「地上の放浪者」  創世記四章一ー一六節 ヘブル書一二章一八ー二四節

 カインとアベルは神に供え物をした。神はなぜかアベルの供え物だけを顧みて、カインの供え物は顧みなかった。そのためにカインはアベルを妬み、アベルを野に連れ出して殺してしまったのであります。そのカインに対して神は「お前の弟のアベルはどこにいるか」と尋ねます。するとカインはぬけぬけと「知らない、わたしが弟の番人でしょうか」とうそぶくのです。それに対して神はこう言われます。「お前は何という事をしたのか。お前の弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいる」というのです。殺されたアベルの血は殺したカインに向かって、叫ぶのではなく、神に向かって叫んでいるというのです。

 殺された者が殺した者に向かって叫ぶならば、これはもう怨念の叫びであります。日本の幽霊と同じであります。たたりを求める怨念の叫びであります。しかし殺されたアベルの血の叫びは神に向かって叫ぶのであります。それは神に向かっての叫びですから、神に向かっての訴えであります。アベルの血は神に向かって何を訴えるのでしょうか。もちろんカインに対する憎しみ、怒りを訴えているでしょう。「カインを罰してくれ」という訴えがもちろんあると思います。しかしそれ以上にこれが自分を殺したカインに対する叫びではなく、神に向かっての訴えであるならば、「どうしてこんなことが許されるのですか、こんなことがあっていいのですか。あなたの正義はどうなっているのですか」という訴えではないかと思います。それは神の義に対する訴え、あのヨブの訴えと通じるものがあるのではないか。ヨブは正しい人間だった。それなのにヨブの子供は不慮の死を次々にとげ、全財産をなくし、ヨブ自身も難病に陥った。ヨブに苦難が来た。なぜ、自分は正しいことをしてきたのに、こんなに苦しまなくてはならないのか。義人はなぜ苦しまなくてはならないのか。この世には悪いことをしてい る人間がのうのうと暮らしているのに、なぜ正しい人間が苦しみを受けなくてはならないのかというヨブの訴えであります。アベルの血の叫びは「正しい人間がなぜ殺されなくてはならないのか」という訴えでもあると思います。

日本の歴史では、天皇の地位を巡っての争い、権力者の争いで、一族が皆殺しにされるということがよくあったのであります。それは日本だけの話ではなく、どこの国の歴史でもそうです。日本では特にたたりの思想というものがありますので、一族を殺して権力をにぎったものの、そのたたりが恐ろしい、そのために、殺した者が殺された者の怨念を鎮めるために、数数の立派な寺院が建てられのだということです。法隆寺などもそうして建てられたのだという説を建てている学者もいるのであります。

 アベルの血の叫びが直接殺したカインに対する叫びならば、それは復讐を求める叫びだけで終わるに違いないと思います。復讐は復讐を求め続けてエスカレートしてくるだけで終わるに違いないと思います。

 しかし神に向かったの叫びであります。ベブル人への手紙の一二章二四節にこういう言葉があります。「新しい契約の仲保者イエス、ならびにアベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。」という言葉であります。ここではアベルの血の叫びがイエスの十字架で注がれた血の叫びと対比されているのであります。ここでは「アベルの血よりも力強く語る」イエスの血、というのですから、アベルの血はイエスの血と、どこか相通じるものがある筈であります。そしてここは一八節からみますと、終末の救いについて述べているところなのですが、われわれを終末の時に待っているのは、何か恐ろしい山ではない、火が燃え、黒雲や暗闇や嵐に包まれ、けものであっても山に触れたら、石で打ち殺されるという恐ろしい山ではないというのです。われわれが終末の時に待っている山は、「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊」と、続いて新しい契約の仲保者イエス、続くのであります。

 アベルの血とイエスの血が対比されているのであります。それはどういう対比なのでしょうか。イエスの血はもちろん十字架でそそがれた血であります。十字架のあがないの血潮であります。それと相通じ、対比されるアベルの血ですから、それは単なる復讐を求める血ではなく、正しい人間がなぜ殺されなくてはならないのかという神の義を求める叫びではないかと思います。それに対してイエスの血は罪人の罪をあがない、その罪を赦すことにおいて神の義が明らかにされるという血であります。
ここでアベルの血がイエスの血と対比されているということは、アベルのあの土の中からの血の叫びは、単なる復讐を求める、怨念というようなじめじめした何の生産的でない血の叫びではなく、神の義を求める叫びであります。あなたの正しさはどうなってしまったのですかという神に向けての叫びであります。正しい人間がなぜこんな目に遭わなくてはならないのですかという叫びであります。

ヨハネの黙示録六章に、殉教者の血の叫びがやはり記されております。「神の言葉の故に、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。彼らは大声で叫んで言った、『聖なる、まことなる主よ、いつまであなたはさばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をさならないのですか』」という叫びの声があったというのです。それに対するイエスの答えは、「まだまだ忍耐しなくてはならない。まだまだ殉教者の血が必要なのだ。人間が自分達の罪に気づき、悔い改めるためには、まだまだ殉教者の血が必要なのだ」というのが答えなのであります。

神は、不条理に殺された者、アベルの血の叫びに対して、直ちに復讐することはなさらないのであります。ただちにカインを殺そうとはなさらないのであります。ただちに復讐すれば、復讐はまた復讐を連鎖反応的に拡大するばかりで、人間の罪を阻止することはできないからであります。しかし殺された者は何もできないのか。殺され放しなのか。そうではないのです。カインがアベルを殺して地の中に埋めて、知らん顔をしようとしていても、土の中からの殺された者の血の叫びを神は聞き取っておられるのであります。その罪は決して隠蔽されないのであります。神は不条理に殺された無念の血の叫びを決して無視したり、退けたりはなさらないで、聞き取ってくださるのであります。

 ヘブル人への手紙には、「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」とあります。アベルは何を信仰によって語っているのでしょうか。「信仰によって」というのですから、ただカインへの復讐を求めての血の叫びではないだうろと思います。それはむしろ、殺された者は殺した者に対して直接復讐しないで、それを神に訴えよ、神に復讐を任せなさい、それを神に向かってのアベルの血の叫びであり、それが「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」ということなのではないかと思います。

神は土の中からのアベルの血の叫びを聞いて、カインをただちに復讐して殺すことはしませんでした。「お前は呪われてこの土地を離れなければならない。この土地が口をあけて、お前の手から弟の血を受けたからだ。お前は土地を耕しても、土地はもはやお前のために実を結ばない。お前は地上の放浪者にならなければならない」というのです。今生活している土地を追われ、生涯定住する土地が与えられない、その生涯、地上の放浪者にならなければならない、というのであります。これがアベルを殺したカインに対する神の罰であります。安住する場所がないということはつらいことてであります。カインは自分の犯罪を隠蔽するために、殺したアベルを地面を掘って埋めたのであります。ところがそんな犯罪に利用された土地は黙っていない、死体が埋葬された土地がカインに復讐するのであります。これは一種の祟りの思想かも知れません。祟りなどと言うのは、いかにも迷信的、古代的な迷信的なもののように思われます。本当にたたりというものがあるのかどうかは分かりませんが、祟りの思想が生まれた背景には、自分の犯した犯罪はどんなに隠そうとしても隠しきれるものではないというわれ われ人間の罪に対する思いが生み出した思想だろうと思います。たたりなどいうのは、迷信だ、理性的でないなどと現代人は思うかも知れませんが、そうして祟りの考えなど追い払ってしまっているかも知れませんが、その分われわれ現代人は罪に対する思いが大変希薄になって、平気で人を殺すようなことになっていないか。

 そういう意味では、祟りの思想というのは、罪に対する厳しい思いが込められていて、これは迷信的なものだと一掃しないほうがいいような気が致します。何でも理性的、合理的に考えることがわれわれ人間にとって幸福かどうかわからないのであります。
 
それに対してカインは神に訴えます。「わたしの罰は重くて負い切れません。あなたはきょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見つける者はだれでもわたしを殺すでしょう」この訳はなにかはっきしないところがありますが、新共同訳聖書の訳ではこうなっております。「わたしの罰は重すぎて負い切れません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」となっております。この土地を追われるということは、神の御顔から隠されて、地上をさまようことになる、それはわたしには不安でなりません、なぜならわたしを見つけるものはわたしを殺すでしょうから、ということであります。カインは自分の今いる土地から追放されることは、神の御顔から、神の御前から離れることになるのだと、カインは思ったのであります。そうしたら自分を見つける者から殺されることになると思ったのであります。考えて見れば、この時には、まだアダムとエバとカインしかこの地上に存在して いないときの話ですから、カインを殺す者はどこにもいないはずですが、これは神話ですから、そういうところはあまり詮索しないほうがいいと思います。

ともかく、カインは自分は殺人者だということは、神から言われて十分自覚させられたのであります。だから人が自分を見つけたら、自分にアベルの復讐をするだろうと恐れたというのであります。

 それに対する神の答えは、カインにとってもわれわれにとっても思いがけないものであります。「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるだろう」と言われます。そうして、殺人者カインを殺すして神から七倍の復讐を受けないように、カインを殺さないように、彼に一つのしるしをつけたのであります。どこにしるしをつけたのか書いてありません。みんなにすぐ分かるようなしるしでなければなりませんから、カインの額にしるしがつけられのかも知れません。それは「カインは殺人者である」というしるしなのでしょうか。そうではないと思います。これは神がこのカイン、弟を殺してしまったカインではあるが、神はこのカインを特別にあくまで守り通すという神の愛のしるし、神の憐れみのしるし、神の赦しのしるしであります。

神は罪を犯したカインをあくまで守り通すというのです。カインのほうではもう自分は神から見放されたと思ったのですが、神はカインを決して見放さないというのです。それはカインを守るという意味もありますが、「カインを見つける者が誰も彼を殺すことのないように」とありますので、もうこれ以上人に罪を犯させないためでもあります。つまり復讐を人間に許さないということであります。復讐は神ご自身がなさるということで、人間にもうこれ以上罪が拡大することを阻止したということでもあります。神は罪を犯した者を他の人から殺されないように保護してあげる、赦してあげる、そのことを通して罪の拡大を阻止なさったのであります。復讐を容認するということは、正義の遂行ということからは理屈に合うことかもしれませんが、それでは人間の世界から罪はなくならないのであります。