人は肉に過ぎない」 創世記六章一ー四節
 

 今日学ぼうとしております六章は、先日にも少しふれましたが、ヤハウエ資料に属します。「カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」と復讐を謳歌したレメクの歌に続く、ヤハウエ資料ということになります。ヤハウエ資料は人間の罪の発展と深化をずっと語ってきて、この六章の一節から四節の記事に至り、そうして六章の五節から始まる、いわゆるノアの大洪水の記事につながっていくのであります。

 五節をみますと、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることがいつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも、わたしはこれらを造ったことを悔いる」となっております。つまり今日学ぼうとしております、六章の一節から四節までの記事は、人間の罪がアダムとエバの罪以来、カインの弟と殺し、レメクの七十七倍の復讐の歌というように発展し、深化して、そうして主なる神が人間を造ったことを後悔して、大洪水を起こして、世界を再創造しようとしたきっかけになった出来事であるということになります。
 
それは何か。これは大変奇妙な出来事であります。「人が地のおもてにふえ始めて、娘達が彼らに生まれた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」というのです。これがどうしてこれまでの罪の発展と深化になるのかということであります。ここで言われている「神の子たち」とは何を示しているのか。神の子たちというのですから、天使のことであります。旧約聖書では、天使というのは、いつも善い天使とは限らないで、悪い天使もいたと考えているようであります。ヨブ記をみますと、「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。」と、記されていて、サタンも神の子たちのひとりに数えられているのであります。

 ここで言われている「神の子たち」が天使なのか、サタンなのかははっきりしませんが、少なくとも人間とは違う存在、この地上の存在者ではなく、天に属している存在であることは明らかであります。その天の存在である神の子たちが人間の娘たちと結婚をし始めたというのであります。そしてこれはとんでもないことなのだというわけです。なぜなら、それは地上の人間と天上の神の子たちが結婚し、いわば人間と神との境界線がなくなってしまうということだからでありす。つまり人間の罪はもはやこの地上だけにとどまらないで、天の世界までも巻き込んで、ある人の表現では罪は宇宙的規模にまで発展したのだということであります。それはある意味であのバベルの塔の建設、人間が天にまで達する塔を作り上げて、人間が神の領域を犯そうとする罪と似ているのであります。

 それで神はこのまま人間を放置していてはならない、人間は人間に過ぎないということを知らすために、人間の寿命を百二十年に縮めようと神はお考えになったということであります。三節をみますと、「そこで主は言われた、『わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉に過ぎないのだ、しかし彼の年は百二十年であろう』」と、神が言われたというのです。

話そのものが極めて神話的な記事ですが、それにしても今までの神話的な話には、まだ人間の罪というものが明確に語られておりますが、この話がどうして人間の罪の発展と深化を物語るのか理解に苦しむところであります。といいますのは、ここでは、神の子たちが人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった、というのですから、人間の娘たちには何の罪もないように書かれているからであります。悪いのは神の子たちではないか。この話では、人間が主体的に、つまり自分の意志で罪を犯すというような話ではないのです。ですから、神もまたあの罪を犯したアダムとエバに対して、「お前はどこにいるのか」と問うたり、弟アベルを殺したカインに対して「お前の弟はどこにいるのか」と、問うたりはしないのであります。つまり人間にその罪の責任を問うことはしないのであります。ここではもう人間の存在それ自体が罪であるといわんばかりの事態が起こっているということであります。娘の美しさそのものが天使達を誘惑するものになってしまっているというのです。それはもう女が自分の意志で、天使達を誘惑してやろうなどというこではなく、女の存在そのものが相手に罪を引 き出すような存在になってしまったということであります。

 たとえが悪いかも知れませんが、ここにひとりの娼婦がいて、若い男がその人をみるとどうしても引きずられてしまって、自分の一生を駄目にしてしまうという場合、それは悪いのは誘われる男のほうに違いないのですが、しかしもっと悪いのは、その娼婦それ自体の存在だと言おうとしているのであります。その人の存在自体が悪の固まりで、その人の周りのものを悪に誘い込んでしまう。そういう人間というものが時々われわれの社会にもいるのではないか。悪というものがもう単に人間の意志とかというものを越えて、その人の存在そのものなかになってしまっている、そこに人間の罪の深化を聖書はみているのではないか。

 人間の罪というのが、その人の意志とか、明確な邪悪な心とかというのならば、まだ対処の仕方はあるのかも知れません。しかしその人の存在それ自体が人を躓かせ、人を不幸にする、人に罪を犯させる、という場合、どうしようもないのであります。そういう人というのが時々われわれの周りにもいるのではないか。その人の存在それ自体が人に嫌悪させるという人がいるのではないか。いや、自分自身がそうなっているかも知れないと、時々われわれも思う時はないだろうか。自分の存在それ自体が、自分がそこにいると言うこと自体が人にいやがられていないかと恐れる時があるのであります。

 天的な存在である神の子たちまでも誘惑するほどに、人間の娘たちの美しさは危険な邪悪な存在になってしまっているということであります。
人間の罪はもうわれわれの意志というものを越えて、われわれの存在それ自体のなかに根深く入り込んでしまって、天使たちをも誘惑するまでに深化してしまっているということなのであります。

「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」というのです。神の子たちと人間の娘との結婚であります。創世記では、男と女の創造が語られております。そして男と女の関係は、お互いに助け手としての交わりという関係で、そしてそれが結婚という関係なのだと語って来たのであります。それが罪を犯す前の男と女の結婚という正しい関係なのだと記されているのであります。しかしここでは、もはや相手を助けるための結婚ではなく、「人の娘たちの美しいのを見て」妻に選び、「自分の好む者を」妻にめとったというのです。これは大変現代的な結婚観になっているのではないかと思います。

 今日の結婚はそういう意味では、お互いに相手の美しさにひかれて、そして自分の好む者を、妻にめとり、夫として選んでいるのであります。そこでは、「神が合わせられた」という結婚観はなくなっているのであります。そして、相手の美しさに惹かれて結婚する、結婚というものがお互いに助け合うものとしてではなく、官能的なものが相手を選ぶ動機になっているのであります。そういう結婚がいかに危ういものかということであります。もちろん、だからといって、封建時代に帰って、親が決めた結婚、結婚するまで相手の顔も知らないという結婚がいいというのではないし、そんな結婚に帰ることはできないことであります。
 
 ただ言えることは、「人の娘の美しいのを見て」相手を選ぶ、そうして「自分の好む者を」選んで結婚するという結婚、それだけで成り立つ結婚というものがどんなに危ういものかということは、考えてみてもいいことではないかと思います。

 三節をみますと、「そこで主は言われた、『わたしの霊はながく人のなかにとどまらない。彼は肉に過ぎないのだ。しかし彼の年は百二十年であろう。』」と、記されております。先週にもふれましたが、それまでは人間の寿命は九百年とか、いわば神話的な年齢、人間を超えた神の子たちに似ている年齢だったのです。それが人間にふさわしい年齢、百二十年にまで縮めようと主なる神は言われたというのです。人間が土のちりに造られた存在であることをもう一度確認させようというわけであります。
 
罪を犯したアダムとエバに対しては、神はエデンの園から追放しました。弟アベルを殺したカインに対しては、地上の放浪者として追放されました。そして今度は人間は、ここではっきりと天の世界から追放されたということであります。というよりは、もともと人間は天の世界に属するものではないということを再確認させられたということであります。新共同訳聖書では「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから。」となっております。人間がいつも願っていることは永遠に生き延びたいということであります。しかしそれはできないということであります。そうなってはならないし、そんなことを人間は願うことは許されないということであります。

 人間の罪はいつもこの永遠に生きたい、神のようになって永遠に生きたいということと結びついているのであります。それで神は「わたしの霊は人の中に永久にとどまらせない」というのです。第二イザヤ書と言われているイザヤ書の四十章には、人間を慰める言葉としてこう言われております。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかしわれわれの神のは言葉はとこしえに変わることはない。」

 大変不思議なことにこの言葉はあの半世紀にわたってバビロン捕囚という苦しい生活から解放されて、いよいよ自分達の故郷エルサレムに帰ることができるという救いと慰めを語る預言の冒頭にある言葉なのであります。第二イザヤの冒頭の言葉は「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ、』」という言葉で始まるなかで、「人はみな草だ」という言葉が告げられるのであります。人間は人間である、決して神ではないし、神の子たちでもない、そのことをはっきりと知ること、そして神の言葉だけが永遠なのだ、と信じる時に、人間に本当の救いが始まり、人間は本当に慰められるのだというのであります。

 その言葉を引用して、ペテロの第一の手紙では、「あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言葉によったのである。」と言って、このイザヤ書の言葉を引用するのであります。人間は変わることのない朽ちない神の生ける御言葉によって生かされるのだから、「互いに心から熱く愛し合いなさい」と勧めるているところであります。それはまた人間はみな草だ、という事実を忘れないということが大切だと言おうとして、このイザヤ書を引用しているのであります。人間にはその道徳的な意味でも、人を熱く愛するということでも限界というものがある、そういう意味では人間はみな草だ、土のちりから造られた者だ、しかし

人間はそれだけによって生きているのではなく、変わることのない神の御言葉に支えられて生きているのだというのであります。
神によって生かされて生きることができるということが、われわれの救いであり、われわれの慰めなのであります。しかしそれを知るためには、われわれが土のちりにすぎない存在であること、人はみな草だ、ということをよく知っておく必要があるということであります。

 最後に四節をみておきたいと思います。「そのころまたその後にも、地にはネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところに入って、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった」と記されております。このネピリムについては、民数記の十三章三三節以下に登場してきます。そこではこう記されております。「わたしたちはまたそこでネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分たちがいなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」と、記されております。ここは、モーセが民をエジプトから約束の地カナンに導こうとして、その土地を探らせるために偵察隊を派遣して、その報告を受けているところであります。その地にはネピリムという大変ばかでかい人間たちがいて、到底自分達はその人たちと戦えそうもないと報告するのであります。そのネピリムの前に立つと自分たちはまるでイナゴのような存在だったというのです。それくらいその人たちは巨人で強そうだったというのであります。

 のこ六章はもともとは、その巨人であるネピリムという人種がなぜこの地上にいるのか、その原因は人の娘と神の子たちとの結婚によってできたのだという、いわば原因譚という物語があったのではないか、それをヤハウエ資料が用いて、今日の記事に造ったのではいかと推測されております。
 
イスラエルにおいては、そうした異常な巨人のような存在に対する嫌悪感がここにあったことを伺わせる記事であります。これもまた「人はみな草だ、人間はそんな巨人なんかではなく、土のちりに過ぎない存在、吹けば飛ぶような存在」であることを知ることの大切さを語ろうとしているのではないかと思います。