「息子を失った親の前夜式式辞」  山田京二


 わたしは当教会の牧師ではありますけれど、自分の息子の葬儀の式辞を述べるというのは、ふさわしくないとは思いましたけれど、前夜式というのは、明日行われます葬儀に比べれば、内輪の式という面もありますので、おゆるしを願いたいと思います。明日は盛谷牧師に式辞を述べていただいて、今日は父親でありますわたしがどうしても言樹のために式辞をのべたいという思いが強くありましたので、盛谷牧師におゆるしを頂きました。といいますのも、やはり山田言樹のことを一番よく知っているのは、親ではないかと思うわけで、やはり彼のことをよく知っている人間が一度は話をしておいたほうが彼のために、彼の大変短い生涯に何かはなむけになるのではないかと強く思っているからであります。彼の大変短い生涯が意味のある人生だったとなんとか思いたいからであります。

 今、彼のことを一番よく知っているのは、親であるわたしだと申しましたが、実は彼のことを本当によく知るようになったのは、ついごくごく最近のことなのです。四年前に悪性リンパ腫というガンに倒れてから、そのために身体を弱らせて、入退院を繰り返し、この亡くなるひとつき前に自分の家で療養していたときに、どんなに睡眠薬や精神安定剤を飲みましてもひとつも効かないで、夜眠れない不安のなかで、親を起こしまして、一緒に話しをしてくれといいまして、彼は自分の小さい時からのことをせきを切ったように話し始めました。それまで親が全然気がつかなかったことで、彼がどんなに悩み、傷つき、苦しんできたかということを始めて知らされたのであります。どうして自分の子について親がこんなに無知だったのだろう、鈍感だったのだろうと思わせられることばかりでありました。本当にすまなかったと思うばかりでした。

 彼は三人いる子供の中では比較的おとなしい子で、あまり親に面倒をかけない子で、激しく自己を主張しない子でした、いわゆるよい子でしたので、われわれ夫婦は彼については安心しきっていたというところがありました。彼は一歳四ヶ月の時に睾丸に腫瘍ができまして、その頃は四国の愛媛県の大洲というところにおりましたが、東京の病院で手術してもらおうということで、東京まで出て来て手術をうけました。さいわいそれは悪性のものではないということで、ひとつの睾丸を摘出することですみました。その時の医者の話では、睾丸は二つあるから、一つ摘出されても子供を産むことに支障はないと聞かされましたので、彼にはそのことについては少し大きくなってから話そう、今はあえて何もいうのをやめようと親は決めていました。

 彼が結婚するようなことになった時に、そのことを話せばいいと思っていたわけです。しかし彼は一緒に仲間とお風呂に入ってからかわれたりしたことがあったようで、彼は自分は一生子供が産めない身体だ、だから自分は一生結婚できないかも知れないと思いこんで、苦しんでいたと、その夜の話ではじめて聞かされました。悪性リンパ腫になった時も医者は転移を防ぐために放射線を大量にあてましたが、その部分は避けて、子供が産めない状態にはさせないという方針を示してくださいましたので、今回もまた彼にはそのことをあえていわないでいたのであります。しかし彼は自分は子供を造れない身体であると自分で思って悩んでいたのだということをその時知ったのであります。このことはわれわれ親にとっては全く思ってもいないことでした。
 彼のことをわれわれ親は何ひとつ知らなかったのだと、その夜の話を通して思い知らされたのであります。

 われわれ親が旅行に出ているときに、静岡にいる息子から家に何度も電話がかってきたと留守番をしていた娘が告げました。なんだろうと思っておりましたら、夜遅く息子から電話がかかってきて、「実はは大変なことになりました」というのです。わたしはとっさに交通事故でも起こしたのかと思いましたら、「今病院にいる。医者の話ではホジキン氏病だという。すぐ入院しなさいといわれた。親に会いたいと医者がいっているので、すぐ来てくれ」ということでした。
 彼は始めは風邪だと思ってほっておいて、会社に出ていたのだそうですが、そのうち食欲がなくなったので、近くの病院にいったら、レントゲンをとって、ことれは大変な病気だから、すぐ市民病院にいきなさいと言われたそうです。翌日病院にいきますと、親が東京なら、東京で治療したほうがいいのではないか、東京の病院にすぐ移ったほうがいいのではないかといわれましたので、医者が推薦してくれた国立国際医療センターにその日のうちに入院しました。

 そのホジキン氏病は悪性リンパ腫ということで、それを彼に告知するかどうかが問題になりました。呼吸器科から放射線科に転科する必要が生じたためにどうしても告知が必要になったわけです。それでどうするかが問題になった時に、その悪性リンパ腫はリンパ腫のなかでもホジキン氏病だということがわかり、そのリンパ腫は比較的治療しやすい病気であること、そして幸いなことに彼が入院している国立国際医療センターには、そのホジキン病の専門家がいることを知らされました。その医者はこの病気はリンパ腫のガンでも治る確率は高いと言ってくれましたので、彼に告知しようとわれわれ夫婦は決断しました。

 そして、担当している医者にそのことを彼に話をしてもらったのであります。われわれ親はできるだけ明るい顔して「これは大したガンでないのだ、治るガンなんだ、言樹、良かったね」ということを彼に話し、そのことを嘘でないんだと示すためにも明るい顔をしていたのであります。
 しかし後に偶然彼が病床日記をつけておりまして、何かの拍子にわたしがそれを見つけて、ぱらぱら頁をめくっておりましたら、その日のことが書いてあって、「なぜ親はガンの告知をするという大変な時に笑いながらそのことをするのか」と大変怒っていることが書かれていたのであります。わたしはびっくりいたしました。われわれは彼に深刻にならせないために、あえて明るい顔で臨んだにもかかわらず、彼のほうではものすごく深刻に考えていたのだとその日記を通してはじめて知ったのであります。親はそういう彼の悩みを全く知っていなかったのであります。

 そのホジキン氏病の治療は幸いなことにほぼ完璧に成功したということです。しかしそのために多量の放射線治療や抗ガン剤をうったためか、一度は会社にもどることはできました。しかし、もう全体的に彼のすべての臓器は弱っていて、会社には出ても仕事らしい仕事は出来ない状態だったようです。会社を休むことも多くなりました。ある時は脱水状態を起こして救急車で運ばなくてはならない状態で、その時は激症肝炎を起こして、医者から三日間が危機だと言われたこともありました。その後も何度か入退院を繰り返し、この四月の一六日にも脱水状態を起こして救急車を呼んで入院させました。

 その日は点滴をうって一応落ち着きましたところ、その翌日の深夜病院から電話がかかり、今、息子さんが錯乱状態に陥っている、彼が親に来て欲しいと言っているからすぐ来て欲しいということで、急遽車でかけつけました。彼はすべての点滴をみずから外して、血を流して、「近寄るな、誰も近寄るな」と大声をあげているところでした。医者も看護婦もおろおろしている状態でした。しばらくわれわれは唖然として様子を見ておりましたが、おさまりようもないので、母親とわたしがかかえて彼をベットに寝かしつけて、ようやく彼も落ち着くということがありました。彼のそのような錯乱した様子をわれわれもはじめて見ましたので、動転しました、医者も動転しておりました。すぐベットにくくりつけて、点滴をはずされないようにしました。

 後に、彼はその時の自分の気持ちをわれわれに語りましたが、あの時、誰かが自分を死の世界に呼んでいて、自分はそれに懸命に抵抗していたのだというのです。死に抵抗していた。それで誰も近寄るなと懸命に叫んでいたのだというのです。いってみれば、死神に近寄るなと叫んでいたのだというのです。その時に母に抱きかかえるられるようにしてベットに寝かせられた時、ああこれでもう自分は終わりだと、死ぬんだと思ったというのです。そしてそれから五日後のちょうどイースターの日に兄夫婦が見舞いにいったときに、そこに兄の奥さんを見て、はじめて自分はこの世に生きているのだと現実にもどったというのです。つまり、その時には、兄の奥さんは自分の家族の一員になったばかりで、その奥さんをみて、自分は今この世で、生きているのだということを、その奥さんをみて、目が覚めたのだというのです。

 自分はあの時臨死体験していて、その間ずっと幻を見ているような状態が続いていたのだと親に話しました。そういう錯乱状態を起こした夜からは、われわれ親は交代して夜も病院に寝泊まりして、彼をひとりにさせないようにしておりました。深夜病院内を車椅子に載せて落ち着くまで動かしました。そういう日々が何日か続きました。そして落ちついてきて、彼がみずから臨死体験をしたといいだしましたので、われわれはこれで危機を脱した、これからよくなる一方だと確信したのです。臨死体験をした人は必ず快方に向かうと聞いていたからです。医者に、その時の錯乱状態の時は彼はそういう気持ちでいたのだと話しても、医者はそれをまともにとりあげようとは致しませんでした。むしろ精神錯乱状態に陥ったものとしか受けとろうとしないで、精神科の先生にみてもらったりしていました。われわれもあるいはそうかもしれないとは思いましたが、精神科の医者はこれは精神科の対象ではないということでした。

 しかしその日を境に彼はわれわれ親に対してまるで赤ん坊のようにして甘える状態が続きました。赤ん坊がだだをこねるようにして、深夜病院の中を車椅子で動かしてくれといったり、深夜ドライブにつれていってくれといったり、だだをこねました。それを拒否すると大きな声を出されたり、あばれたりされると困るということもありましたが、ただ困るという以上に、今は彼の不安、恐怖感を取り除いてあげるために、ともかく彼のわがままをすべて受け入れてあげようとわれわれ親は決心しました。

 今は彼を全面的に受け入れる以外にないと思ったわけです。言樹がどうしても退院したいと言い出しまして、深夜の病院が恐怖だったようで、それはちょうど個室だったので、なおさら怖かったようです、どうしても退院したいというので、われわれも病院で夜寝るということも限界にきておりましたので、医者はだいぶ渋りましたが、ともかく退院させて自宅療養ということにしました。

 家に帰ってきても、全く精神状態は落ち着きがなく、まるで幼児のような状態でした。しかし言っていることは別におかしくはなく、筋道の立つことをいうので、精神錯乱というよりは、一種の退行現象だろうとわれわれは思っておりました。ともかく夜はまるで赤ちゃんに返ってしまいました。夜眠れないので、一緒に手を握ってくれといったり、子守歌を歌ってくれといったり、お祈りをしてくれといったり、一緒に大きな声で「主の祈り」を祈ったり、讃美歌を一緒に歌おうと言ったりしました。彼のそらで歌える讃美歌は「きよしこの夜」だけだったので、それを深夜大きな声で歌いました。土曜の深夜でも「お父さんドライブにつれていってくれ」と要求して、新宿の都庁のあたりを深夜なんどもドライブさせられました。そうすると車の中で安心して眠ったりしますので、彼を起こさないようにして朝まで一緒に車のなかで寝たことも何回かありました。

 その時に彼は小さい時から、自分がどんなにさびしかったということを話しました。どんなに孤独であったかと話しました。先ほどもいいましたが、彼は子供のなかでは比較的反抗的でもなかったので、彼をあまりかまってやらなかったというところがあったのです。それが彼には孤独感を与えていたようでした。それをその時はじめて知りました。初恋の話、失恋の話もしました。三十を過ぎた男がそんなことを父親に話すということは普通考えられないことですが、彼はそうしたのであります。
 
 われわれ夫婦はその時に、今は彼の不安と孤独をいやさなくてはならない、そのためには、彼が赤ちゃんのにようになってもいいから、甘やかしてもいいから、彼のわがままをすべて受け入れてあげようと決心しました。それがまたかえって彼の幼児性を強め、退行現象をひきおこしたかもしれません。そういう彼の姿を見て、言樹の兄も妹も彼を決して軽蔑したり冷たく振る舞おうとしないで、親と一緒に全面的に言樹を理解してくれて、彼の幼児性を受け入れくれました。それは親としてもどんなにありがたかったわかりません。

 その自宅での三週間余りは、彼とのそれまでの三十年間に匹敵するほどの、それ以上に濃密に彼と接した時間でした。その三週間、彼のそれまでの生涯をつぶさに話されて、今彼を深く深く知ることが出来て、どんなに幸いだったかわかりません。その三週間というものは、大変つらい三週間ではありましたけれど、その三週間がなかったならば、今思うとその三週間がなくて、彼を天におくったならば、彼とはどんなに薄い関係のまま終わってしまたかという気がいたします。

 大江健三郎がノーベル文学賞を受けにデンマークに行く時に、きっと新聞記者からこういう質問を受けるだろう、あなたはどうして広島の原爆にこだわるのか、戦争の悲惨さはなにも広島の原爆だけではないのに、どうして原爆にこだわるのかと質問を受けるに違いない、その時にどう答えるかを考えておいたほうがいいと人に言われて、彼は考えたというのです。その時の大江健三郎の答えは、原爆の悲惨さというのは、死んでいく人とその人の死を記憶してくれる者が同時に死んでしまうことなんだ、だから彼の死は親しいものに誰も記憶されないで死んでいかなくてはならないということなのだ、それが原爆の死の悲惨さなのだという答えだったのであります。

 もしこの三週間がなかったならば、われわれ家族は彼のことを一つも理解しないで死なせてしまったのではないかと思うのです。ひとりの人間が生涯を閉じるということがどんなにさびしいことか、その自分の生涯をどんなにか誰かに記憶してもらいたいか、言樹もそのことを本能的に感じ取って、親に自分のそれまでのことをあからさまに語ろうとしたのではなかったかと今になって思うのであります。

 それで今夜わたしも、彼の死との孤独な戦いに彼がどんなに立ち向かって死んでいったかということを彼を知ってる皆様にも記憶に留めてもらいたいと思って、親でありながら、このような講壇にたって式辞をのべさせてもらったのであります。
 
 この言樹の死を通して、牧師として強く思わせられたことは、人はある時には赤ちゃんのようになって親の愛というものを、それこそべったりと受けられないと、自分は親からそのようなべったりとした愛を受けているんだという確信をもてないと、人は死にきれないのだいうことでした。

 そうした動物的ともいえるかも知れないべったりとした愛をわれわれ人間は、赤ちゃんだけでなく、大人にも必要なのだということです。赤ちゃんの時にそうしたべったりとした親の愛を必要とすると共に、人が死んでいくときにも、やはり誰かからそのような愛の支えがないと、われわれは大人でも死にきれないのだということであります。

 主イエス・キリストの言葉に、「人は心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできない」という言葉があります。言樹は最後にみずから幼子ような幼児性にもどってしまって、天国にいこうとしたのではないか。その具体的なものとして親の愛を兄弟の愛を家族の愛を切実に求めていたのではないか。

 最後のひと月は病院に母親は毎日通い、昼食と夕食をなんとか食べさせようといたしました。わたしも時間が都合がつく限りは病院にいって彼と過ごしました。面会時間が切れる七時になると彼は落ち着かなくなり、お母さんもっといてくれ、八時までいてくれ、十分でも、一分でもいいからもう少しいてくれとだだをコネました。
 その時彼がどんなにさびしかったか、最後まで自分のことを記憶してくれる人を探し求めていたか、うつろな目ではなく、何かを訴えるような目でわれわれ親の顔をじっと見ようとしておりました。こちらが少しいたたまれなくなって視線を外そうとしますと、彼は悲しそうな顔をして親の顔を捜していました。今その彼の視線が鮮明に記憶に残っているのであります。

 彼はこの病気になるまでは信仰のことを面だって言ったことのない彼でしたが、この頃から、牧師であるわたしに、そして母に祈ってくれ、と要求し始めました。それは、人間の弱い愛を越えてもっと確かな、神の、神様のいわばべったりとした愛を切実に求めて、そうしてようやく天国にゆくことができたのではないか。 
 主イエス・キリストが言われた言葉、人は幼子のようにならければ天国に入れないという言葉は、幼子のように純粋無垢でなければ天国に入れないというような意味ではないと思います。そんなきれい事ではなくて、人は大人でも幼児性に陥るほどに、退行現象だと軽蔑されるほどに、もう恥も外聞も捨てて、親の愛を求め、家族の支えを求め、そして何よりも神様の愛を切実にもとめないと人間は死にきれない、そのようにして幼子のようにならないと天国にゆけないのだということなのではないかと、この息子の死に至る過程を親として自ら体験して思わせられるのであります。

  なにをしても良くならないという状態が続いて、さすがにわれわれ親はホジキン氏病というガンは治りましたと医者には言われているが、もしかしたら危ないのではないか、特に彼が面会時間の際にみせるあの執拗なまなざし、凝視を受けて何かあるのでなはいかと思い、医者に面談を申し込みました。医者は時間をとってくれて、彼の状態はいつ逝ってもおかしくない状態です、もう全身の免疫が落ちています、と言われて愕然と致しました。

 その日帰って、息子達にもそのことを電話しました。その日の早朝病院から呼吸が困難になったら病院にすぐ来てくれといわれて駆けつけました。個室に移されて、酸素吸入をさせられていました。意識はしっかりとしていました。親の顔を食い入るようにみつめていました。眼鏡をかけていたので、わたしは寝る時には必ず眼鏡を外して寝ますので、彼の眼鏡をはずしてあげようと、はずそうとしましたら、彼は突然大きな声で「はずさないでくれ」と、叫びました。それから数分して激しい呼吸をして、息を引き取りました。最後まで親の顔を見ていたかったようです。

 最後にもう一つどうしても息子の病気と死に関して、わたしが痛切に思わせられたことを申したいと思います。それは神の裁きということであります。神はわれわれ人間を裁く時に、罪を犯した本人を罰し、裁く代わりに、その罪を犯した人間の一番愛している者を苦しめたり、病気にさせたり、そうして死なせるということなのです。そのようにしてその人を裁こうとするのだということなのです。

 聖書にイスラエルの王様ダビデの話があります。その王様であるダビデがある時王の権力をもって自分の部下の奥さんを奪い取って、その夫である部下を邪魔だというので、殺してしまうのです。神はそれを見て激しく怒り、ダビデを裁くのです。ダビデという王もその自分の罪に気づき、神に謝罪します。神もそのダビデの罪を赦すのであります。しかし裁きは免除されなかったのであります。その裁きは不思議なことにダビデ本人を苦しめるのではなく、ダビデの愛してやまない子供が病気になるということでした。ダビデは自分の犯した罪のために自分の子供が病気になったことを知り、必死になって断食をしてまで、子供の病気をいやしてください、死なせないでくださいと祈るのです。しかしその祈りはかなえられないで、子供は死んでしまうということが起こります。

 聖書は人間の罪を裁く時に、本当に不思議な裁きかたをなさるのです。罪を犯した本人を罰したり裁いたりしないで、その人の愛している人を苦しめ、裁くということなのです。イエス・キリストの十字架の出来事がそうでした。イエス・キリストは神のひとり子であります。神はわれわれ人間を罰し、裁く代わりに、そのひとり子イエス・キリストを十字架で死なせるのです、裁くのです。神はそのようにしてわれわれの罪を裁き、そして、赦されるのです。
 
 息子の言樹が重い病気になった時に、そして一時精神が錯乱するほどに死を恐れるという状態になった時に、わたしが痛切に感じたことは、ああ彼は自分の身代わり今神に裁かれているのではないかということでした。その時のわたしの祈りは、どうかわたしの罪を赦してください、そうして彼の命をなんとかして助けてくださいということだったのであります。わたしのどういう罪が、ということを今いう必要はありません、私自身がそれはよく承知していることであります。このことは決して論理的な筋の通る話ではありません。しかし自分の罪というものが自分が裁かれる代わりに、しばしば自分が一番愛している人が裁かれていくということを知らなくてはならないということなのです。そのことをわたしは身にしみて感じたのであります。

ダビデの必死の祈りにもかかわらず、その子供は死にました。その時ダビデの家来たちは非常に心配しまして、子が生きている時にあんなに苦しんだ王なのだから、子が死んだことを知ったら、自殺するかも知れないとおそれたというのです。しかしダビデは自分の必死の祈りにもかかわらず、子供が死んだことを知りますと、家来たちがびっくりするほどに、いや家来たちが不快に思うほどに、さっぱりと断食を中止して、食事をしたというのです。

 このことをある人が説明してこういっているのです。「ここには悲しみはありました。しかし、不平はないのです。悔いもないのです。神のなさることに、すべてをお任せするだけでありました」と、述べているのです。「悲しみはあった、しかし不平はない」と言っているのであります。なぜか、ダビデは子供が死んだと聞くと、ただちに断食を中断して食事をしたのではないのです。ダビデは地から起きあがり、身を洗い、油を塗り、その着物を着替えて、主の家、神殿に礼拝にしてにいったからであります。

 今わたしは息子の言樹の死に悲しみはあるのです。この若さでの彼の死を思う時に彼の無念さがわかり、彼の死ぬ一週間の間親に向け続けた視線、つらい、つらい、つらすぎるのだと訴え続けた目を思い出す度に、身がちぎれるほどの悲しみはあるのです。しかし不思議なことに彼の死に対して不平はないのです。やはりこの死に関しては、神がかかわっておられるという思いがあるからであります。神が彼の命を取り去ったのだという確信があるからなのであります。
(二○○○年七月二日)
(前 松原教会牧師)