「光あれ」          創世記一章一ー八節
               コリント人への第二の手紙四章六ー一○節
 
 今日から創世記を学んでいきたいと思います。
 創世記の冒頭の言葉、というよりも、聖書そのものの冒頭の言葉は、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名付け、やみを夜と名付けられた。夕となり、また朝となった。第一日である」と始まっております。神は七日間にわたって、この天地をお造りになったというのであります。もちろん、これはこの地球が、あるいは人間がどのように発生し、どのように誕生したかということを説明しようとしているわけではないのです。そういう科学的な説明ではないのです。この創造物語と似たような神話は、バビロニヤにあって、その神話がここで用いられたのではないかとも言われております。そういう創造神話はどこの国にもありまして、それはその時代に既に生きている人間が、一体人間とはなにか、人間はそもそもどこから生まれ、どのような存在なのかというテーマを追求しようとして、造られていったのであります。ですから、神話というものは、人間の問題を科学的に追求 しようとしたのではなく、いわば哲学的、神学的な関心から造られていったものであります。

 ですから、もちろんこの宇宙が七日間でできたのだと科学的に述べようとしているわけではありません。今日でもよくアメリカの大変保守的な地域で問題にされますが、学校で進化論を教えるのは禁止しなくてはならない、それは聖書の話に反するからだということのようなのですが、そういうことを言う必要はないのです。たとえ、人類というものは、類人猿から何億年の経過を経て、進化してできたものであるという説明があっても、それも一つの仮説にすぎないわけですが、だからといってそれが聖書の教えに抵触するというようなことではないのです。科学的な関心は、この宇宙は、人間は、どのように誕生したかにあり、聖書はそうではなくて、そもそもわれわれ人間が生きているこの世界とは何なのか、われわれ人間はそもそもどういう存在なのかということに関心があって、この創造物語を語ろうとしているからであります。
 
 この創世記の一章からバベルの塔に至る十一章までは、当時人々の間に流布していた神話を用いて、「人間とはなにか」を語ろうとしたのであります。そうしてなぜ神は直接全ての人間を救いの対象にしようとしないで、特別にアブラハムを選び、イスラエルという民族を選ばれたのか、そういう特別な民を用いて神のみ心を人々に伝えようとしたのかということを説明しようとしている部分であります。ですから、特にこの一章から十一章までは、いわゆる歴史とは関係なく、神話の部分であります。つまりノンフィクションではなく、フィクション、つまり造り物の部分であり、神話の部分であります。それではこの神話は今日では全く意味がないのか、それは子供向けのおとぎ話のようなものなのかといいますと、そうではないのです。神話というものは、ひとりの人によって造られたものではなく、多くの人によって語り継がれ長い年月を経て語り継がれることによって造られていきますので、神話と言われている物語には、人類の知恵が実に深くしみこんでいるのであります。それはひとりの小説家が創作する小説よりも、もっと深い真理をその中に含んでいるのであります。ですから、われわれは この創世記の一章から十一章に記されている神話の部分を注意深く読む必要があります。

 創世記を読んでいくとわかりますが、特にこの一章から十一章にかけて読んでいくとすぐわかることは、この部分には、二つの資料が用いられているということなのです。厳密にいいますと、三つの資料といわれておりますが、主なものは二つの資料です。一章と二章に置かれております天地創造の物語、人間の誕生の物語が記されておりますが、すぐ読んでわかることは、一章に書かれている天地創造の物語、人間の創造の物語と二章の四節以下に語られているそれとはその思想が違うということであります。

 一章の方では、人間を支えるすべてのお膳立てができてから、人間が最後に神の像に似せて神によって創造されたのだと記されているのに対して、二章の四節から始まる創造物語では、「主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」と始められているのであります。この二章四節以下の創造物語では、最初に人間が造られた、しかも土のちりから人間は造られたと語るのであります。一章のほうの創造物語では、人間は人間だけはほかのものとは違って神の形に似せて創造されたと、人間を特別に扱っているのに対して、この二章のほうは、人間というものをそんなに特別なものとは扱わないで、人間なんてもともと土のちりでつくられた存在なのだ、その鼻から神が神の息を吹き入れられて始めて生きることができるような存在にすぎないのだと語るのであります。
 
そういう二つの資料の存在に気づいたのは、神に対する呼び方の違いからであります。日本語の訳でいいますと、一章の方では「神は」と訳されて、二章の方では「主なる神は」と訳されておりまして、これは原語が違うからこう訳されているのであります。そして、一章のほうの創造物語を祭司資料と言われており、二章のほうの資料をこの神を「ヤハウェ」と呼んでいるところから、ヤハウェ資料と言われております。その頭文字をとって、J資料と普通言われております。そしてこのJ資料のほうが、時代的には、古いものと考えられております。たとえば、人間の造りかたでも土のちりから神様がまるで粘土細工でもするように造ったというように、あるいは、女の誕生の記事でも男を眠らせて、その男のあばら骨から女を造ったのだとか、へびが女を誘惑したのだとか、大変素朴な神話だからであります。素朴な神話だから、その思想は幼稚だというのではないのです。語りかたが素朴だということであります。

それに対して、祭司資料、これはその頭文字をとって、P資料ともいわれますが、その語りかたは荘重であります。ですから、こっちのほうが時代的には後から造られたのだろうと推察されております。

 そして今日ある創世記は、その祭司資料をもっていた人々がこのJ資料などを用いて、その枠組みを造っていったのだろうと言われております。時代的に古いものが最初に置かれたのではなく、時代的に新しい資料がその冒頭にもってこられて、今日の創世記という聖書ができあがっているのであります。今日考えたいことはそのことなのであります。
 
 大変素朴にできておりますJ資料といわれております創造神話は、人間に対する見方が実に辛辣であります。人間はそもそも土のちりでつくられたもろい存在なのだというのです。そしてその人間はすぐへびの誘惑に会い、神に禁じられていた善悪を知る木の実を食べるようなどうしようもない罪人なのだというのです。そしてそのアダムとエバから生まれたカインは弟を殺し、とうとう最後には神に反逆して天にまで達しようとしてバベルの塔を建てようとしている、そういうどうしようもない罪を犯す人間として人間を描こうとしています。そしてこうしたJ資料と言われている物語はいつ頃形成されていたかといいますと、これはイスラエルの歴史の中でも絶頂期、ダビデの時代ではないかと言われております。そういうイスラエルの歴史のなかでも絶頂期のなかで、人間というのは、本当に罪深い存在なのだということを物語るこの神話が人々の間で語り継がれていたのであります。世の中が繁栄している時に、人間を賛美してもよさそうな時、逆に人間の罪を見据える神話が造られ、語り継がれていたのであります。

 それに対してP資料と言われている創造物語はいつ頃のものか。それはイスラエルがバビロンに囚われている時代、つまりイスラエルの歴史の中でも一番みすぼらしい時代、暗黒の時代に造られ、語り継がれていたのではないかということであります。人々が自分達の犯した罪のために異国の地で囚われの身でいる、そこで半世紀近く捕囚の民として過ごさなくてはならない、何の希望も見いだせないでいる時に、いや神がこの天地を造り、まず「光あれ」と、光を創造し、そして人間を神の形に似せて造ってくださったのだ、そういう神がおられるのだという神話を人々は語りついでいたのであります。そして今日の創世記の形は、そのバビロン捕囚の地で人々の手によって編集されていったのではないかと言われております。編集されていったというのは、この人間に対する鋭い見方をしているJ資料を中核にして、その上にかぶせるようにして、P資料を枠組みにして、この創世記が今日の姿に編集されたということであります。

 このJ資料とP資料の思想の違い、そして今日の創世記の枠組みを知る意味で一番象徴的なところを一つみておきたいのですが、それはノアの大洪水のあとの記事であります。ノアの洪水というのは、人間の罪が深まっていったために、神はとうとう大洪水を起こして、人類を全滅させ、ただノアの一族だけを残して、そこから人類を再創造しようとしたという物語であります。その神の裁きが終わった後の記事であります。

八章の二○節にこう記されております。
 「ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥との内から取って、燔祭を祭壇の上にささげた。主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた。『わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。地のある限り、種まきの時も、刈り入れの時も、暑さ寒さも、昼も夜もやむことはないであろう』」と記されております。まことに人間に対する見方が厳しいというか、辛辣であります。大洪水を起こしても結局人間なんで駄目だというのです。だからあきらめて、人間を滅ぼすのを断念しようというのです。

 それに対して、すぐ続いて、九章にいきますと、一転して神はノアとその一族を祝福したという記事が置かれております。これは神に対する呼び名が「神」となっていて、八章のほうは「主」となっておりますから、あきらかに違う資料なのです。九章からは、P資料が使われているわけです。九章からはこうなっております。「神はノアとその子らを祝福して彼らに言われた。『生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべての生きて動くものはあなたがたの食料となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように。』」。そして九節からみますと、「神はノアおよび共にいる子らに言われた『わたしはあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。またあなたがと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱船から出たものは、地のすべての獣に至るまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てる契約により、すべての肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は再 び起こらないであろう。これはわたしとあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に虹をおく。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。』」というのであります。
 
ここではJ資料にあるあきらめムードはみじんも感じられないで、ただ神の大いなる肯定、あの一章の創造物語にありますが、神が一つ一つのものを造られた時、「神は見て良しとされた」とありますが、その大いなる神の肯定がここに前面に出て、虹の契約という美しい契約によって、神はもう人間を滅ぼさないと神自らが誓うというのであります。

創世記は、特にこの一章から始まって十一章にいたる創造神話の記事は、そういう枠組み、そういう思想によって造られているのであります。一方には、あのJ資料にみられる人間の罪に対する深い見方をしっかり保存しながら、しかしそれにおいかぶさるようにして、それを否定するかのようにして、神の光、神のあわれみ、神の大いなる肯定が、この全世界を被っているのだと告げるのであります。それがイスラエルの民があのバビロンという地の果てのところで、捕囚の民として苦難のなかにあって信じた神の光なのであります。

それは同じころ預言した第二イザヤと言われている預言者の言葉と呼応するのであります。四十章の二六節「目を高くあげて、だれがこれらのものを創造したかを見よ。ヤコブよ、なにゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』というか。イスラエルよ、なにゆえあなたは『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うのか。あなたは知らなかったか。聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には、強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」というのであります。「主は地の果ての創造者」というのは、「地の果て」とは、バビロンのことです。イスラエルの地からみたらバビロンは地の果てに思われたのであります。そのバビロンの地にいても自分たちの神は創造者としてわれわれに臨んでおられるというのです。だから元気を出そうというよびかけであります。

創世記の冒頭の記事によれば、神がまず始めに造られたものは、「光」だったというのです。この光は太陽とか月とか星ではないのです。太陽が造られるのは四日目です。「天のおおぞらに光があって、昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。神はふたつの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどって、小さい光に夜をつかさどられたというのです。
ですから、神が最初に造られた光は太陽の光でも月の光でもなく、光そのものをあらわしております。ですから、聖書の世界では太陽を神として崇めるような信仰はみじんもないのです。そしてその光はやみを全く追い出してしまうような光ではないのです。光はいわば闇のなかで輝いているのであります。夜は来るかも知れない、闇は確かにこの世にはあるだろう、しかし神は光を創造したではないか、われわれに光を与えておられるではないかというのです。それが「神は『光あれ』といわれた。すると、光があった。神はその光を見て、良しとされた」ということであります。

ここに聖書の人生観があります。われわれのこの人生を否定的にみるか、悲観的にみてしまうか、それとも肯定的にみるかであります。
 この最初に造られた神の光、それはまさにイエス・キリストそのものなのだというのが新約聖書が告げるところであります。ヨハネによる福音書が「すべての人を照らすまことの光があって世にきた」と告げるのであります。この光に命があったというのであります。これこそがキリストであったというのであります。

そして先ほど読みましたコリント人への第二の手紙では、パウロはこういうのであります。「『闇の中から光りが照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さった。わたしたちはこの宝を土の器の中にもっている。その計り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが現れるためである、わたしたちは四方から艱難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」とのべて、「だからわたしたちは落胆しない」と続いていくのであります。
 神が最初に創造したこの光を信じて、光のなかを歩んでいきたいと思います。