「虹の契約」 創世記九章一ー一七節

 「人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることがいつも悪い事ばかりであるのを主なる神は見られて」起こした大洪水は、ヤハウェ資料によれば、四十日後、祭司資料によれば、百五十日後に終わりました。ノアは水が引いたかどうかを知ろうとして、鳩を放ちました。すると鳩は足の裏を止めるところがなかったので、箱船に帰ってきました。七日目に二度目に鳩を放ちますと、なかなか帰ってこないで、夕方になってようやく帰って来ましたが、そのくちばしにオリブの葉をくわえていたというのです。それでああ、水がだんだん引いて来ていることをノアは知るのであります。そうして再び七日目に鳩を放ちますと、今度は鳩は帰ってこなかったというのであります。
 
 その後、八章の二○節からみますと、ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と鳥をとって、それを燔祭として祭壇の上に捧げました。主はその香ばしい香りをかいで、心にこう思ったというのです。「人が心に思い図ることは、幼いときから、悪いことばかりだ。」この言葉は六章五節以下にある、主なる神が洪水を起こして人類を再創造しようと思った時の言葉と同じなのです。「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることがいつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったことを悔いて」と、記されていたのであります。結局、洪水による人類の再創造というのは、失敗に終わったということであります。

 ここで不思議に思うのは、主なる神はノアの捧げる燔祭の捧げもののこうばしい香りをかいで、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」と思ったというのですが、それはノアの心のことを言っているのかという事であります。。ノアはノアだけは、主なる神の前で恵みを得て、義と認められていた筈であります。洪水の後、そのノアが捧げる燔祭の捧げものの香りをかいで神はそう思ったというのですから、なにかノアが変わってしまったというのでしょうか。うがった見方をすれば、あの狭い箱船のなかに四十日以上も閉じこめられていて、親族同志の争いが生じて、ノアも意地の悪い人間になってしまったというのでしょうか。これは古代の神話なので、そんな事を詮索する必要もないところですが、それにしてもヤハウエ資料というのは、人間の罪に対して実に辛辣な見方をしている、実に深刻に考えているということであります。ここは、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」というのですから、これはノアのことを言っているのでないことがわかります。ノアはともかく洪水の前には、主の前に良しと認められていたからであります。その時までは、神はノアを正しい人間として見て いたわけですから、ここに来て「幼い時から悪い」とはノアに関しては言えない筈だからであります。

 これはノアのことではなく、あるいはノアをも含めた人間の本質を考えれば、ということであります。それは洪水前に考えた事よりも、人間の罪について神はもっと徹底して見ているのであります。なぜならここには「人間は幼いときから、悪い」と考えているからであります。洪水前は「人間の思い図ることは、いつも悪い」と、「いつも」と言っておりますが、洪水の後、ノアの捧げるせっかくの燔祭の良い香りをかいで神が思ったことは、「もう人間は幼い時から悪いことを思い図るのだ」と思ったというのです。人は「いつも」「幼い時から」悪いことばかり思い図るのだというのです。

 それに対して、神はどう決断なさったか。だからもう毎日洪水を起こさなくてはならないと思ったか。そうではないのです。「わたしはもはや二度と人のゆえに地を呪わない。わたしはこのたびしたように、もう二度とすべての生きたものを滅ぼさない」と決めたというのであります。
 大洪水の効果は、人間の罪を取り除くことができたというところに現れたのではなく、人間の罪に対する神の思いが更に深まり、そうしてそれに対する神の態度が変わったということであります。もう洪水は起こさない、人間を絶滅させないというのであります。主なる神は人間の罪に対してもうあきらめたというのではないのです。忍耐して受け入れようと決めたというのであります。

 あきらめと忍耐は似ているようで違うのです。あきらめはあきらめて、もうその人と今後一切つきあわないという態度であります。もうあきらめてその人と、あるいはそのものと関わりあうのは止めようという態度であります。神が人間の罪を見て、もうあきらめたというのであれば、もう人間の罪に関わりあうのをやめて、もう人間なんかどうにでもなれ、ということであります。しかし忍耐するというのは、その罪を教育して矯正しようとすることはあきらめますが、その罪ある人間を忍耐して受け入れようということであります。ここには愛があるのであります。というよりも、愛というのは、いつもこの忍耐がなければならないのであります。忍耐のない愛などというものはないのです。

 新約聖書のなかで愛について一番まとまって教えている箇所はコリント人への第一の手紙の一三章であります。「愛は寛容であり」に始まって、その結びの言葉は、「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と、愛は忍耐するのだというのであります。忍耐することのない愛は愛ではないというのであります。この「愛はすべてを忍び」と言うときの「忍ぶ」という字は、「おおい隠す」という意味だそうです。あるいは、秘密を守るという意味です。忍耐という言葉からわれわれがまずまず第一に思い浮かべる事、なにか重荷を担うという意味の忍耐ではないということです。人の罪を見て、人に言いふらさないで、人の罪を見て隠してやって、知らん顔してあげるという意味だそうです。そしてそれはその人の罪を黙って受け入れるということですから、大変な重荷になることなので、そこから重荷を担うという意味での忍耐という意味も出てきたのではないかと思われます。

 神は洪水の後、人間の罪に対する見方はもっと深まって、もうこれは忍耐して受け入れる以外にないとお思いなったということであります。
 これは、後にパウロが主イエスの十字架による罪の赦しについて語る時こういうのであります。神は「今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった」とパウロは記すのであります。神は人間の罪に対して忍耐して忍耐して、その忍耐の堪忍袋の緒が切れて、怒り狂って人間を絶滅させようとしたというのではなく、忍耐して忍耐して、とうとうご自分のひとり子を十字架の上であがないの供えものにして、人間の罪を赦されたというのであります。忍耐するのは、なんとかしてその問題のある人間を受け入れようということであります。人間を見放すということならば、もう忍耐する必要はなく、とうの昔にあきらめているはずであります。

  洪水の後、主なる神は人間の罪はそのような洪水という裁きでは変わらないことを知って、もうこの罪ある人間をそのまま受け入れよう、もう二度と洪水は起こすまいと決めたというのであります。これはヤハウェ資料による洪水の後の神のお考えであります。それに対して、九章の一節からは、祭司資料による洪水の後の神の思いが置かれております。これはもう一転して、実に明るい色彩であります。「神はノアとその子らを祝福して彼らに言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ。』」まず祝福の言葉から始まります。あのヤハウェ資料にみられる人間の罪に対する暗い思いはまるで感じられないのであります。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福するのであります。ヤハウェ資料による、あの暗い、一見神のあきらめのように感じられる神の忍耐による人類の存続という思想、その思想を否定するようにして、神の祝福から始まるのであります。ここにやはり祭司資料の神学的思想を見ることができると思うのです。この資料の用い方、置き方であります。ヤハウエ資料にみられる、人間の罪に対する深刻な、ある意味では絶望的な見方を決して排除はしない、それはそのまま残している。そ うした上で、それを覆い被せるようにして、神の祝福をおくのであります。それが今日の創世記になっているのであります。

 しかしこの祭司資料にはヤハウェ資料のようにあからさまに人間の罪について言及はされてはおりませんが、その底にはやはり人間の罪に対する見方は決して甘くはないことも伺うことはできます。

 その一つは、二節にある「地のすべての獣、空のすべての鳥、地にはうすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、全て生きて動くものはあなたがたの食物になるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆、あなたがたに与える。」という所に見ることができます。始め神が天地を創造された時には、植物だけが人間の食物として与えられたのであります。しかしここでは生き物も人間に食物として与えられる。生き物を食べるということは、やはりそこは血がながされることになるわけで、血なまぐさいことになるわけで、平和的でないという印象をイスラエルの人々ももっていたのではないかと思います。動物も植物も同じ生き物ではないかと言われればそうなのですが、それはもう理屈ではなく、ものの感じ方であります。農業民族であるわれわれがそのように感じるのならわかりますが、牧畜民族であるイスラエルの人々もそう考えていたということは不思議な気が致します。ともかく、植物だけが人間の食物だったのが、動物もまた人間の食物になるということ、それを許さざるを得ないというとことろに、やはり人間の罪の深 まりというのを祭司資料は見ていたということであります。ここでは、地のすべての獣たちは、恐れおののいて、人間の支配に服すことになるわけで、やはり人間の罪による恐怖は地球全体を覆うことが暗示されているのであります。

 神は生き物を食物として許可はしますが、しかし命の象徴である「血」は食べてはいけないといいます。ですから、今でもイスラエルでは、動物の肉は市場で売る時に、すべて血を流して売られているそうで、ちっともおいしくないそうです。動物を食べることは許可しておりますが、その命の象徴である血までは食べてはいけないと、神は人間の罪を無制限に広がることを恐れて、人間の罪に歯止めをかけているのであります。

 そして動物を殺して食べてもいいという容認が、人間の命までも殺していいという容認になることを神は恐れて、五節をみますと、「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復する」と言って、たとえ獣であっても人間の命の血を流すものは、神は許さない、と言うのです。それは逆に神が人の命というものをどんなに大事なものとして、かけがえのないものとして考えておられるかの表明であります。そしてその理由として、六節をみますと、「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られた故に」というのであります。

 神が人間を造られた時には、人間だけは他の生き物と違って、神の姿に似せて創られたのであります。そしてその神の像に似せて創られたという事実は、洪水によっても、つまり人間の罪によっても、損なわれていないということなのであります。ヤハウエ資料は、人間の罪は洪水の前も後も変わらなかったと述べるのに対して、祭司資料のほうは洪水の前も後も、人間が神の像に似せて創られたという人間の尊厳は失われていないし、また失わせてはならないものだと言うのであります。祭司資料はあくまでわれわれ人間を肯定的にとらえ、われわれに希望を与えようとしているのであります。

 どんな人間をも殺してはならない、その人格を尊重しなくてはならないというのであります。それはその人間が立派だからという理由ではない。その人が社会的に見て有用だから、役に立つからだというのでもないのです。それはどんな人も、人間の目からみれば、役に立たないように見えても、価値のないように見えても、どんな人間も神の像に似せて創られているからだ、というのであります。人権を尊重しなくてはならないと盛んにいわれますが、ここでは、なぜ人権が尊重されなくてはならないかが、どんな人間も神の像に似せて創られている、それはつまりどんな人も神の深い配慮のなかで、神の愛のもとで創られているからだということなのであります。
 
  そうして、神はヤハウェ資料がもう二度と洪水を起こして人類を破滅に導かないと約束しましたように、祭司資料もまたもう二度と洪水を起こさないと約束するのですが、そのしるしとして契約を立てるというのであります。そしてその契約の徴として虹を置くというのであります。十一節からみますと「わたしがあなたがに立てるこの契約により、すべての肉なるものは、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう。さらに神は言われた、『これはわたしと、あなたがた及び、あなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に虹を置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが雲を地の上に起こすとき、にじは雲の中に現れる。にじが雲の中にあらわれる時、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思い起こすであろう。』」と言われるのであります。
 
虹というのは、われわれの思いとは関係なく、現れるのであります。特に大雨のふった後とかに現れる。もう大雨がふって、これから大洪水が来るのではないかと恐れていた時、その雨が止んで太陽の光が輝き始めた時、われわれがほっとした時、現れるのであります。その時にああ、神様はもう二度と全人類を滅ぼすような大洪水を起こさないと約束してくださったのだとわれわれは思い起こすのであります。ここでは、「神が思い起こす」と言われておりますが、本当はわれわれ人間が虹を見て、その神の約束を思い起こすのであります。

 虹は、われわれの感情、われわれの動向と関わりなく、突然わき出るものであります。人間の罪いかんに関わらず、それは大雨の後に突如現れるのであります。人間が悔い改めたら、それは現れるものではない。われわれが真面目になったら、現れるものではない。向こうから現れるものであります。人間の主観に左右されるものでなく、それは客観的な契約のしるしなのであります。もし大洪水を起こさないという神の約束とか契約というものが、われわれ人間の態度いかんに関わっておりましたら、われわれは大変不安であります。しかしそういうわれわれ人間の態度いかんに関わるのでなはく、神の決断に関わっている、その客観的なしるしとして自然の現象である虹を置くというのです。ある意味では、神もまたその自然界の客観的なしるしに拘束されるようにして、全人類を救うということを思い出すというのであります。

 ノアの洪水の記事がこのようにして、ある意味では悲観的なヤハウエ資料の後に、祭司資料がこのようにして置かれていることに、聖書の思想をわれわれは見なくてはならないと思います。人間の罪にも拘わらず、神はどんなことがあっても、人間をお救いになる、神は忍耐して忍耐して、その最後にひとり子であるイエス・キリストをわれわれの罪のあがないとして十字架におつけになって、われわれを救おうとなさったという聖書の思想をここにも見ることができるのであります。