恥を覆う愛」   創世記九章一八ー二九節

 今日学びます聖書の箇所は、大洪水の後のノアの一族の話であります。一族といいましても、ノアの家族の話、父親であるノアとその息子たちの話であります。九章二○節から見ますと、こう記されております。「さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、後ろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸をみなかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知った時、彼はいった『カナンは呪われよ、彼はしもべとなって、その兄弟たちに仕える』」となっております。
 
  「ぶどう酒に酔っぱらって裸でねてしまったノア」

 話そのものは単純であります。ノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらって、裸で寝ていた。それを見てカナンの父ハムがそれを外にいる兄弟に告げた、告げたというのは、いわば告げ口をしたということなのでしょう、つまりお父さんが酒を飲んでだらしない格好で寝ている、と兄弟に告げ口をしたということなのでしょう。ノアはふだんは厳しい父親だったのかも知れません。真面目一徹の人間だったのかも知れません。その父親が酒を飲んで酔っぱらい素っ裸でだらしくなく寝ているということなのかも知れません。それを面白がって、いや軽蔑して兄さんたちに告げ口をしたということなのでしょう。しかし兄さんたちは父親のみっともない裸を見ようとしないで、その恥を覆ってあげたというのです。それを後で知って、ノアはハムのした事をひどく怒ったということなのであります。

ただここの話をわかりにくくしているのは、一八節には、最初「箱船から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。」となっているのに、つまり、ここではハムは末っ子ではないわけです。それなのに、二四節をみますと、末っ子になっている。そしてこのハムはカナンの父である、と注釈がつけられて、二五節以下には、もうハムの名前は出てこないで、カナンの名前しか出ないということなのであります。
 
  「物語の背景にある原因譚」

 それで聖書の注解者はこう説明しております。この話はカナンという民族がイスラエル民族からなぜ憎まれるようになったのかという原因譚の物語だったのではないかというのです。カナンというのは、イスラエルがエジプトから脱出して自分達の故郷であるパレスチナに帰って来た時に、もう四百年近く経っているわけですし、もともとそこはカナン人が住んでいるところですので、カナン人がいるわけです。そのカナン人が住んでいるところに言って見れば強引に入り込んだわけです。当然そのカナン人との闘いがあったわけです。そしてイスラエルの側からすると、カナン人は性的に乱れた民だった。

 レビ記の一八章二四節以下をみますとこう記されているのです。
 「あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。」と記されております。「これらのもろもろの事によって身を汚している」というのは、その前の箇所をみますと、性的な乱れ、汚れであります。近親相姦とかもっとおぞましいことがカナンの地では行われていたといのです。だから先住民であるカナンを征服していいのだというわけです。こうした理屈はイスラエル側の勝手な理屈なのでしょうが、ともかくイスラエルの人々はカナン人を軽蔑し憎んでいたのであります。その理由は性的な乱れにある、その発端がノアが酔っぱらって裸に寝ていたのをカナンが軽蔑したというところにあるのだという事なのです。なぜカナンがイスラエルの民から憎まれ、軽蔑されるようになったかの原因がここにある、という話がここにあるわけです。
 
三四節に、「やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、『カナンはのろわれよ』」とありますが、この「末の子が彼にした事」というのは、ただ父親の裸を見てそれを兄弟に告げ口をしたことだけではなく、この背後にはもっとおぞましいことがあったのではないか、性的な意味でもっとおぞましいことがおこなわれたということが暗示されている、それを聖書は省いてしまったのではないかと、ある学者は推測するのであります。つまり父と息子との同性愛的な近親相姦とか、そういうおぞましい出来事があって、もともとの資料にはそれが記されていたのをそれはあまりにもえげつない話なので、聖書は省いてしまっているのではないかというのです。それでなければ、ただ父親の酔っぱらって裸になっている姿を見て、それを兄弟に告げ口をしたということだけで、こんなに「カナンは呪われよ」という呪いの言葉になるだろうかというわけであります。

  「人の恥にどう対処するか」

 それはともかくとして、あの主の前に正しいとされていたノアは洪水の後、ぶどう酒を飲んで酔っぱらってしまい裸で寝ていたというのであります。多くの聖書の注解者は、彼がぶどう酒を飲んで酔っぱらったこと、そしてその結果素っ裸で寝ていたことは、聖書はなんら道徳的に非難しているわけではない、ここにはそのような道徳的価値判断を持ち込んではいけないと言っております。ノアはある意味では、ぶとうからぶどう酒を造った功労者で、ぶどう酒の発見者だったのだいうのであります。五章の二八節には、レメクの息子であるノアについて、「『この子こそ、主が地を呪われたために、骨折り働くわれわれを慰める者』と言ってその名をノアと名づけた。」とありますが、ノアがぶどうからぶどう酒を造ったことが後の人類にどんなに慰めを与える事になったかをここで言っているのだというのであります。わたしは酒の味がわかりませんので、ぶどう酒がそんなに人間を慰めるものになるのかと思ってしまうのですが、ともかくここでノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらって裸になっていることに道徳的判断をしてはならないというのです。

 しかしそうだろうか。確かに聖書では、ぶどう酒を飲むことは禁じられてはおりません、ぶどう酒は喜びの源泉として、神からの祝福として記されております。それを飲むことはひとつも道徳的に非難されてはおりません、しかし酒に酔ってはならないということはしばしば警告されております。それを考えれば、ぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸で寝ていたということは、やはり非難されるべきことなのではないか。すくなくも、それは恥ずべきことであることは確かだと思うのです。ノアは後でその事を知って大変恥じ、そしてカナンのした事を怒ったのですから、やはり酔っぱらって裸で寝ていたということは恥ずべきことだったのであります。そうでなければこの話そのものが成り立たないのであります。
 問題は人の恥に対して、われわれはどう対処すべきかということなのであります。人の恥をみて、ほくそ笑むか、あるいは、その恥をあげつらってみんなの笑い者にするかであります。カナンはそうしたのであります。しかし兄のセムとヤペテはそうしなかった。着物を肩にかけて、父の裸を見ないようにして後ろ向きに歩みよって、着物でおおってあげたというのであります。

 黙示録の一六章一五節に「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」と言われていて、神様にも裸をそのまま見せるということは恥ずべきことであると言われております。

 創世記の記事によれば、罪を犯す前のアダムとエバは、二人とも裸であったが恥ずかしいとは思わなかったと記されていて、しかし罪を犯した後は、自分たちが裸であることがわかって、イチジクの葉で自分を隠したと記されております。そうしてそのイチジクの葉で自分の恥部を隠すアダムとエバの姿を神は哀れに思って、皮の着物を造ってくださったと記されているのであります。何の罪もない無垢の赤ちゃんが裸であっても少しも恥ずかしいことでもないし、それを見て醜いとはだれも思わないのであります。しかしもはや罪を犯してしまった大人、つまりわれわれが裸でいる事はやはり恥ずかしいことであります。それを開き直ってしまって裸でいることは恥ずべきことであります。われわれは自分の裸に対して恥じらいをもつべきであります。恥じらいを失った人間は醜いのです。神もまたそれは見たくないといわれるのです。「目をさまして着物を着けている者はさいわいだ」と言われるのです。

 自分の罪に気づいた時にわれわれはやはりたとえイチジクの葉であっても、自分の罪をなんとか隠そうとするのは、当然であります。しかし同時にそれはとうていイチジクの葉で隠し通せるものでもないことはわれわれはよく知っているのです。われわれの罪は神から皮の着物を造ってもらっておおって頂く以外にないのであります。キリストの赦しを受けないとわれわれの罪は覆い隠せるものではないのです。だからといって、われわれは自分の罪に、自分の恥部に開き直って、裸でいていいわけはないのであります。
 まして他人の裸をみて、他人の恥ずかしいところを見て、カナンのようにあげつらい、人に告げ口をするということは、人間のもっとも卑しいことであります。それはある意味では、あとでその事を知ったノアがカナンを呪いたくなるのもわかるのであります。
 
  「恥を覆う愛」

 ペテロの第一の手紙には、「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」と記されております。「罪を覆う」というのですから、罪というものが裸の恥と結びつけられて表現されているのであります。

 恥というのは、その時はわからないものであります。それはいつもあとでわかるものであります。ノアは酔っぱらって裸で寝ている時には、自分がどんなに恥ずかしい状態にいるかは気がつかないのです。酔いが覚めた時に始めて、自分がどんなに恥ずかしい状態であったかが分かるものであります。それがどんなに恥ずかしい事であったかは、あとでわかるのです。ですからそれは気がついた時には、もう取り返しがつかないのです。やり直すことはできないのです。ですから、それは人には忘れてもらう以外にない、人におおって黙ってもらう以外にないのであります。ですから、自分の罪を覆ってくれる愛というのは、本当にありがたいのです。自分の恥をあげつらうことをしないで、それを黙っていてくれる、覆ってくれるということは本当に助かるのであります。
 
 罪を犯してしまう時には、自分がどんな悪いことをしているのかわからないものなのです。あとでわかるのです。そしてあとで分かった時には、もう取り消しようがないのです。罪はもうその時には、どんなに後悔してもなくすことはできないのです。ですから、聖書では、神の罪の赦しについて語る時、神はわれわれの罪を覆ってくださるのだとしばしば語るのであります。愛は多くの罪を覆うのであります。その愛はなんと深い愛であるか。罪を犯したわれわれを叱るのでもなく、教育して矯正しようとするのでもないのです。覆ってくださるというのです。もちろんイエス・キリストの十字架の罪の赦しというのは、それだけではないでしょう。それはわれわれの罪を露に暴露し、われわれの罪を厳しく糾弾し、裁くものであります。それはなにかマリヤ様や観音様のように、ただなんとなく包んでくれるような甘いものではないのであります。しかし、愛は多くの罪を覆うと、表現されるように、最後にはキリストの十字架の赦しはわれわれの罪を覆ってくださるという愛なのであります。

 父親のノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸で寝ていると、カナンがうれしそうに兄たちに告げた時に、セムとヤペテは着物をもって、父親の裸を見ないようにして後ろ向きに近づいて行ったという繊細な心の優しさ、それをノアは後で知ってどんなにほっとし、また慰められたかわからないと思います。
 
  「醒めた思いで−慎み深く」
 
 聖書はぶどう酒を飲むことを禁じたりしてはいません。むしろぶどう酒を飲むことは喜びの表現として語ります。しかし同時に酒に酔うなとはしばしば警告しているのであります。なぜ酔ってはいけないのか、それは酔っぱらってしまうという事は自分の姿を見失ってしまうからであります。酒を飲むと大言壮語する人が多いのです。気が大きくなる。自分の本当の姿を見失うのであります。パウロはローマ人への手紙で、「思うべき限度を超えて思い上がることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰に量りにしたがって、慎み深く思うべきである。」と言っておりますが、その「慎み深く」という字はもともとは「酒に酔わないで、素面になって醒めた思いで」という意味であります。酒に酔ってしまうと慎み深さを忘れてしまうのです。自分の限界を忘れてしまう。自分の裸に開き直って、平気で裸をさらけ出してしまうのであります。それはやはりみっともないことであり、恥ずべきことなのであります。