「あなたの弟はどこにいるのか」     創世記四章一ー一六節 ルカによる福音書一○章二五ー三七節


 神はなぜかカインの供え物は顧みないで、アベルの供え物だけを顧みた。カインは神を恨まないで、アベルを恨み、アベルを抹殺しようとした。えこひいきの愛から外された者は、いつもえこひいきした者を恨むのでなはく、えこひいきの愛の対象になった者を恨み抹殺しようとするのは、不思議です。それは結局はえこひいきという愛の不公平さを憎むというよりは、自分のプライドが傷つけられ、自分が愛されなかったことを悔しがるという自己中心的な思いでしかないという事であります。

それに対して、神はそのカインの心の動きを見抜き、「正しい事をしているのなら、顔をあげよ。もし正しい事をしていないのならば、罪が門口に待ち伏せている。それはお前を慕い求めるが、お前はそれを治めなければならない」と警告します。ここでは罪というものが、まるで獅子かハイエナのように人間の外から襲う動物のように例えられております。それはエバを誘惑したへびの存在と似ている。これは古代的な神話的表現ではありますが、今日のわれわれの実体でもあるのではないか。罪を犯す時のわれわれの心理的な動きをよく表しているのではないかと思います。新約聖書では、これをしばしばサタンとして表現している。罪はわれわれの心の中の主観的なものではなく、われわれの外にある、われわれの外から襲ってくる、客観的な力であるというのがわれわれの実感ではないか。だから、この罪から逃れるためには、自分の意志の努力などではなく、神に助けを求めなくてはならない。サタンに対抗できるのは、人間の意志などではなく、神しかいないからであります。そのためにも、まず顔を神の前で伏せてはいけないのであって、顔を神に向かってあげなくてはならない。不満があるなら ば、それを神に訴え、サタンの誘惑の力を感じたならば、神に助けを呼び求めなくてはならないのであります。
 
罪は獅子のようにハイエナのように強力ではあるが、しかしそれは治めることができないものではないのだと神はカインに対していうのです。「罪はお前を慕い求めるが、お前はそれを治めなければならない」と神はいうのです。罪に対してわれわれは宿命感に陥ってはならない。それは治めることができる。だから神は「それを治めなくてはならない」というのです。われわれがそれを治めることができると神はわれわれを信じているからこそ、「治めなければならない」というのであります。

  カインの心の中にもうすでにアベルを抹殺してしまおうという思いが浮かんでいるのです。しかしそれはまだお前には治めることはできるのだから、治めなければならないと、神はカインにいうのであります。われわれが心に思い浮かべることと、われわれがそれを実行に移すこととの間は、紙一重のようでいて、また大変な距離があるのも事実ではないか。竹森満佐一の説教のなかで、自殺の問題に触れて、われわれは自殺はしないかもしれないけれど、自殺したいと思ったことならば、だれにでも一度や二度あるのではないか、という意味のことを言っております。人を殺したいと思うことと、実際に人を殺してしまうこととは、紙一重のようでいて、雲泥の差があります。何回でも手を洗わないと気が済まないという潔癖症に陥っている患者に対して、「『手を洗いたい』という気持ちはどうしょうもない、それを抑えることはできないかもしれない。しかし実際に手を洗うという行動を止めることはできるのだから、そうしなさい、何度も失敗するかもしれないけれど、それを何回でも繰り返してやってみなさい」と言って、潔癖症から解放してあげたという医者の話を思い出します。

アベルを抹殺してしまいたいという気持ちがカインの心の中にふつふつと生じてしまうことは致し方ないかも知れません。しかしそれを治めることはできる。われわれも自分の心のなかに邪悪な思いが浮かんできてしまうことは致し方ないのです。それが浮かんできたからといって、くよくよと反省ばかりしても仕方ないのです。その時にこそ、神に顔を向けて祈り、神に赦しを乞い、神からの聖霊の助けを求めればいいのであります。

 カインはアベルを野に連れ出して、殺してしまいました。主なる神はカインに言う。「弟アベルはどこにいるのか」。最初に罪を犯したアダムに対する神の問いは「お前はどこにいるのか」という問いでした。神との関係がそこでは問われたのであります。カインに対する神の問いは「お前の弟はどこにいるか」という問いであります。それは「お前の隣人はどこにいるのか」という問い、われわれの隣人との関係でわれわれはどこにいるかが問われるのです。罪を犯したわれわれに対する神の第一の問いは、「お前はどこにいるのか」「お前は神との関係でどこにいるのか」という問いです。そしてそれに続く問いは「お前の弟はどこにいるのか」「お前はお前の隣人との関係においてどこにいるのか」という問いであります。

それに対してカインは、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」と答える。われわれは自分の隣人との関係を問われて、われわれがどんなにその責任から逃れようとしているかということです。カインはアベルを抹殺しているのです。それなのに、自分は弟の番人かと、弟のことなどわたしは知らないと答えているのであります。

 イエスはいわゆる「よきサマリヤ人の例え」で、律法学者が「自分の立場を弁護しようとして、『わたしの隣り人とはだれのことか』」と問うたのに対して、こういう話をなさいます。ある人が強盗に襲われて瀕死の姿で倒れていた。そこを通りかかった祭司もレビ人も見て見ないふりをして通り過ぎていった。しかしそれまで敵対関係にあったサマリヤ人は手厚く看病してあげた。そういう話をしてイエスは「だれが強盗に襲われた者の隣人になったと思うか」と、問うたのです。

 わたしの隣人はだれかと、自分が軸になって、自分が愛したい人間はどこにいるかと隣人を捜すのではなく、自分の目の前で助けを求めている者に対してあなたが隣人になることなのだとイエスはいうのであります。そういう意味では、われわれの方から隣人を選ぶことはできないのです。隣人とわれわれとの関係はいわば宿命的にそういう関係が生じてしまうものです。祭司もレビ人も宿命的に強盗に襲われた者に対して隣人関係になってしまっている。たまたまそこを通りかかったというだけでそういう関係になってしまっている。そういう関係の中で、われわれがその人の隣人になっているかが問われているのであります。

 アベルはカインにとって、いわばもう宿命的に弟になっているのです。それはカインが選べることではないのです。兄弟とか家族というのは、選ぶことはできないのです。カインは神から「お前の弟アベルはどこにいるのか」と、問われて「わたしが弟の番人でしょうか」と答えておりますが、良い意味でも悪い意味でも、カインはアベルに対してもう番人でなければならないのです。「わたしが弟の番人でしょうか」というカインの反論の中に、アベルを殺してしまうという実体が隠されているのではないかと思われます。

兄弟の関係、親子の関係、そして夫婦の関係は、いわば宿命的な関係です。夫婦の関係は自分たちが選び取った関係かも知れませんが、しかしいったんそういう関係になってしまったら、それはもう宿命的な関係です。そして夫婦の関係もただ自分達の好みで選び取ったものだということだけで成り立たせようとしたら、それはたちまち破綻が生じてしまうのであります。その自分達の選択の背後に神の導きとか、なにか運命的なものを感じ取っていないならば、それは成り立たないものです。そういういわば宿命的な関係、つまり自分が勝手に選ぶことができないで、向こうから自分の隣人となってくる関係の中で、われわれのほうでも隣人となるということが大切なのであります。親の介護の問題、子供の世話の問題、それを避けて通ることはできない。「わたしが弟の番人でしょうか」とうそぶくことはできないのです。

しかし家族の関係というのは、そういういわば宿命的な関係であるが故に、大変難しい問題をはらんでおります。いったんこじれてきますと、もう泥沼のような人間関係になってしまうのです。宿命的な関係というのは、ただ宿命的なものとして後ろ向きに消極的に、つまりいやだいやだとしてしか感じられなくなってしまって、どうしてもその人に対して自分が隣人になれない関係というのがあるのも現実です。宿命的なものをただ宿命的なものとしてしか受け止められないのでは、ひとつも喜びはないだろうと思います。

 それに対して聖書は、ただ宿命的な関係だけでなく、神との関係がある、と告げるのであります。神とわれわれとの関係は決して宿命的なものではないのです。なぜなら神は神の自由な立場からわれわれひとりひとりを愛しておられる、それに対してわれわれもまた自分の自由に自発性をもって神を愛していくという関係だからであります。
宿命的な関係というのは確かにあると思います。しかしそれをただ宿命的な関係に終わらせてはいけないのです。それをただ宿命的な関係に終わらせないで、みずからこちらが「隣人になる」ということが大切なのではないか。「わたしが弟の番人でしょうか」とうそぶくのではなく、みずから「弟の番人になる」ということが大切なのであります。

 しかし、どうしてもそれができない関係というのもある。いつまでもどこまでも、ただいやいやだいやだと思う宿命的な関係もあると思います。そういう時には、そこから逃れることも必要だと思います。宿命的な関係をただ宿命的な関係だけで終わるようならば、つまりどうしてもみずから隣人になって、隣人として愛することが出来ないときには、その関係から逃れる必要があると思います。

 聖書は、われわれがいつまでも宿命的な関係にとらわれ続ける必要はないと言っていると思います。それがあまりに長く、またあまりに深くただ宿命的な関係としてだけ続くようならば、むしろそこから逃れたほうがいいのだと言っていると思います。宿命的な関係の中で宿命感にとらわれてじめじめとして生きるよりは、その宿命的な関係から逃れたほうが良い場合もあると思います。なぜなら宿命的な関係からは何も生み出さないからです。家族関係は確かに宿命的な関係です。しかし絶対的なものでもないのです。つまり宿命的なものにわれわれはいつまでも縛られる必要はないし、それから逃れることも必要だと聖書はわれわれに告げてもいるのです。

 イエスはある時こういうのです。「わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅとめと仲違いさせるために来たのである。」そうして「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」と言われているのです。これはもちろんイエスよりも家族を愛する、家族という甘えのなかでぬくぬくとしている人に対するイエスの家族関係に対する批判であります。この家族関係というのは、結局は自分の命を愛し、守り、それに執着する、自分だけを愛するということとつながる関係、つまり自分の家族だけを守るという関係に終わってしまう。大変自己中心的な関係に対して言われている言葉が、このイエスの言葉です。

 しかしこれは、またどうしても家族という絆から宿命的に逃れられないことで苦しんでいる人間にとって、家族よりももっと大事な関係があることを教えている箇所でもあるのではないかと思います。家族関係をただ宿命的な関係としてしか受け止められない人に対して、そういう宿命的な関係から解放する言葉でもあるのではないかと思います。そうしてわれわれ人間にとっての宿命的な関係というのは、実は自分に対する自分の関係であります。何が何でも自分の命を守らなくてはならないという自分に対する宿命的な思いであります。それに対してイエスは「自分の命を得ているものは、それを失い、わたしのために自分の命を捨てるものは、それを得るだろう」というのであります。イエスに従うことによって、神に従うことによって、自分という宿命的なものから解放されなさいというのであります。

 具体的には、親の介護の問題でも、他人の援助とか、公的な機関に世話になるとか、あるいは、夫婦の関係だったならば、離婚という形もやむを得ないことであります。いつまでも宿命的な絆の中に囚われ続けるよりはよほどよいことだと思います。
 神はカインに対して、「お前の弟はどこにいるのか」と問うたのです。それに対して、カインは「わたしが弟の番人でしょうか」とうそぶくのです。それはすでに弟を殺してしまっているカインの言葉であるし、またそういう思いで弟アベルを見ていたということが弟を殺すことにつながったとも言えるのではないかと思います。それは「隣人を愛しなさい」という神の律法の言葉に対して、自分の立場を弁護しようとして、それはつまり自分が人を愛したくないという自分の姿を隠そうとしたということだと思いますが、「では、わたしの隣人とはだれのことか」と、問うたのと同じであります。

 神はわれわれに対して「お前の弟はどこにいるのか」「お前は弟に対して隣人になっているか」と尋ねているのであります。