで伝道すると言うことは、場合によっては争いの種にもなるのであって、案外難しいのではないか。
 
 イエスは二人ずつ組んで伝道に行かせた、それは一人よりも二人の方がなにかと心強いということだけでなく、なによりも謙遜になって伝道しなさいということなのではないか。一匹狼になってはいけないということであります。伝道者とか牧師は一匹狼が多いのです。しかしそうした伝道がまたどんなに独りよがりで、傲慢な場合が多いかということです。

 パウロとテモテとの関係は力関係から言えば、明らかにパウロが先生でテモテは弟子なのです。しかし、パウロはテモテについても、キリスト・イエスの僕たちと言って、同格に扱っている。パウロ自身が自分よりも年下のテモテからも随分学ぶところがあったのではいなか。パウロはなによりも、このテモテから謙遜ということを学んだのではいなかと思うのです。

 三節でパウロはこう書きます。「わたしはあなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っている。それはあなたがたが最初の日から今日にまで、福音にあずかっているからです」。

 これは要するにフィリピの教会の人の信仰を感謝しているということです。ここでは信仰というのは、福音にあずかることだといっているのです。このことは大事なことです。われわれは信仰というと、ともすれば、自分の態度のことばかり気にしているのではないかと思うのです。一日のうちにどれだけ、神様のことを意識していたかどうかとか、信仰というものを自分の信念と取り違えてしまっていないか。信仰というものを、自分が神様をつかむことだ、自分が神を信じることだと考え違いしていないか。

 しかし、ここでは、信仰というのは、「福音にあずかることだ」といっている。こちらの熱心さとかいうものではなく、熱心であろうとなかろうと、ともかく福音にあずかっているということです。「あずかる」という字は、交わると言う字です。福音と交わっているということです。それは具体的にいえば、とにもかくにも、教会から離れない、日曜日の礼拝から離れない、聖書から離れないということです。ある意味では、信仰生活を習慣化してしまうということであるかも知れない。習慣化してしまうほどに、福音から離れないということです。そうすると、福音そのものの力がわれわれの信仰を養い育ててくれるのであります。

 そしてパウロは六節でこういいます。「あなたがたの中で善いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までに、そのわざを成し遂げてくださると、わたしは確信している」。

 ここでいう「善いわざ」とはわれわれの信仰のことです。ここれは口語訳では「良い」という字は、善という字ではなく、優良という意味での「良い」という字が使われております。同じかもしれませんが、「善」という字が使われますと、なにか善行という意味でのわれわれの善い行いという印象を与えてしまいますので、ここは口語訳のように「良い」という字のほうがいいと思います。ともかくここでいわれている「よいわざ」とは、われわれに与えられた信仰のことであります。

 われわれの信仰は、われわれがただある時に、よし神を信じてみようと決心して始まったのではないのです。もしそういうことであるならば、つまり自分の決心でただ始まったことであるならば、また自分の決心ひとつでいつでも信仰を捨てることもできるわけです。

 信仰というのは、そうではなくて、神様のほうがわれわれに働きかけて、信仰という種を植え付けてくれたということだというのです。パウロは二章一二節では、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからだ」と言っているのであります。

 神を信じようという願いを起こさせてくれたのは、神なのだということです。そしてそれを御心のままに行わさせるのも神だというのです。そしてもっと興味深いことは、だからわれわれはただじっとしていればいいというのではなく、だから「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」というのです。努力しなさい、というのです。自分の救いの達成のために努力しなさいというのです。なぜなら、神がわれわれの信仰を完成させてくれるからだというのです。

それを伝道者パウロがいうのです。パウロはそういう確信をもっていつも伝道に当たっていたのであります。彼は自分の力量で人を信仰に導いたり、信仰を育てようとしていはないのです。なによりも神を信じている。神が必ずその人の信仰を育て、完成へと導いてくれると信じて伝道しているのであります。だからパウロは必要以上にひとりで力んでみたり、絶望したりはしない。いつも楽観的であった。楽観的という言葉が悪ければ、いつも望みを失わなかった。

 ある人が言っておりましたが、何か大きな仕事をする人は、どこか楽観的なところをもっているものだというのです。悲観的では大きな仕事はできないというのです。まして、伝道に携わる人は、自分の力でするのではなく、神の力を信じてするのですから、他の誰よりも楽観的でなければならない筈です。

 それは伝道ということだけでなく、子供を育てるということだって、成長させてくださるのは神様だという事を信じて、子供を育てることが必要なのであって、母親はいつもどこかで楽観的でなければならないと思います。あまりにも悲観的であっては子供を育てられないと思います。

 「キリスト・イエスの日までに、そのわざを成し遂げてくださる」といっています。ここは口語訳では、「それを完成してくださる」と訳しております。

 キリスト・イエスの日とは、終末の時ということです。この世には終わりの時が来るというのは、旧約聖書時代から言われていることです。しかし、その終末の時をここでは、「キリスト・イエスの日」と言っていることが大事なことです。われわれは終末とか最後の審判の時といいますと、何か恐ろしい時のように感じてしまいますが、ここではその日のことをイエス・キリストの日というのですから、パウロがこの終末の時をどんなふうに待ち望んでいたかがわかるのです。
 
 パウロはあくまで楽観的だったのです。その日を信仰の救いの日だと信じていたのです。それはパウロが自分の信仰に自信があったとか、いわゆる信仰的だったとか、あるいは道徳的にも、あるいはすばらしい伝道のわざをしたからというのではなく、自分に自信があったからではなく、ただその日は
、イエス・キリストの日だという確信があったからであります。その終末の日はイエス・キリストによって救われる日だと信じて楽観的であったのであります。

 そしてそれはパウロだけがそのように救われるというのではなく、七節をみますと、こういっているのです。「わたしが、あなたがた一同についてこのように考えるのは当然である。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」。
 われわれもまたパウロと共に救われ、「共に恵みにあずかる」のだと言っているのです。

 口語訳では、「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださる」と言っておりますが、信仰の完成とはなんでしょうか。竹森満佐一は、それは「いいかえれば、神の恵みがだんだん分かってくるということで、自分が神から愛され恵まれていことを、少しでも、多く知るようになることが、信仰の成長ということだ」と言っております。

 信仰の完成などというと、われわれが聖人のようになるとか、どんなことがあってもたじろがないとか、未来を予言できるようになるとか、宇宙の真理を会得するとか、そんな事を想像するかも知れませんが、そんな事ではないのです。ますます自分の弱さがわかるようになり、ますますキリスト・イエスの恵みの福音にすがりつこうとすることなのであります。

 カトリックのほうで、いわゆる聖人として親しまれております人に、テレジアという人がおりますが、その人がこんなことを言っております。
「わたしは困難に出会った時は、決してそれを飛び越えようとは思いません。今よりももっと小さくなって、わたしはその下をくぐり抜けようと思います。」
 「もっと小さくなって」というのです。こういう人が聖人なのです。こういう信仰が信仰の完成ということなのであります。

箴言三○章七節にこういう言葉があります。これはわたしの好きな聖書の言葉の一つです。
「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば裏切り、主など何者かと、と言う恐れがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません」というのです。」

 ここは口語訳では「わたしは二つのことをあなたに求めます。わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富もせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」となっております。

 新共同訳では「死ぬまでそれを拒まないでください」となっておりますが、口語訳では「死なないうちにかなえてください」となっていて、訳としてどちらが正しいのかわたしにはわかりませんが、どちらにせよ、これは信仰の中で一番大切なことだということでは変わりないと思います。これはある意味では、信仰の完成といってもいいと思います。

 しかしそれにしては、ここでいわれていることは、思いがけないほど、素朴なことであります。「うそ、偽りを遠ざけ、貧しくもなく、富もせず、なくてならぬ食物でわたしを養ってください、最後まであなたを裏切らず、あなたを信じつづけさせてください」というのです。

 ここには英雄的な信仰などみじんもないのです。ただひたすら、一日一日が神様を信じていける信仰でわたしを死ぬまで導いてくださいという信仰を与え続けてくださいというであります。
 これが信仰の完成ということではないでしょうか。