「そして彼は死んだ」  創世記五章一ー三二節

 今日学ぼうとしております五章は、祭司資料に属しております。祭司資料と言われている記事は創世記で言えば、一章一節から二章四節までで、神が天地、人間をお造りになり、そうして七日目に休まれたという記事で中断され、そのあと、ヤハウェ資料と言われている記事が続きます。人間が土のちりで造られ、その鼻から神が命の息を吹き入れて始めて生きた者となったという話から、男の助け手としての女の創造、しかしその女が男の助け手とはなりえず、神が食べててはいけないと禁じていた善悪を知る木の実を男に与えて食べさせ、そのようにして人間は罪を犯したという話、その罪はカインとアベルの話では、神への捧げものめぐってカインが弟アベルを殺してしまったという殺人の話を通して罪は深まり、そしてそれがレメクの七十七倍の復讐の歌となり、人間の罪はどんどんと深化していくというヤハウェ資料の記事が続きます。そうしてそれはやがて神が創造した地上を再創造しようとして、ノアの一族だけを残してあとは滅ぼしてしまうという大洪水を起こしたという話になっていくのであります。そのノアの大洪水の記事の前に、祭司資料が挿入という形で入っているのであります。そ れが今日学ぼうとしております五章であります。
 
 聖書の注解書をみますと、多くの注解書は祭司資料は祭司資料の流れをとりあげて解説し、ヤハウェ資料はヤハウェ資料の流れにそって解説しているのが多いのです。具体的にいいますと、一章の一節から二章の四節の次にこの五章の一節からとつなげて解説する、そうして今度はヤハウェ資料は二章の四節後半から始めて、この五章の記事は省いて、六章の記事で読んでいくというように解説していくのであります。
 
 しかしわれわれは聖書を現在のある形でこれを聖書として、正典として読んでいるわけで、歴史的な文書として読んでいるわけではないので、四章の終わりはすぐ続けて五章を読むという読みかたが自然ですし、またそう読まなければならないと思います。

この五章を読む時に、われわれが大変印象づけられるのは、人間の寿命の長さであります。アダムは五節を見ますと、九百三十年生きたというのです。そしてその次の子セツは、九百十二年、その次の子エノスは九百五年と続きます。次の子は九百十年、次の子マハラレルは八百九十五年、次の子、ヤレドは九百六十二年、次はエノクですが、エノクだけは特別で、三百六十五才で、神が取られたので、彼はいなくなったと記されております。そして次はメトセラ、九百六十九才、その次の子レメクは七百七十七年生きたというのです。その後はノアですが、ノアの年は、九章二九節をみますと、九百五十才だったとなっております。

 勿論これは神話的な年齢ですけれど、そのことによって聖書は何を語ろうとしているかということであります。そのあと、アブラハムになりますと、百七十五年です、その奥さんのサラは百二十七年でした。だんだん今日のわれわれの年代に少しづつ近づいてくるのであります。

 この事は、次の六章の一節からの記事をみますと、こうなっております。「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」とあります。ここはこの次に学びますが、簡単にいいますと、人間の罪はこの地上だけの問題にとどまらないで、神の子たちと人間の娘たちとの結婚ということにまで広がり、いわば人間の罪は宇宙的広がりをもつようになった、それで「わたしの霊は長く人間の中にとどまらない。彼は肉に過ぎないのだ」ということになり、人間の寿命を百二十年にしようということになったというところです。ここでようやくわれわれの寿命に近づくのであります。この六章の一節から四節までの資料はヤハウェ資料に属しておりますので、これをすぐ祭司資料と結びつけるのはおかしいと言われるかも知れませんが、しかし創世記を最終的に今日の形に編集したのは、恐らく祭司達で、祭司資料をもっていた人々が今日の創世記に編集したわけですので、この五章にあるアダムから始まるノアまでの寿命と、それが人間の罪のために百二十年にまで縮めようというこの記事とは、やはり神学的には結びつけて、編集されているわけです。

つまりこの五章にある九百何年まで生きたという記事は、人間が罪を犯す前はこれだけ長寿だったのだ、と告げようとしているのであります。アダムは九百三十年、ノアは九百五十年年ですから、ノアのほうが長生きしたということになりますが、アダムからセツ、エノス、となりますと、セツは九百十二年、エノスは九百五年、と少しづつ短くなっているのであります。もっともその後はカイナンは九百十才、となっているので、うまくいきませんが、その後はマハラレルは、八百九十五年となっております。その後はヤレドが九百六十二年とまたもとにもどります。
これが同じ箇所を訳しましたサマリヤ文書というものがあるのだそうですが、そこでは、はっきりと段々と年齢を短くして書かれているそうです。ここでは、人間の寿命は創造時の時から遠ざかることによって、その生命力が段々と衰退していることをあらわそうとしているのだということであります。

ヤハウェ資料ははっきりと人間の罪が、アダムとエバの原罪、カインのアベル殺し、そしてレメクの七十七倍の復讐の歌と、罪の広がりと深化を語るのに対して、祭司資料は人間の長命がだんだんというよりは、一気にといったほうがいいと思いますが、つまりアブラハムは百二十年、それに対してノアの時代には九百年が平均寿命だったと語ることによって、人間の寿命は人間の罪によって短くなったのだと、寿命の短さというこで、人間の罪の深まりを語ろうとしているのだということであります。ある人の説明では、この創世記の五章は「罪によって力を得た死が、人間の本来もっていた強力な死に対する身体的抵抗力をゆっくりとではあるが、突き破っていくことをあらわそうとしているのだ」ということであります。要するに罪によって生命力が衰えていくことを示すことによって、ヤハウェ資料が物語という形で人間の罪の深化を語るのに対して、人間の寿命の縮まりということを通して人間の罪の深化を語ろうとしているのだということであります。
 
この五章の記事を読んでいて、われわれが驚くのは人間の長命であります。そしてそれと共に非常に印象深い言葉は、それにもかかわらず、「そして彼は死んだ」「そして彼は死んだ」という短い言葉がひとりひとりの生涯について、繰り返し繰り返し記されているということであります。どんなに人間が長生きしても、結局は人間は最後に「そして彼は死んだ」という短い言葉で言いくるめられてしまうものなのだということであります。それが九百何十年も生きた、という長命であれば、それだけ、人間はどんなに長生きしても結局は最後には死ぬのだということをあらわしているわけで、人間は死ぬのだということが印象深いのであります。現代は「そして彼は死んだ」という事実を忘れよう忘れようということばかりしていないか。

 昨日の新聞によれば、スイスでは生前意志表示していなければ、もう自動的に臓器移植を承認したことになるという法律が造られたそうであります。人間の身体をたとえそれが死んだ身体であっても、機械の部品のように取り扱っていいのだろうか、人の心臓をとってまで生きようとするのは、人間の我執だといった禅のお坊さんの言葉を思いだします。人間の寿命ということをわれわれはもっと真剣に考えなくてはならないと思います。臓器移植の問題はどこまで臓器の移植を認めるかどうかで、たとえば、角膜の移植まではいい、腎臓まではいい、というに境界線を設定することは難しい問題ですが、しかしスイスでそのような法律ができると、もうまるで人間は機械の部品のように扱われる、人間の死の尊厳というものが一体どうなるのか危惧したくなるのであります。ともかく、人間はたとえそのように臓器移植してどんなに生き延びたとしても結局は、「そして彼は死んだ」と、短い言葉で表現される死を迎えなくてはならないのであります。

ここでは、人間の罪と人間の長命、長生きとが深く関わって表現されていることも考えさせられます。この時代には、長命ということがそのまま神の祝福をあらわし、人間社会においても祝福されたものとして表現されているということなのであります。それが人間の罪とともに人間の寿命は縮まっていったということであります。今日人間の長命ということがここに示されているほどに、手放しで祝福されことになっているだろうかということなのであります。面だってはいえないことですが、あまり長生きされては困るのが今日の社会ではないでしょうか。それはなぜか、それは老人はもう役に立たない存在だから、もうあまり生きていて欲しくないという風潮があるのではないか。昔はどんなに役に立たなくなっても、老人はそこに存在しているというだけでも重んじられたものであります。しかし効率的なものしか求めようとしない今日の社会では、役に立たないもの、役に立たなくなったものは、捨てられていくのであります。

 ある本を読んでおりましたら、中国の「荘子」という書物のなかに「無用の用」という話があるそうです。それはある大工が巨大な櫟(くぬぎ)の木を軽蔑したというのです。この櫟という木は舟をつくれば沈むし、柱にすればすぐ虫に食われてしまうという具合に、全く無用の大木であるといって軽蔑していた。ところがある時夢のなかにこの櫟の木があらわれてこう言ったというのです。「有用な」木というのは、果実のためにとられて枝を折られたり、切り倒して何かに使われたりで、天寿を全うできない、結局は自ら長所と思うところによって自分の命を縮めている。これに対して自分は無用、つまり役に立たないということですね、無用であろうとつとめてきた。無用なために自分を求める人はいなし、自分はおかげで大木になっている。まさに大用になっている。

 つまり大いに役に立つ木になっているというのです。それでこの大工は無用の用の意味を悟ったというのです。結局最後は役に立つという教訓に終わってしまっているところが残念ですが、ともかく現代のわれわれの社会はあまりにも役に立つものだけが尊いという考えに動かされすぎているのではないか。臓器移植の問題ももう役に立たなくなった人間は死んで貰って、まだ役に立つ人間を活かすために、役に立つ部分を取り出して使うという発想で、なにかあまりにも効率的なものの考えに終始している思いがして、浅はかな気がするのであります。欧米では教会がこの臓器移植の推進側に立って、積極的だということを聞いて、それでいいのかという気がするのであります。教会は人間は結局は死ぬのだということ、そしてその死の尊さを教えることのほうがもっと大切ではないかと思うのです。生きるということはどの分野でも言えることですが、死ぬことの大切さは教会とか、宗教しか教えることができないのではないかと思います。

この聖書の箇所は、長命を語ると共に、人間はどんなに長生きしても結局最後は「そして彼は死んだ」ということで終わるのだということをわれわれに教えているのであります。
 
 その中でエノクについてだけは大変不思議な書き方がされております。「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった。」というのです。エノクだけは、「そして彼は死んだ」と語られなくて、「神がとられたのでいなくなった」と記されているのであります。それで後にエノクについての様々な神秘的な書物が造られたそうであります。あるいは、逆にもともとはこのエノクについてはもっと詳細な記事があって、たとえばエノクという人物がどんなに信仰的に立派に生きたかを語る伝承があったのではないか、そしてその結語として「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった」という結びの言葉になったのではないかという推測もされております。しかしそれを祭司資料は実に簡潔に「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった」と記しているだけだというのです。

 「神と共に歩み」という表現は聖書ではエノクだけであります。アブラハムは「神の前で歩み」と記されております。エノクについては、聖書は「神と共に歩み」と書くのであります。それでヘブル人への手紙では、「信仰によってエノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれる者とあかしされていたからである」と記すのであります。ここには「神と共に歩み」という創世記の表現は、「信仰によって」という表現になり、「神に喜ばれる者とあかしされて」となっているのであります。その「信仰によって」という信仰とは何かということを説明して、ヘブル人の手紙は「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることを、必ず信じるはずだからである。」と説明されております。

 この信仰についての説明も実に簡潔で要を得ていると思います。信仰といいますと、なにか立派な敬虔あつい信仰をわれわれは想像するかも知れませんが、ここでは実に単純に「神が生きていますということ」と「神はわれわれの求めに報いてくださる」ことを信じることだというのです。こういう信仰ならば、われわれにも与えられているのではないかと思います。信仰の原点は、神がこの世に存在していて、生きて働いておられることを単純に信じられるようになるということなのであります。この信仰に立てる時に、われわれは死についても、「神がとられたのでいなくなった」と別の視点から死を見ることができるようになるということなのであります。

 死だけを見つめていたら、死に見つめられだけであります。そして恐れるだけであります。しかし死の背後に神がおられて、その死を受け止め、神がとられて、そうであるが故に、その人はこの地上かからいなくなったのだと受け止めることができるのであります。
 
 そしてこのエノクはほかの人に比べれば、短命であります。他の人は九百何年生きたとなっているのに対して、このエノクは三百六十五才であります。半分にも満たないで死んでいくのであります。いわば若くして死んだということであります。ここの五章では長命が神の祝福をあらわしております。それならば、短命、若くして死んでいくというのは、神の祝福を受けられないのかということになりますが、そうではないとエノクについての記事はわれわれに語るのであります。若くして死んだ者もまた神の特別の祝福のうちにあったのだと語り、慰め深いと思います。